譚海 卷之三 波の宮御哥
○惇信院公方樣御臺所は波の宮と申奉る、閑院の宮の姫君にや。關東御下向の時隅田川へ御船遊山ありし時の御歌に、
思ふ事なき身ながらも故鄕の猶なつかしき都鳥哉
[やぶちゃん注:和歌は前後を一行空けた。
「惇信院公方樣御臺所」第九代将軍徳川家重(在任:延享二(一七四五)年~宝暦一〇(一七六〇)年)の将軍世子時代に迎えた御簾中(ごれんじゅう:原則、江戸時代の将軍の世子と御三家の正室を呼ぶ際のみに用いた)増子女王(ますこじょおう 正徳元(一七一一)年~享保一八(一七三三)年)。伏見宮邦永親王第四王女。幼称は比宮(なみのみや)。院号は證明院(しょうめいいん)。享保一六(一七三一)年に家重と数え二十一で婚姻し、江戸城西御丸に入って「御簾中様」と呼ばれた。翌年の享保一七(一七三二)年には家重と船で隅田川を遊覧した。翌享保十八年に懐妊したものの、九月十一日に早産し、生まれた子は、まもなく死去し、増子も産後の肥立ちが悪く、十月三日に二十三歳で死去した。寛永寺に葬られ、従二位が追贈された。戒名は證明院智岸真恵大姉。家重はその後、二度と正室を迎えることはなかった(以上はウィキの「増子女王」に拠った)。]