譚海 卷之三 荒木周平の畫の事
○池野秋平[やぶちゃん注:底本ではここに『別本に荒木周平』と割注するが、目次がそれであることは注されていない。]と云(いふ)者は、祇園のゆりといへる女の聟也。畫事に名有て門人もあまた有。黃檗山の書院に西湖の圖を望まれ、殊に辛苦して西湖の圖ある書(しよ)は、悉く華本を求め集め、大鵬和尙に折衷して書(かき)たり。其裏に五百羅漢の圖を望まれしに、人物には工ならざるゆゑ、山水の人形(ひとがた)にて書たり。水行に數百人、陸行に數百人、雲中に數百人と三行(さんかう)に分ち書たるが、殊に逸筆にして奇絕也といへり。又大鵬和尙は墨竹に名ある人にて、大鵬竹とて賞翫したる事也。又宮常之進といふ京師の人なるが墨竹殊に妙を得たり。第一を常之進、第二を大鵬と定めあへる事なり。一とせ飢饉成しに、常之進へ竹を望む者あれば、米壹斗にかへて書てやりける、常之進が斗竹(とちく)とて稱美せし程の事とぞ。
[やぶちゃん注:前の「宇治黃檗山」をまず参照されたい。
「荒木周平」「池野秋平」前者は不詳。後者は南画家・書家の名匠池大雅(いけのたいが 享保八(一七二三)年~安永五(一七七六)年)の通称「池野秋平」(いけのしゅうへい)を名乗った。彼には数多くの雅号があるが、前者は見当たらない。彼は京都銀座役人の下役の子として生まれ、七歳から本格的に唐様の書を学び始めたが、習い始めたばかりの頃、萬福寺で書を披露し、その出来栄えに僧たちから「神童」と絶賛された。柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出され、文人画を伝えられ、中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風や、本邦の風景を軽妙洒脱な筆致で描くなど、作風は変化に富む。彼は中国渡来の画譜類のみならず、室町絵画や琳派、更には西洋画の表現をも取り入れ、独自の画風を確立した(以上は主に当該ウィキに拠った)。
「祇園のゆりといへる女」池大雅の妻池玉瀾(ぎょくらん 享保一二(一七二七)年~天明四(一七八四)年)。夫と同じく画家で歌人・書家としても知られた。本名は町(まち)、旧姓は徳山。当該ウィキによれば、『京都祇園の茶屋・松屋の女亭主の百合と旗本の徳山秀栄との間に生まれ』た。『玉瀾は幼時から茶屋の常連客だった柳沢淇園に絵を学び、彼の別号である「玉桂」から一字とった「玉瀾」の号を授けられた』。『弟子の一人の池大雅を彼女に紹介したのも淇園だった』。『玉瀾の夫の大雅は、南画の画風を彼女に教え』、『また、夫婦ともに和歌を冷泉家より学んだ』。『玉瀾と大雅は互いに影響を及ぼし合って、一緒に芸術を創り出した。女性が依然として男性より劣っていると広く考えられていた当時の日本では、これは非常に珍しいこと』で、『玉瀾は、当時の既婚女性では一般的だった引眉をしていないこと』も『注目される』。『大雅は生前、自分の死後に彼女が困窮することがないようにと書画を数多く制作しており、そのため』、安永五(一七七六)年に『夫が没した後も、玉瀾は不自由することなく生活を送った』。『なお、玉瀾は大雅の葬られた浄光寺ではなく、母の百合が眠る金戒光明寺の塔頭・西雲院に埋葬されたが、その理由については不詳である』。『フィラデルフィア美術館長アン・ダーノンコートによれば』、「十八世紀の日本の女性が画家であることは非常にまれだった」』記す。『玉瀾と夫の大雅は、作品を作り、金をかけずに生活し、時には作品の合作に専念した』。『彼女は京都の祇園社の隣の小さな小屋で大雅と一緒に住んでいた。玉瀾は、屏風絵や襖絵、巻物、掛け軸、扇絵などを描いた』。『祖母の梶子、母の百合、町(玉瀾)の』三『人で祇園三女として知られ』、明治四三(一九一〇)年には三人の歌が「祇園三女歌集」として『出版された。時代祭の江戸時代婦人列には、祖母の梶子と共に登場する』。『大雅夫妻の有名な逸話に、大雅が難波へ出かけた際に筆を忘れていったのを玉瀾が見つけると』、『これを持って走り、建仁寺の前で追いついて渡すことができたが、大雅は筆を押し頂くと「いづこの人ぞ、よく拾ひ給はりし」と答えて別れ、彼女も何も発言することなく帰宅した、というものがある』。『玉瀾は栄誉や恥辱をものともしない大雅の行いに付き従い、彼が三弦を演奏して歌えば彼女は筝を弾いて歌った』。『二人で一日中』、『紙墨に向き合い、音楽や酒を楽しみ、釜や甑が埃をかぶっても落ち着いており、その様は後漢の梁伯鸞の妻・孟光にたとえられた』。『夫婦ともに欲の少ない性格で、他人から謝礼金を受け取っても』、『紙包みを開かぬまま屑籠に入れておき、必要な時にそこから取り出して用いていたという』。『また、大雅の家に宿泊し、その晩に垢で汚れた甲斐絹布団を提供された客人が、夫妻の部屋を見てみると、大雅は毛氈にくるまり、玉瀾は反故紙の中で眠っていたとも伝わる』。『和歌を学ぶため』、『夫とともに初めて冷泉家に参上した際、場所柄から、同家の女房らは「玉瀾」という名の美しさから』、『どのような婦人だろうかと待っていたところに、糊の強い木綿の着物を着』、『魚籠』(びく)『を提げた、裸足の大原女のような姿をした玉瀾が現れたため、人々は大いに驚いたという話も伝わる』。『大坂文人の木村蒹葭堂』(既出既注)は、十三歳の時の寛延元(一七四八)年に『大雅と面会したことを後に回想しているが、玉瀾については「年の頃二十二三歳にして顔は丸顔のさして美しといふ程にもあらねど、人並勝れたる面色何処となく気高き処ありて、さすがは百合の娘と思はるるばかりなりし、後年玉瀾女史とその名天下に高く聞え、大雅堂と共に人に称せらるるやうになりたるは、珍しき事と謂ふべし」と振り返っている』とある。
「華本」中華の画本。
「五百羅漢の圖」「京都国立博物館」公式サイト内の「五百羅漢図」がそれであろう。但し、その解説には、『池大雅』『と万福寺の因縁は浅からぬものがある。大雅』七『歳の折、中国人住持杲堂(こうどう)の前で大書をなし、「神童」と称賛されたのである。本図は、もと襖絵で、大雅が万福寺東方丈に揮毫した障壁画群の一部をなす。従来は』明和二(一七六五)年に『十代目住持大鵬が退隠したときの作品と考えられていたが、近時、それよりもおそく明和』九『年の隠元和尚百回忌に東方丈が改修されたのを契機として制作された、とする説が有力になっている。また、「羅漢図」』八『面のうち一部に指墨がつかわれているともいわれていたが、見たところすべてが、指墨と判ぜられることを付け加えておこう』とある。リンク先では全幅を見ることが出来る。
「三行に分ち書たる」三種のシチュエーション(様態)別に分けて描いた。
「宮常之進」江戸中期の儒学者で詩画もよくした宮崎筠圃(いんぽ 享保二(一七一七)年~安永三(一七七五)年)は、名は奇、字は子常、通称は常之進。享保二(一七一七)年に尾張国海西郡鳥池村にて宮崎古厓の長男として生まれ、十八の時、両親とともに京に移り、儒者伊藤東涯(儒者伊藤仁斎の長男)に師事して学び、東涯没後は、東涯の弟伊藤蘭嵎(らんぐう)に師事した。詩画も得意としたが、特に墨竹画に関しては、当時、山科李蹊・御園中渠・浅井図南(となん)とともに「平安の四竹」と称された。しかし、画名が高まった結果、「人から儒者ではなく、画工と見られている」と母に諌められ、筆を折り、その後、終生、画筆をとることがなかったという。また、俗習に染まらず、世情に疎い人物であったとされ、ある日、雨に降られた筠圃が、慌てて駆け込んだ軒下が娼家であった。娼家の妓たちは、しきりに「お入り、お入り」と筠圃を招いた。筠圃は客引きされたと分からず、帰宅してから、弟子たちに、「傘を貸そうとしたのだろう。仁というものは実に人の固有である」などと語ったことから、以来、弟子は筠圃を「仁先生」と綽名したという逸話が残されている。備考録・論考・詩文集数巻を著したが、いずれも成稿に至らず、終わった(当該ウィキに拠った)。]