怪談登志男 廿二、妖怪浴溫泉
怪談登志男卷第五
廿二、妖怪浴二溫泉一
江州安土(あつち)の城は、天正四年丙子[やぶちゃん注:「ひのえね」或いは「へいし」。]の二月、普請、成就し、其頃の武將の御居城にて、要害堅固の地なり。
此城の面の小屋に、極めて妖物(ばけもの)出る[やぶちゃん注:「いづる」。]長屋ありけり。側に、底深き井戶あり。此ゆへに「井戶端(はた)の小屋」とて、勤番の侍も、此所には剛氣(かうき)の人ならでは、住事[やぶちゃん注:「すむこと」。]、なかりし。
天正七年の秋の頃、氏家(うじへ[やぶちゃん注:原本のママ。後も同じ。])武者之助とて、大剛(かう)の武士、兼て妖物の事、聞及ければ、
「面白きことこそあれ。」
と、所望して、此小屋に住しが、廿日ばかりが程、何の怪しき事もなかりしに、ある夜、厠(かはや)に行、戶をあけ、内に入て見れば、誰やらん、内にありて、物も、いはず。
尋常(よのつね)の人ならば、恐れもすべきに、元來、大膽(たん)成[やぶちゃん注:「なる」。]男なれば、
「此厠は我ならで來る[やぶちゃん注:「きたる」。]ものなし。外より來る人のあるべくもなし。定めて古(ふる)狐殿の御遊興(ゆうけう)とこそ覺ゆれ。ひとちそう[やぶちゃん注:「一馳走」。]、仕ベし[やぶちゃん注:「つかまつるべし」。]。」
と、つぶやき、立歸りて、刀を帶(たい)し、手燭(てしよく)、取て、又、厠の戶を開きて見れば、大牛一疋、狹(せま)き所を輾(きしり)て蟠(わたかま)る。
眼の光り、すさまじく、前足を折て、臥(ふし)居たるを、手燭を投捨(なけすて)、拔打(ぬきうち)に疊掛(たゝみかけ)て、切付る[やぶちゃん注:「きりつくる」。]。
太刀音[やぶちゃん注:「たちおと」。]、臺所に臥(ふし)たる若黨(わかとう)侍、火を灯(とも)して駈(かけ)來るを、
「何の仔細もなかりしぞ。入て休め。」
と云付、厠を見るに、何もなし。
手答(こたへ)は、ありけれども、血(のり)も、ひかず。
「本意(ほい)なき事。」
と、おもひながら、緩々(ゆるゆる)と閑(かん)所[やぶちゃん注:厠の雅名。]にありて用を足し、庭など見𢌞し、閨(ねや)に來りし。
其後、何のあやしびも、なし。
爰に、武者之助が斷金(だんきん)の友に、玉川の某[やぶちゃん注:「なにがし」。]といふ侍、兼々、持病の申立にて、江州より發足(ほつそく)し、攝津國有馬の溫泉に至り、「かやの坊」といふに舎(やと)り、溫泉に浴(よく)する所に、板壁一重(へ)隣(となり)の湯舩に、人の來る音す。
穴、ありて、あなた此方(こなた)、互(たがい)に見通したるに、其隣なる湯に入たるは、撫付頭(なでつけあたま)の大男なり。今、一人も、甚、逞き[やぶちゃん注:「たくましき」。]大の法師の、仰々敷(ぎやうぎやうしく)鉢卷し(はちまき)して、二人一同に入ぬ。撫付がいふ樣、
「足下(そこ)は、何ゆへ、事々敷(しき)鉢卷ぞや。」
と、問ふ。
法師、答て、
「さればとよ、詮なき所へ參りし故、餘程、怪我(けか)を致せしゆへ、かくのごとし。」
と、答へり。
「その疵(きす)は、何者の所(しよ)爲にや。」
と、問ぬ。
「是は、江州安土の氏家(うぢへ)武者之助めが、しわざなり。是、御覽あれ。」
と、鉢卷を取しを見れば、眞頭(まつかう)、二所迄、切られたり。
「扨も。危(あやう)し。」
など、評判して、出行ぬ。
玉川氏、
「心うき事を聞くもの哉。日ごろ、斷金の友なる武者之助、若(もし)、徃來にて喧嘩などせしか。首尾、心もとなし。」
と、おもへば、兼て、此あたりの名所舊跡をも尋𢌞らんと、志(こゝろざし)つれど、此事、心にかゝり、早々、歸り、まづ、武者之助が宿所へ立越けるに、何のかはれる風情もなければ、湯治の間の物語、件(くだん)の法帥が事、語り出ければ、武者之助、橫手を打て、厠の妖怪を咄[やぶちゃん注:「はなし」。]、彌[やぶちゃん注:「いよいよ」。]、不審、はれやらず。
されど、
「怪力亂神(くわいりよくらんしん)は、ひじりの掟にて、語らぬ事なり。是は、此座、際(きり)。」[やぶちゃん注:底本では「際」は「限」であるが、原本で訂した。]
と、互たがひ)に口を閉(とぢ)て、語ることなかりしが、はるかに代[やぶちゃん注:「よ」。]うつり、歲を經て、慶長の末にいたり、玉川氏、長生して、東國に下り、
「此物語も、昔を忍ぶ、一つぞ。」
と、ある剱術者(けんじゆつしや)に語りけるとぞ。
[やぶちゃん注:標題「妖怪浴二溫泉一」(原本には訓点なし)は本文内表現に合わせて「妖怪、溫泉に浴(よく)す」と訓じておく。
「江州安土(あつち)の城」琵琶湖東岸の近江国蒲生郡安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町(ちょう)下豊浦(しもといら))にあった安土城(あづちじょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、天正四(一五七六)年一月に織田信長が、総普請奉行として丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始している。天正七(一五七九)年五月には完成した天主に信長が移り住んでおり、同年頃に落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスが著書「日本史」に記している。天正一〇(一五八二)年五月十五日には、明智光秀が饗応役となった徳川家康の接待が行われて、光秀が打擲される事件が起き、同二十九日の京都本能寺にて信長が光秀の謀反により自害した「本能寺の変」の際には、蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、信長の自害後、信長の家臣であった蒲生賢秀(かたひで)・氏郷父子が本拠地日野城に信長の妻子らをここ安土城から移動させ退去した。その後、明智軍が安土城を占拠したが、「山崎の戦い」で光秀が敗れた後、天主とその周辺の建物(主に本丸)が焼失してしまう(焼失の経緯や理由については諸説あるが、不明)。「本能寺の変」以降も、暫くは織田氏の居城として信長の嫡孫秀信が「清洲会議」の後に入城するなど、主に「二の丸」を中心に機能してはいた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、天正一三(一五八五)年を以って廃城されたと伝わっている。以上から、本話を事実として仮定した場合、「天正七年の秋の頃」とあるので、まさに信長が移り住んだその年の秋という絶妙のタイミングに設定してあることが判る。ごく近年に起こったとするものが多い本書の中では、一つの古い中でも知られたメジャーな時制とロケーションということになる。
「氏家(うじへ)武者之助」不詳。この読みは現在の氏家姓でも「うじえ」として存在する。
「輾(きしり)て」まろび、転がって。
「若黨(わかとう)侍」「わかたうざむらひ」。若い従者。江戸時代には、武家で、足軽より上位の小身の従者を指した。読者もそれで読んだことと思われる。
「本意(ほい)」実際には原本(左頁三行目)では「本」のそれは、何か書かれてはいるものの、判読は出来ない。私の趣味で「ほんい」ではなく、「ほい」とした。
「斷金(だんきん)の友」『「斷琴の友」の誤りであろう』などと、知ったぶって揚げ足を取ると、致命的な怪我をする。「二人が心を合わせたならば、金属をも切断するほどに固く結ばれた友情である」ことの喩え。「易經」の「繫辭上傳」の孔子の解説に、「君子之道、或出或處、或默或語。二人同心、其利斷金、同心之言、其臭如蘭」(君子の道は、或いは出(い)で、或いは處(を)り、或いは默し、或いは語る。二人、心を同じうすれば、其の利(と)きこと、金を斷つ。同じい心の言(い)ひは、その臭(かを)り、蘭のごとし)に基づくので、「斷琴」より遙かに古いからである。
「かやの坊」不詳。但し、有馬温泉は入湯の宿屋を今も多く坊名で呼ぶ。
「橫手を打て」「横手(よこで)を打つ」は、感心したり、思い当たったりした際になどに、思わず、両方の掌を打ち合わすことを指し、中世後期以降の文章では頻繁に登場する。
「怪力亂神(くわいりよくらんしん)は、ひじりの掟にて、語らぬ事なり」「論語」の「述而篇」の「子不語怪力亂神」(子、怪力亂神(かいりきらんしん)を語らず)に基づく語。「怪」は尋常でない事例を、「力」は粗野な力の強さを専ら問題とする話を、「亂」は道理に背いて社会を乱すような言動を、「神」は神妙不可思議、超自然的な人知では解明出来ず、理性を以ってしても説明不能の現象や事物を指す。孔子は「仁に満ちた真の君子というものは怪奇談を口にはしない、口にすべきではない」と諭すのである。しかし、この言葉は実は逆に、古代から中国人が怪奇現象をすこぶる好む強い嗜好を持っていたことの裏返しの表現であることに気づかねばならぬ。
「慶長の末」慶長は二十年までで、一五九六年から一六一五年まで。慶長八年に江戸幕府が開府している。慶長二十年とすると、天正七(一五七九)年からだと、三十五年ある。玉川氏が二十代から三十半ばぐらいだったとすれば、不審ではない。]
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