怪談老の杖卷之一 石塔の飛行 / 怪談老の杖卷之一~了
○石塔の飛行
武州多摩郡に本鄕村といふ所あり。此所に西心(さいしん)といふ道心すみけり。本は江戶にてせんざいものなど賣し捧千振(ぼてぶり)にて、若きときは達者なる者なりしが、いかゞしてか、發心して、なまじいの、もの知りだてする出家よりは、殊勝に勤(つとめ)ける。
此本鄕村は中野の南にて、田など、すこしつゞきたる處あり。その東の方の小高き岡ある處より、小さき提燈などの、光り物、飛びいでゝ、向の山へ行(ゆく)とて、日、くるれば、なはてのうちは、人通りなし。誰(だれ)は、
「江戶よりの歸りに見たり。」
誰は、
「用事ありて、隣村へ行とて、見付しが、おびたゞしき光りなり。」
など云ひふらし、西心庵(さいしんがいほり)などにより合ひて、
「ひた」
と噂したり。
かの坊、いふ樣(やう)は、
「ちかきあたりに、左樣の噂あるこそ、やすからね。いつはりとも誠とも見極めぬといふ事は、まづ、村の若い衆(しゆ)の大(おほ)きなる恥辱なり。なんと、今宵、わわらに隨がひて行たまひ、とくと、正體を見屆け給ふまじきや。」
と、いひければ、
「尤なり。さらば、今よりたんぼに出(いで)て、光り物を待(まつ)べし。」
と、若きもの、三、四人、酒など引かけ、かの道心を先にたてゝ、
「いかなる變化(へんげ)なりとも、からめとつて、手柄をみせん。」
など、血氣の者ども、出行けるが、なはての中にむしろなど敷て、
「今や、今や。」
と待けれど、四ツ過までも、化もの出でず、その内、夜は、段々、更けければ、
「せんなき事なり。歸るべし。」
と、いふものありけるを、西心、しかりて、
「旁はともかくも、愚僧におきては、夜あくるまで、この繩手にありて、實否を糺すべし。」と、なを、十間も先の方へ出(いで)て、
「むず」
と坐し、虛空を白眼(にら)んで居たるさまに、皆々も、力を得て、四方山(よもやま)のもの語して居(ゐ)候間、九ツ時とも覺ゆるころ、かの岡の木の中より、大きなる光りもの、
「ぱつ」
と、飛びいづるとひとしく、
「わつ。」
と、いふてにげるもあり。
「それ西心坊、出たは、出たは。」
と、さわぐものも有けるを、西心は、かねて、皆よりは、はるか脇にしづまり返りて居たりしが、いつの間に才覺して來りけん、大きなるたけのこ笠をもて、かの光りものを目あてに、おどりあがりて、うちかぶぜければ、光りは消へて、何やらん、田の中へ、うち落したり。
「やれ、しとめたるぞ、おりあへやつ。」
と呼(よば)はつて、かさのうへより、おさへ居(をり)けり。
皆々、かけあつまりて、てうちんなど、とりよせて見ければ、大きなる石塔のかけを、田の中へ落(おとし)てあり。
「扨は。此ものなるべし。」
とて、すぐに、西心、かろがろと引(ひつ)かたげ來りて、持佛の前へなをし、夜すがら、念佛して、夜あけて見ければ、年號、かすかに見へて、よほどふるき石碑也。
年號を見るもの、
「東山どの時代の年號也。」
と、いへり。
「今にかの西心が持佛のむかふに、かの石塔のかけ、あり。西心が庵(いほり)は、中野のとりつきなり。」
と大和屋なにがし、もの語りなり。
[やぶちゃん注:標題の「飛行」は「ひぎやう」と読んでおく。
「武州多摩郡に本鄕村といふ所あり」東京都中野区本町のこの附近であろう(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「中野町(東京府)」によれば、『江戸時代には中野村・本郷村・本郷新田・雑色村の』四『村があり、天領または旗本および鉄砲玉薬組同心の知行地であった』とある。「今昔マップ」で見ると、明治時代には南部分の神田上水の両岸が田圃であったことが判る。確かに「中野」中心街「の南」である。但し、「今昔マップ」を東に移動してみると、ここに「本鄕」の名を見出せる。ここも現在の中野区本町一丁目であり、その北を見ると、伏見宮邸があり、ここは旧地図でも高台であることが判るから、或いは怪火の出所はこの辺りかも知れない。
「西心」不詳。
「せんざいもの」「前栽物」で青物・野菜類のこと。
「捧千振(ぼてぶり)」室町時代から近世まで盛んに行われていた商業の一形態。笊(ざる)・木桶・木箱・駕籠を前後に取り付けた天秤棒を振り担いで、商品又は諸事勝手のサービスを売り歩く者を言う。「棒手賣」(ぼてふり)「振賣」(ふりうり)とも呼んだ。
「なまじいの」「憖の」。中途半端なさま。なまじっか。
もの知りだてする出家よりは、殊勝に勤ける。
「向の山」先の怪火の出所が判然と特定は出来ないのだが、仮に措定するなら、「向かひの山」は「今昔マップ」の神田上水の右岸のうってつけの地名である「小向」或いはその西の川島にある「正藏院」のある辺りが針葉樹の記号が多く見られ、等高線もやや高くなっている感じがある。
「なんと」「何んと」で感動詞。相談や質問などを相手に持ちかける際に用いる。「どうだ?!」。
「四ツ過」午後十時過ぎ。
「十間」約十八メートル。
「九ツ時」午前零時。
「才覺して」考え、工夫して。
「たけのこ笠」「筍笠」。竹の皮を裂いて編んだ被り笠。丸く大きい。「竹の皮笠」「法性寺 (ほっしょうじ) 笠」とも呼ぶ。グーグル画像検索「筍笠」をリンクさせておく。
「おりあへやつ」最後の「つ」は当時の口語表記で、現在の促音の「っ」。
「てうちん」「提灯」。正しい歴史的仮名遣「ちやうちん」。
「かけ」欠片(かけら)。
を、田の中へ落(おとし)てあり。
「扨は。此ものなるべし。」
「東山どの時代の年號」足利義政のこと。将軍職を子義尚に譲って東山に隠居したところからかく称し、これは生前から既にあった。彼の在位中の年号となら、宝徳・享徳・康正(こうしょう)・長禄・寛正(かんしょう)・文正(ぶんしょう)・応仁・文明(彼の正式な在職は文安六年七月二十八日(ユリウス暦一四四九年八月十六日)の宝徳への改元後から、文明の途中の文明五(一四七三)年十二月十九日(義政が次男の義尚に将軍職を移譲)までが厳密な閉区間となる)となる。
「とりつき」町域が始まる場所。とば口。取っ付き。
「大和屋なにがし」不詳。噂話・都市伝説のお約束の「又聞き」であるが、ちゃんと屋号を出すところにリアリズムがある。]