譚海 卷之三 南天坊天海
○南光坊天海師は、信長比叡山を燒討にせられし時住山(ぢゆうざん)にて、大師の像を奉じ衆徒を隨へて離山有、後に東照宮・台德院公方(たいとくゐんくばう)樣等に隨參らせて、兩御所殊に御信仰にて、國家の事をも御相談有、林道春ともに天下の綱常(かうじやう)を定め制せられけり。遷化の後(のち)慈眼大師と贈號有、東叡山に收葬して廟を建、兩大師と稱して月々三十六坊に迎へ、崇敬し侍るもことはり成(なる)次第也。國家太平の惠をうけ安樂に住するも、且は大師の德莫大成(なる)事と云べし。諸人の崇敬年を逐(おひ)て增(まさ)り、吉凶事に付て御鬮(みくじ)を得て決斷するに違(たが)ふ事なし。後世の利益ますますいちじるしきも有がたき事也。
[やぶちゃん注:「南光坊天海」天海(天文五(一五三六)年?~寛永二〇(一六四三)年)は天台僧・大僧正。南光坊は尊号で、院号は智楽院、諡号は慈眼大師(じげんだいし)。徳川家康のブレーンとして幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。陸奥国会津出身とされるが、前半生は謎に包まれており、未だに判らない。徳川家康・秀忠・家光の三人の将軍に仕え、特に家康の懐刀(ふところがたな)と称された。十一歳で出家し、当初は随風と称した。十四歳で比叡山に登り、その後、三井寺や南都の諸寺を遊学、元亀二(一五七一)年に延暦寺が織田信長の焼打ちに遇うと、山門の衆徒を引き連れ、甲斐の武田信玄のもとに身を寄せた。天正五(一五七七)年には奥州会津の蘆名氏のもとに移り、天正一八(一五九〇)年には豊臣秀吉の「小田原の陣」に赴いて、秀吉に従った。この年、常陸不動院を復興、慶長四(一五九九)年に武蔵国仙波喜多院(埼玉県川越市にある星野山(せいやさん)喜多院。平安時代の天台僧慈恵(じえ)(元三)大師良源(延喜一二(九一二)年~永観三(九八五)年)を祀り、「川越大師」の別名で知られる。ここ(グーグル・マップ・データ))に入り、次いで下野の宗光寺に入った。天海の令名をきいた徳川家康は、慶長一二(一六〇七)年、比叡山の探題奉行に任命し、この時、東塔の南光坊に住んでいたので、後に南光坊天海と呼ばれた。翌年、家康の招きで駿府に赴き、慶長一七(一六一二)年、家康の指示により、仙波喜多院を修造して関東天台宗の総本山とし、東叡山と号した。二年後、豊臣秀頼が東山方広寺に大仏を再建し、巨鐘を鋳造すると、家康方の黒幕としていわゆる「鐘銘事件」に関わり、「大坂の陣」の戦乱を開く契機をつくった。元和二(一六一六)年、家康の死去に伴い、葬儀の導師となり、久能山に葬った。同年七月、大僧正。翌年、天海の指示で家康の遺骨が日光山に移された。寛永二(一六二五)年、江戸上野に東叡山円頓院寛永寺を開き、関東天台宗総本山とし、これまでの中核であった喜多院を元の山号星野山に戻し、その権限を寛永寺に移した。寛永一四(一六三七)年には寛永寺において活字版「大蔵経」の開板を開始し、十二年を経て、慶安元(一六四八)年に完成させ、世に「天海版」と称される。但し、天海はこの完成の三年前に伝百八歳で示寂した。天海の業績は大別して二つあり、一つは家康の葬儀での活躍、今一つは天台宗の宗勢拡大であった。家康の葬儀に際しては、山王一実神道を以って権現号で祀ることを主張したが、今一人の家康の宗教ブレーンで「黒衣の宰相」の異名を持った臨済僧以心崇伝(いしんすうでん 永禄一二(一五六九)年~寛永一〇(一六三三)年)が従来通りの吉田神道により明神号で行うよう主張して、対立した。結局、天海の主張通り、東照大権現の神号が附され、幕府内部に不動の地位を確保した。天台宗の宗勢拡大については、まず、将軍の権力を背景にして寺院法度の起草に参画、中世的宗教権力の集中していた比叡山の勢力削減する一方、別に関東天台宗の本山を草創して宗内の総本山としたことである。次いで、これを軸として本寺・末寺の制度を強化して幕府によす宗教支配を堅固なものにした。また、他宗寺院の改宗や、すでに廃寺となっていた古跡寺院を復興、数多くの寺を天台宗の寺院として組み込んだりもしたことから、天台宗中興の祖とも言える人物であった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。なお、経歴の不詳から、昔から足利義晴の子という説や、明智光秀と同一人物とする説があるが、後者はあるテレビ番組で、光秀と天海の筆跡鑑定を行い、全く別人と言う結果が出たのを見たことがある。
「台德院公方」第二代将軍徳川秀忠。
「林道春」林羅山。前項で既出既注。
「綱常」「綱」は「三綱(儒教で君臣・父子・夫婦の守るべき在り方)、「常」は「五常」(同前の基本的な人倫の五つの実践徳目。君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序・朋友の信)で、「人の踏み行うべき道」の意。
「兩大師」東叡山寛永寺の開山慈眼大師天海大僧正と、天海が尊崇していた慈恵大師良源大僧正。二人を祀るのが、寛永寺開山堂である。
「三十六坊」寛永寺を構成する子院の総称。嘗ては上野の山一帯が寛永寺の敷地で、寛永寺の敷地内に構える子院の数は最盛期には実際に三十六あった(現在は十九)。]