怪談老の杖卷之一 幽靈の筆跡
○幽靈の筆跡
泉州貝塚の近きわたりに、尾崎といふ處あり。此所を開きし人は、「難波戰記」に載せし吉田九右衞門といふ者也。今も代々九右衞門とて、大庄屋なり。其始祖は鳥捕氏(ととりうぢ)にて、上古より綿々と打續き、南朝の時は南源左衞門尉と稱し、代々、歷々なり。
此一族に玉井忠山といへる隱士あり。殊の外の異人にて、詩作など好み、紀三井寺(きみゐでら)の住職など、詩の友なり。
五十餘の年、廻國の志しにて、國を出(いで)、東武ヘ來りて、予も知る人になりしが、り、つゝがなく國々をめぐりて故鄕へ歸り、間もなく、重病をうけて、終りける。
死後、間もなき事なるが、近鄕の庄屋六郞左衞門といふ者の家へ來れり。
平生にかはる事なく、案内を乞て、
「忠山なり。御見舞申す。」
と云ひ、入(いり)ければ、六郞左衞門、聞(きき)て、
「其意を得ぬ事かな。忠山は、『此程、死(しな)れたり』ときゝて、知りたる中に、野邊の送りにまで出(いで)あふたる人、慥(たしか)にあり。人たがひなるべし。」
と、玄關へ出むかひてみれば、ちがいなき[やぶちゃん注:ママ。]、忠山なり。
紬(つむ)ぎのひとへものに、小紋の麻の羽織を着、間口をさし、法體(ほふたい)の姿、世に在りしときに、かはる事なし。
六郞左衞門を見て、
「久しう御座る。」
と、
「につこり」
と笑ふ體(てい)、六郞左衞門も氣情(きじやう)なるすくやか者なれど、是ばかりは、衿もと、
「ぞつ」
と、したるが、
『子細ぞあらん。』
と、まづ、書院へ伴ひ、茶を出せば、とりてのむ事、平生の如く、盃を出しければ、
「酒は給(た)べ申さず。」
とて、何もくはず、どこやら、影もうすく、あいさつも間(ま)ぬけたり。
主人、いふ樣(やう)、
「そこには、御大病ときゝて、いか計(ばかり)、案じたり。まづ、御快氣の體(てい)、大慶に存候(ぞんじさふらふ)。」
と、いひければ、このとき、うち笑ひて、
「それは、貴殿のあいさつとも覺えず。某(それがし)が死したる事は存じなるべし。此世の命數盡(つき)て、黃泉(よみ)の客とはなりしかど、こゝろにかゝる事ありて、暫く存生(ぞんしやう)の姿をあらはし、まみへ申すなり。一族どもの中にも、こゝろのすはりたる者なければ、おそれおのゝきて、事を記するに足らず。そこには、こゝろ、たくましく、理(り)にくらからぬ人なれば、申すなり。我が死(しし)たる跡式(あとしき)の事は、かきおきの通(とほり)取計(とりはから)ひくれたれば、おもふ事なし。しかし、戒名に、二字、こゝろに叶はぬ字あり。菩提處の住持にたのみ、かき替(かへ)給はるべし。」
と、いと、こまごまと、いふにぞ、
『ふしぎ。』
とは、おもひけれど、
「死(しし)て後も、尋ね來(きた)る朋友の誠(まこと)こそ、うれしけれ。」
と、なつかしくて、こはきこゝろはなかりしが、
「さて。その文字は、そこもと、望みにても、ありや。」
と、いひければ、
「いかにも。望みあり。紙筆を。」
と乞ひて、
「『忠山』といへる下(しも)の二字を、『亨安』となほして給へ。」
と、「亨安」の二字を、かきて、さし置(おき)ぬ。
文字の大きさは、五分程あり。
勝手にては、みな、恐れあいて[やぶちゃん注:ママ。]、出(いづ)るものも、なし。
暫く、もの語りして、
「いとま申。」
とて、出行ぬ。
六郞左衞門、送り出ければ、いつもの通り、門を出でゝ行しが、
「見送らん。」
とて、あとより出しに、はや、形は、なかりけり。
さつそく、尾崎へ持行(もちゆき)きて、一家衆(いつかしゆ)と談じ、石碑のおもてを、きりなをしけり。
忠山、能書にて、餘人のまねぶべき筆にあらず。
手跡、うたがひなければ、みな人、奇怪のおもひをなしぬ。
右の手跡は、六郞左衞門家に祕藏して、「幽靈の手跡」とて傳へぬ。
江戶へ來りしは、五、六年已前の事にて、汐留の觀音の寺にとまりおれり[やぶちゃん注:ママ。]、といひし。
忠山おとゝ平七といふものあり。四ツ谷「鮫(さめ)がはし」に、たばこうりて、今も存命なり。
うたがはしき人は、行て尋ぬべし。
[やぶちゃん注:最後の三文『忠山おとゝ平七といふものあり。四ツ谷「鮫がはし」にたばこうりて、今も存命なり。うたがはしき人は、行て尋ぬべし。』が凄い! 今時の怪談で、最後にこう書ける奴は、まず皆無だ! これは所謂、噂話・都市伝説のあまっちょろさを遙かに凌駕している!! 因みに「四ツ谷鮫がはし」は鮫河橋(さめがはし)で東京都新宿区にあり、桜川支流鮫川に架けられていた橋及びその周辺の地名である。現在の新宿区若葉二丁目・三丁目及び南元町一帯を指す。この附近(グーグル・マップ・データ。南元町をポイントし、その北が若葉二・三丁目である。以下同じ)。江戸時代は岡場所であった。現在の赤坂御所北部外の西北部に当たる。
「泉州貝塚の近きわたりに、尾崎といふ處あり」大阪府阪南市尾崎町であろう。地図の右上部に貝塚が見えるように配した。貝塚市であるが、奥に細く広がった市域で尾崎とは十一キロメートルほど離れている。
「難波戰記」(なにわせんき/なんばせんき)は別に「大坂軍記」とも称し、「大坂の陣」についての軍記物。寛文一二(一六七二)年初板で十二巻十二冊本が作られたが、その後、増補され、増補版の中でも特に初板と同年の三宅可参(衝雪斎)の序・跋を持つものが普及した。本「怪談老の杖」は序のクレジットでは宝暦四(一七五四)年。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認出来る。流石に「吉田九右衞門」を探すほどには、私はお目出度くはない。
「鳥捕氏」は、恐らく、本邦の古代朝廷に属して鳥を捕捉することを職業とした捕鳥部(鳥取部)は品部(しなべ/ともべ)の出自であろう。飛鳥時代の武人に捕鳥部万(ととりべの よろず)がいる(姓はない)。同人のウィキによれば、『物部氏の本拠である河内国には、鳥取部の伴造氏族で、角凝魂命』(つのこりむすびのみこと)『の三世の孫である天湯川田奈命』(あめのゆかわたなのみこと)『の後裔を称する無姓の鳥取氏があり』、『万もこの一族の可能性がある』。『物部守屋の資人。用明天皇』二(五八七)年の「丁未の乱」に『おいて物部方に属して戦い』、百『人を率いて守屋の難波の邸宅を守備した。主君の守屋が討たれたのを聞いて、茅渟県』(ちぬのあがた)『の有真香邑』(ありまかむら:現在の大阪府貝塚市大久保近辺か?)『の妻の家を経由して山中に逃亡した。逃げた竹藪の中で、竹を縄でつないで動かし、自分の居場所をあざむいて、敵が近づいたところで弓矢を放ち』(「日本書紀」)、『衛士』(えじ)『の攻撃を受けつつ、「自分は天皇の楯として勇武を示してきたけれども、取り調べを受けることがなく、追い詰められて、このような事態に陥った。自分が殺されるべきか、捕らえられるべきか、語るものがいたら、自分のところへ来い」と弓をつがえながら地に伏して大声で叫んだ。その後、膝に矢を受けるも引き抜きながら』、『なおも剣で矢を払い』、『三十人ほど射殺し』、『朝廷の兵士を防ぎ続けるが、弓や剣を破壊後、首を小刀で刺して自害した』(「日本書紀」)。『朝廷は』、『万の死体を八つに切り、串刺しにして八つの国にさらせ』、『と河内国司に命じたが、串刺しにしようとした時、雷鳴して、大雨が降った。さらに万が飼っていた白犬は万の頭を咥えて古い墓に収めると、万の頭のそばに臥して横たわり、やがて飢死したという。不思議に思った朝廷が調べさせ、哀れに思って、万の同族に命じて、万と犬の墓を有真香邑に並べて作らせた』とある。
「南源左衞門尉」南朝期なら、何かの資料に出るであろうが、私はそれを調べる気はさらさらない。悪しからず。
「玉井忠山」不詳。
「紀三井寺」和歌山県和歌山市紀三井寺にある紀三井山護国院金剛宝寺。「紀三井寺」の名で専ら知られる。真言宗であったが、昭和二六(一九五一)年(年)に独立して救世(ぐぜ)観音宗総本山を名乗っている。寺史は当該ウィキを見られたい。
の住職など、詩の友なり。
「紬ぎ」蚕の繭から糸を取り出し、撚りをかけて丈夫な糸に仕上げて織った絹織物のこと。織物の中で最も渋く、深い味わいを持つ着物で、着物通の人が好む織物と言われている。世界一緻密な織物ともされる。
「間口をさし」「表玄関にすっくと立っており」の意か。
「氣情」「氣丈」の意であろう。(きじやう)なるすくやか者なれど、是ばかりは、衿もと。
「それは、貴殿のあいさつとも覺えず。某が死したる事は存じなるべし。此世の命數、盡て黃泉の客とはなりしかど、こゝろにかゝる事ありて、暫く存生の姿をあらはしまみへ申すなり。一族どもの中にも、こゝろのすはりたる者なければ、おそれおのゝきて、事を記するに足らず。そこには、こゝろ、たくましく、理にくらからぬ人なれば、申すなり。我が死たる跡式の事は、かきおきの通取計ひくれたれば、おもふ事なし。しかし、戒名に、二字、こゝろに叶はぬ字あり。菩提處の住持にたのみ、かき替給はるべし」と「うち笑ひて」言うこのシークエンス以下は絶品だ! 死霊が思いきれぬことを告解するパターンは数多あるものの、戒名を変えて呉れというのは、私の知る限りでは、ちょっとない。ないが故に、オリジナリティがあり、会話の平静さと、受ける六郎左衛門が、死霊が死霊と表明するのを内心は恐懼しつつも、何んとか平静を保って、生時の折りの交わりと変わらずに対座し、その願いを聞き入れる。何と、素敵なリアリズム怪談であろう! 上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年)の傑作「菊花の約(ちぎり)」と似ていると思われる方もあろうが、本作は序文が宝暦四(一七五四)年で、二十二年も前なのである。最近では、一ヶ月余り前に電子化した風雅な動態と解き明かしの名篇「怪談登志男 八、亡魂の舞踏」に次いで佳作としたい。
「『忠山』といへる下の二字を、『亨安』となほして給へ」問題は「何故か?」という疑問である。「玉井忠山六郞左衞門」の忠山は明らかに隠居遁世した後の法号染みた雅号である。それを何故、今になって、「亨安」に書き変えて呉れと言い出すのか? 彼が晩年、この「忠山」の号が自身に相応しくないと思っていたのであれば、「我が死たる跡式の事は、かきおきの通取計ひくれたれば、おもふ事なし」とある「書置き」(遺言状)に書き入れれば済んだことだ。則ち、この書き変えはそのような生前の意識に起因するものではない。とすれば、忠山の来訪は、逝去から四十九日の中有(ちゅうう)であることは明らかである。中有は仏教用語で、衆生が死んでから次の縁を得るまでの間を指す「四有(しう)」の一つである。通常は、輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。この七七日(しちしちにち・なななぬか:四十九日に同じい)がその「中有」に当てられ、中国で作られた偽経に基づく「十王信仰」(具体な諸地獄の区分・様態と亡者の徹底した審判制度。但し、後者は寧ろ総ての亡者を救いとるための多審制度として評価出来る)では、この中陰の期間中に閻魔王他の十王による審判を受け、生前の罪が悉く裁かれるとされた。罪が重ければ、相当の地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を七日目ごとに行って、追善の功徳を故人に廻向すると、微罪は赦されるとされ、これは本邦でも最も広く多くの宗派で受け入れられた思想である。されば、この戒名改名もその審判に絡むと考えるのが自然である。玉井忠山の戒名全体が示されないのが、本怪談の実録怪談としての大きな瑕疵であるが、想像するに、生者に理解出来る可能性のある理由としては、その玉井の「忠山」の号をそのまま使ってしまった(これ自体は必ずしも一般的とは言えない。ばらすか、一字を入れるのが普通)結果、彼の父母或いは祖父又は先祖代々歴々の戒名と並べた際に、たまたま、それらの誰彼或いは特定の一部又は総ての戒名より断然、頭抜けてしまう不遜な戒名として「忠山」があることになってしまうという総合対照に於ける死者の名の絶対的違背性である(或いは前の父母の同一の漢字を続けて横に読むと不遜不敬の意となるやも知れぬ)。不遜な戒名自体が亡者の罪となるのである。怪談や講談・落語では、あの世からの拘引者や書記・使者或いは本人が、文書の文字や俗名・戒名を書き変えて、主人公が生き延びるという笑い話に近いものがよく見かけられるが、そうした笑話のような雰囲気はここにはない。至って真面目な最後の願いとして親友に頼むというそれは、寧ろ、哀切々たるのもがある。それが本篇の眼目でもあるのである。
「江戶へ來りしは、五、六年已前の事にて、汐留の觀音の寺にとまりおれり」話を生前に戻したダメ押しのリアリズムである。上手いが、やや五月蠅過ぎる感はなくもない。「汐留の觀音の寺」は現在の浜離宮恩賜庭園内にある観音堂跡か。サイト「4travel.jp」のこちらを参照されたい(地図有り)。旧時の観音堂の絵を入れた説明版写真。それによれば、ここには稲生神社があり、観音堂と鐘楼もあったとあるから別当寺も古くはあったはずである。しかし、関東大震災で崩壊し、今は小高い丘となって石段のみが残るとある。]