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2021/02/05

芥川龍之介書簡抄9 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(2) 山本喜譽司宛(ビアズリーのワイルド「サロメ」の挿絵の「舞姫の褒美」の部分模写添え)

 

明治四五(一九一二)年七月二十一日・相模國高座郡鵠沼村加賀本樣方 山本喜譽司宛(自筆絵葉書)

 

The-dancers-reward

 

ひどい暑さです あまり暑いのでどこへもゆく氣にならない位です 昨日平塚がきました あんでるせんの御伽噺をよんでゐると云ふのが大へんかあゆさうでした、僕はひるねばかりしてゐます 目のさめてる時はくれおぱとらとあんとにいをよんでます 暑いのを我慢をして芝居をみに行つたら長距離競爭をした時ほど汗をかいたのでそれからやめにしちまいました 朝早く海へはいつて人魚に kuß でもして貰ひ給へ さようなら

                  龍

 

[やぶちゃん注:挿絵は所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)の原葉書のカラー画像をトリミングした。本芥川龍之介の模写(原画とは細部に有意な違いが認められる)スケッチのカラー版はそうそう見ることがない。私は上記の展覧会で現物を見た時、「彩色なんだ!?!」と思わず声を挙げたのを思い出す。というより、モノクロ版でさえ、ネット上では見かけないので、以前から甚だ残念に思っていた。ここに首尾よく私の憂鬱は完成した。

 絵の皿の脚の左右に芥川龍之介によって組み込まれた英文は、

 

THE

    MYSTERY OF LOVE

       is greater

than that OF LIFE.

           WILDE.

 

である(後述)。訳そうなら、「愛の謎は人生の謎よりも大きい」か。

 これは言わずもがな、アイルランドの詩人・作家・劇作家オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde 一八五四年~一九〇〇年)が一八九一年にフランス語(これはフランス語の発音の持つ独特の音楽性に惹かれたことによるとワイルドは言っている)で書き、一八九三年にパリで出版された戯曲「サロメ」(Salomé)の英訳版(フランス語版の翌年に刊行)に入った、知られたヴィクトリア朝の世紀末美術を代表するイギリスのイラストレーター(詩人・小説家でもあった)オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley 一八七二年~一八九八年)の有名な挿画群の中の、恐らく最も知られた一枚で、近親凌辱の血にまみれたユダヤ王エロドから、舞いの褒美として彼女の恋を拒絶した預言者ヨカナーン(フランス語:Iokanaan(Jean le Baptiste:バプテスマ(洗礼者)のヨハネ))の首を断固要求し、銀の皿に載せられて運ばれてきたそのシーン(本文挿絵の終わりから三枚目)を元にしたものである(但し、本作のビアズリーの挿絵は作品に忠実な挿絵ではなく、中には明らかに無関係な、ワイルドを嘲笑してカリカチャライズしたものさえ含まれている。それでも私は甚だ偏愛しているが)。同挿絵の全体は以下である。同作邦文ウィキの中型の画像をダウン・ロードした。

 

751pxaubrey_beardsley__the_dancers_rewar

 

 因みに、同作の英訳出版は当時のワイルドの同性の恋人であったイギリスの作家ロード・アルフレッド・ブルース・ダグラス(Lord Alfred Bruce Douglas 一八七〇年~一九四五年)が担当したものの、訳の出来が甚だ劣悪であったためにワイルド自身が「失望した」と言って翻訳を修正している。また、「サロメ」は、そのテーマの「聖書」を穢す激しい背徳性という理由から、公演の禁止令が出され(フランスの名女優サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 一八四四年~一九二三年がロンドンのパレス・シアターで公演に向けて稽古を始めた直後であった)、イギリスでは一九三一年まで、実に四十年間、上演が出来なかったいわくつきの作品でもある。初演はパリで一八九六年二月であったが(主演不詳)、ワイルドは既に獄中にあった。ワイルドはこの前年四十一歳の時、ダグラスの父第九代クイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラスに告訴の応酬の果てに敗れ、猥褻罪で投獄され、破産宣告も受けていた。一八九七年に出獄したが、晩年は獄中詩篇を刊行した程度で、既に「過去の人」となっていた。

 このスケッチに添えられた英文は、「サロメ」の終局で、サロメがヨカナーンの首に延々と語りかけ、接吻をする直前の最後の台詞の終わりの(太字は私が附した)

   *

I was a princess, and thou didst scorn me. I was a virgin, and thou didst take my virginity from me. I was chaste, and thou didst fill my veins with fire.... Ah! ah! wherefore didst thou not look at me, Jokanaan? If thou hadst looked at me thou hadst loved me. Well I know that thou wouldst have loved me, and the mystery of love is greater than the mystery of death. Love only should one consider.

   *

death」を「life」に変えたものである。一九五九年岩波文庫刊の福田恆存訳「サロメ」から部分引用しておく。太字は私が附した。

   《引用開始》

あたしは王女だつた、それをお前はさげすんだ。あたしは生娘だつた、その花をお前は穢してしまったのだ。あたしは無垢(むく)だつた、その血をお前は燃ゆる焰で濁らせた……あゝ! あゝ! どうしてお前はあたしを見なかつたのだい、ヨカーナン? 一目でいゝ、あたしを見てくれさへしたら、きつととしう思うてくれたらうに。さうとも、さうに決まつてゐる。戀の測りがたさにくらべれば、死の測りがたさなど、なにほどのこともあるまいに。戀だけを、日とは一途に想うてをればいいものを。

   《引用終了》

 さて。新全集宮坂年譜を見ると、この書簡の日附から八日前の七月十三日に、龍之介はオスカー・ワイルドの『Lord Arthur Savile's Crime, the Portrait of Mr. W. H. and other Stories』を読了した、とある。これは「アーサー・サヴィル卿の犯罪」という一八九一年にワイルドが刊行した中短編小説集の改版で、「W. H. 氏の肖像」という一篇が追加挿入された版である。かくも、龍之介がワイルドの熱烈なファンだったことが判る。

 さらにダブルで、まだ、大事なことがあるのである。それは、まさにこの年、この書簡から四ヶ月後の、改元して大正元年十一月十一日に、龍之介は級友の井川恭・久米正雄・石田幹之助とともに、横浜にあった横浜ゲィティ座へ赴き、イギリス人一座の演じた、まさにワイルドの、この「サロメ」を観劇しているのである。しかも、その思い出を、芥川龍之介は十三年も経った最晩年、大正一四(一九二五)年八月発行の雑誌『女性』に『「サロメ」その他』の標題で、『一「サロメ」』「二 變遷」「三 或抗議」「四 艶福」として掲載しているのである(これは後に最初の『一「サロメ」』の項だけを独立させて、『Gaity座の「サロメ」』という標題で、翌大正十五・昭和元(一九二六)年十二月に発行された生前最後の作品集(実際にそのような意識で編されたものと言われる)随筆集「梅・馬・鶯」に所収された)。無論、ぬかりはない――Gaity座の「サロメ」――「僕等」の一人久米正雄に―― 附やぶちゃん注」を参照されたい。また、新全集の宮坂年譜によれば、相当に、この「サロメ」には入れ込んでいたらしく、この日横浜に宿泊し、翌十一月十二日には、『横浜沖大演習観艦式を新子安の丘に登って見』た後、その『夜、イギリス海軍ミノトール艦のオーケストラが加わった「サロメ」を再び観る』とある(前日のメンバーと一緒であったかどうかは不明)。なお、今回、上記電子化注に記した英文学者佐々木隆氏のページに「書誌から見た日本ワイルド受容研究(補遺)」として、新たに「大正時代のワイルド劇」(平成27年3月)という資料(PDF)が追加されているのを発見、それを読むと――芥川龍之介がゲイティ座で行われたアラン・ウィルキィ一座の「サロメ」を観劇したのは十一月九日一回きりしかあり得な――という驚くべき結論が示されてある。

「平塚」既出既注であるが、「大へんかあゆさうでした」の意味が判るように再掲しておく。府立三中時代の親友平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。この後、岡山の第六高等学校に進学したが、ここで「肋骨はぬかずにすンだ」(気胸術式を指す)で判る通り、結核で出戻ってきて、後に千葉の結核療養所で亡くなった。芥川龍之介は後の大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)発行の雑誌『女性』に発表した「彼」(リンク先は私の詳細注附きの電子テクスト)の主人公「X」はこの平塚をモデルとしたもので、その哀切々たるは、私の偏愛するところである。或いは、龍之介が「death」を「life」に変えたのも、彼への龍之介流の優しさ故かも知れぬ。

「くれおぱとらとあんとにい」かく記しているが、シェイクスピアの戯曲「アントニーとクレオパトラ」(Antony and Cleopatra)であろう。確信犯で、「サロメ」に合わせて、わざとクレオパトラを前に出したものと思われる。

「芝居」時期が半月以上前になるが、先に示した明治四五(一九一二)年六月二十八日附井川恭宛に出た通り、六月二十六日にバンドマン喜歌劇団のオペレッタ「The Quaker Girl」を帝国劇場で観覧している。この日が暑かったとは書いていないが、この劇団の公演は毎日出し物が変わると書簡に龍之介は書いており、また、英語が予想以上に聴き取れなかったことに若干の不満を抱いている感じがある。されば、年譜にはないが、或いは、その後に同じ劇団の別な芝居を見に行った可能性は十分にあるのではないか? 先の和歌山県立図書館刊『南葵音楽文庫紀要』第二号PDF)の「資料紹介」によれば、バンドマン喜歌劇団は同じく帝国劇場で、六月三十日に「ダラー・プリンセス」(The Dollar Princess)という日本初演のそれを上演している。例えば、この日が甚だ蒸し暑い日であったとして、それから七月上旬が暑さが続いたとすれば、私は腑に落ちるのである。

「それからやめにしちまいました」「外出するのは」の意であろう。

「kuß」「クス」。ドイツ語で「接吻」の意。最後に「サロメ」に引っ掛けたのである。]

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