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2021/02/15

只野真葛 むかしばなし (12)

 

○獅山(しざん)樣御代に御家へめしかかへられし、工藤丈庵と申(まうす)ぢゞ樣は、誠に諸藝に達せられし人なりし。

 いつの間に稽古有しや、ふしぎのことなり。

 醫術はたつきの爲に被ㇾ成しことにて、實は武士になりたき内心と見へて、やはら・劍術・馬・弓・鎗など、みな御きわめ被ㇾ成しなり。

 傳書の卷物有て、年々、蟲干にいでしを覺たり。

 繪もよほどけいこ被ㇾ成しと見へて、極彩色の「いんこ」の繪、「緋《ひ》いんこ」と、又、外(ほか)のと、二、三枚、其外、繪本も一箱に入(いれ)て有し中に、一間[やぶちゃん注:約一・八二メートル。]四方ほどの紙をつぎて、洋弓をいる所をうき繪にしたる若もの、御くふうにて被ㇾ成しとて有し。今はヲランダ繪を見習て、若もののうき繪、誰もよくすれど、其頃は、めづらしかりしなり。

 象棋(しやうぎ)は三段目くらいのさし手にて、詰象棋の若ものなど、外よりくれば、圖(ず)に書て、天上にはり、夜、おしづまりて、たのしみに考られしとなり。

 氣根のよきこと、たぐひなし。

「人は、一時、休めば、よきもの。」

と被ㇾ仰て、

「夜は九(ここのつ)過迄。」[やぶちゃん注:午前零時過ぎ。]

とて、朝は夜のあけぬ内より、お目ざめなり。

「誠に、『子(ね)に臥し、寅(とら)に起く』とは此ぢゞ樣のことよ。」[やぶちゃん注:「寅」午前四時前後。]

と、ばゞ樣、常に被ㇾ仰し。

 大部の書を外より御借り見る。晝夜に、一筆にて、寫されしこと有しに、折節、夏なり、袖ケ崎は、殊の外、蚊のおほき所なるに、蚊帳なしに、夜ひとよ、目まぜもせず、蚊の付(つく)を、ことゝも不ㇾ被ㇾ成、うつされしほどに、夜明(よあけ)てみれば、御座のまわり、拘杞(くこ)の實をちらしたる樣に、血をすひ、ふくれたる蚊のおちて有しとなり。

 げんき、常のごとくにて、朝めし、上り、御出勤被ㇾ成、御下後(おさがりののち)より、また、あくる日迄、御うつし物なり。其頃は、ばゞ樣にも、御引うつりがけ、ろくに御なじみもなきに、

「かまはずに、寢よ。」

と被ㇾ仰ても、帳の外にて、うつし物被ㇾ成を、よしよしとも、御やすみかね、御めいわくなりし、と被ㇾ仰し。

 ばゞ樣と父樣は、十日、廿日のたがひにて、おなじ頃に御引とり被ㇾ成しとなり。其故は、めしかゝへに成て奧方(おくがた)へ相通(あひとほ)さるゝに、妻子もちならでは、成がたき故、きうに、家内、御もとめ被ㇾ成しなり。

 ばゞ樣は廿八、父樣は十三にて、いらせられしとなり。

 ばゞ樣、しごくの當世人にて、はなはだしく賑やかなる生(しやう)なり。其頃、「おきやうこつ」といふこと、大はやりにて、ばゞ樣、何にもかにも、

「おきやうこつ、おきやうこつ。」

と被ㇾ仰しとなり。

 其頃のはなしなるべし。

○ある大名の奧、急火にて、立のきなり。ぼだい所、通筋(とほりすぢ)故、御たちよりにて御休所と成(なせ)し時、女中達、息をきらして、出家をよびかけて、

「もしもし、どうぞ、おひやを一ツ被ㇾ下。」

と、いひしが、わからず、勝手にて、いろいろ、もめてゐるを、

「はやく、はやく。」

と、せつかれ、辨舌達者の坊主、

「おれがいつて、よろしく斷らん。」

とて、いで、

「さて。先刻より、『おひや』の御むしんでござりますが、先年の大火に、やきはらひまして、ござりません」。

女中一とう、

「おや、おきやうこつ。」

「いや、其(その)『きやう・こつ』ともに、やきはらひました。」

 是は後に人のはなしたることなれど、序に書付たり。

[やぶちゃん注:「獅山樣御代」第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指す(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)。元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書は文化八(一八一一)年から翌年春に成稿されたもの。

「工藤丈庵と申ぢゞ樣」真葛の祖父。父周庵平助の養父工藤丈庵安世(やすよ 元禄八(一六九五)年~宝暦五(一七五五)年)。真葛の出生の八年前に亡くなっている。当該ウィキによれば(太字下線は私が附した)、『工藤丈庵安世は』『藩主伊達吉村が』寛保三年に『江戸品川袖ヶ先』(東京都品川区東五反田附近。ここ(グーグル・マップ・データ(以下同じ)。袖ヶ崎神社をポイントした)。本文に出る「袖ケ崎」はここのこと。南東直近の現在の品川区東大井に仙台藩下屋敷があった)『に隠居するにあたり、その侍医として』三百『石で召し抱えられた』。延享三(一七四六)年『頃、仙台藩医になる際に妻帯が条件であったため』、二十三『歳年下の上津浦ゑん』(これが真葛の言う「ばゞ樣」の本名)『と結婚し、同時に紀州藩江戸詰の医師長井大庵の三男であった』十三『歳の平助を養子とした』。真葛の本篇「むかしばなし」に『よれば、養子平助にはまったく医学を授けなかった。しかし、実家で学問らしきことをほとんどしていない平助に対し、朝』は「大学」を『始めから終わりまで通して』三『度教え、翌日まで復習するようにと命じ』、『みずからは出勤するという教授法で』、十『日ばかりで四書のすべてを教え、それによって平助は』、三『ヶ月程度で漢籍はすべて読めるようになったという』(後で出る)。宝暦元(一七五一)年、『伊達吉村逝去の際、願い出て』、『藩邸外に屋敷を構えることを許され』、『伝馬町に借地して二間間口の広い玄関をもつ家を建てた』。宝暦五年二月二十日に死去、享年六十。『墓所は深川(東京都江東区)の心行寺にある』。『丈庵安世は、すぐれた医師であったばかりでなく、学問、歌道、書道および武芸百般に通じていた。また、「うき絵」という一種の遠近法の手法を駆使する絵師でもあった。仙台藩では安世に対し』、『和歌の添削なども命じている。孫にあたる工藤あや子(只野真葛)は』、本書の中で、『「工藤丈庵と申ぢゞ様は、誠に諸芸に達せられし人なりし。いつの間に稽古有しや、ふしぎのことなり」と記している。同書には』、『また』、『「ぢゞ様はそうぞくむき巧者にてありし」の記述があり、蓄財も巧みであったといわれる。また、京都にいた蝦夷開拓論者の並河天民から北方に関する情報を得ており、蝦夷地開発は安世にとって長年の重大な関心事であった』。『養子となった工藤平助には』、『医業や自分の仕事向きのことは伝えなかった』。本書によれば、『あるとき、平助が茶屋で休んでいたとき「工藤丈庵様のお子様か」と声をかけられた逸話が収載されている。声をかけられた平助が「左様だが」と答えると、「丈庵様は格別の御名医でありました。自分が若い頃、松坂屋の手代が病を得て様々に治療したがいっこうによくならず、自分がたのまれて丈庵様のところへいき様子を申し上げると、『患者はかねてよりアサツキを好んで多食していないか。それなら』、『行ってみるに及ばない。薬をひかえて生姜のしぼり汁を一日に茶碗いっぱい、三度斗』(ばかり)『に用いよ。平癒するであろう』とおっしゃられて、その通りにしたところ完全に治りました。そのとき、わたしは工藤様の御紋所を見覚えていたのです」と言われたという』(これも無論、後に出る)とある。

『極彩色の「いんこ」の繪、「緋《ひ》いんこ」と、又、外のと、二、三枚』これが見たかった。残念。

「うき繪」「浮(き)繪(うきゑ)」。江戸時代に西洋画の透視図法を取り入れた遠近感のある絵。実景が浮き出るように見えることからかく称した。初め、「のぞきからくり」の眼鏡(めがね)絵に用いられ、芝居小屋内部を描いた浮世絵などにも応用された(以上は「大辞泉」に拠る)。当該ウィキによれば、『「くぼみ絵」、「遠視画」ともいう。劇場内部や室内の様子を描いた作品が多くみられる』。但し、『西洋画の遠近法に直接学んだというよりもむしろ、その影響を受けた中国版画の流入により生み出されたとされる。さらにこの浮絵が、後にレンズを通して見る眼鏡絵につながっていく』。『浮絵は奥村政信』(貞享三(一六八六)年~宝暦一四(一七六四)年:江戸前期の江戸の浮世絵師で板元)『が初めて描いたと見られ、記録によると享保』(一七一六年~一七三六年)『の頃の作品が最も古いとされており』、『西村重長』(元禄一〇(一六九七)年?~宝暦六(一七五六)年:江戸の浮世絵師)『などの作品が残っている。肉筆浮世絵による浮絵もある。さらにその後、明和から天明』(一七六四年~一七八九年)『にかけては歌川豊春による作品が多く、その後葛飾北斎やその弟子の柳々居辰斎』(りゅうりゅうきょしんさい)『昇亭北寿ら多数の浮世絵師が浮絵を描いている。しかし天保』(一八三〇年~一八四四年)『以降はあまり描かれなくなり、通常の風景画が描かれるようになっていった』とある。発生期からみて、影響元はウィキの言っていることが正当であろう。

「若もの」当初、弓を射る若者をモチーフとした絵かとも思ったが(パースペクティヴとして腑に落ちる)、どうも、書き方が私にはそれではおかしい気がする。思うに、これは「我がもの」で、「模写ではないオリジナルな自分の作品」の意と私には思われる。「仙台全書」では『わか物』である(但し、同書でもあとの詰将棋をしに来る若者は同じく『わか物』ではあるのだが)。

「子に臥し、寅に起く」俚諺。「寝る間も惜しんで働くこと」の喩え。

は、殊の外、蚊のおほき所なるに、蚊帳なしに、夜ひとよ、目まぜもせず、蚊の付(つく)を、ことゝも不ㇾ被ㇾ成、うつされしほどに、夜明(よあけ)てみれば、御座のまわり、拘杞(くこ)の實をちらしたる樣に、血をすひ、ふくれたる蚊のおちて有しとなり。

「御引うつりがけ」書写作業。

「ろくに御なじみもなきに」言わずもがな、全く興味が持てないので、側で起きていても、退屈で面白くないのである。かと言って、夫より先に寝るということも出来ない。因みに、結婚当時、丈庵は既に五十二歳前後、妻ゑんは以下に出る通り、二十八であった。

「よしよし」「はいはい」。

「ばゞ樣と父樣は、十日、廿日のたがひにて、おなじ頃に御引とり被ㇾ成しとなり」上津浦ゑんを嫁に迎えたのと、養子として真葛の父(周庵)を十三で迎えたのが、期を一(いつ)にしていたことを言う。

「めしかゝへに成て奧方(おくがた)へ相通(あひとほ)さるゝに、妻子もちならでは、成がたき故」妻子持ちでない男が、藩屋敷の奥方ヘ出入りするのは認められない、というのは倫理上や危機管理上から判る。要は一人前の男ではない、何か、問題があると見られるからである。因みに、私が若い頃(一九八〇年代)でさえ、神奈川県では未婚者は高等学校の校長にはなれなし、未婚者であることが管理職への昇進の障害となる、と聴いていた(本当かどうかは知らない)。

「きうに」「急(きふ)に」。

「おきやうこつ」「輕忽・輕骨」(きやうこつ(きょうこつ))であろう。小学館「日本国語大辞典」によれば、基本を名詞とし、音「キョウ」は「軽」の呉音とした後、第一義に『かるがるしく不注意なこと。落ち着きがなく、そそっかしいこと。かるはずみ。粗忽。軽率。けいこつ』(形容動詞)とまず挙げ、使用例は古くは平安中期の公卿藤原実資(さねすけ)の日記「小右記」や鎌倉時代の「吾妻鏡」を引く。次いで、『人の様子や人柄が軽はずみで頼りにならないようにみえること』として「源平盛衰記」を引く。三番目に『他人から見て軽はずみで不注意に見えると思われるような愚かなこと。とんでもないこと。笑止』とし、狂言や浄瑠璃の例を引く。以下、四番目に『気の毒なこと』(形容動詞)、五番目に「きょうこつする」と使って、『おろそかに扱うこと。軽蔑すること』の意(太政官符・「正法眼蔵」・「太平記」を引用)とする。最後に「けいこつ」とも読む場合があるとする。そちらを引くと、『かるがるしく不注意なこと。かろがろしくそそっかしいこと。また、そのさま。粗忽。軽率。きょうこつ』として、享保二(一七一七)年刊の「釈書言字考節用集」から坪内逍遙・樋口一葉・徳冨蘆花の近代の使用例を引く(言っておくが、私は同辞典を所持する書籍本で確認している)。また、近藤瑞木(みずき)氏の論文「石燕妖怪画私注」(『人文学報』二〇一二年三月発行所収・PDFでダウン・ロード可能)の『二 「狂骨」』で、井戸の上に浮かぶ白骨の妖怪「狂骨(きやうこつ)」の画とこの奇体な妖怪名を考証される中で、まさに、この「むかしばなし」を引用されて記しておられる。但し、近藤氏はそこで最終的には、この「むかしばなし」の中の流行したとする『「おきやうこつ」のニュアンスはよくわからない』と述べられいる。しかし、最後の注(「5」)で、この後半部のエピソードを現代語訳された上で、『この場合の「おきょうこつ」は、「火事で冷水を焼き払った」という返答への反応であるから、「まぁ、ばかばかしい」という程度の意味であろう』と述べておられる。私も、そのような意味でとらえたので、甚だ同感である。所謂、「おちゃらけること」が基原みたような謂いであろうと私は思うている。

「ある大名の奧」さる御大名屋敷の奥向きで。

「急火にて、立のきなり」急なかなり大きな火災が発生し、御台所を始め、奥向きの者たち総てが避難せねばならぬ事態となった。

「ぼだい所、通筋(とほりすぢ)故」その奥方たちの避難のルートが、たまたま、その大名家の菩提寺の近くを抜けるそれであったため。

「おひや」「御冷や」。今でこそ判らぬ者はおらぬが、これは女房詞(その起源は室町時代の初期に宮中に使える女性が使い始めたものとされる)の「お冷やし」の略から「冷たい飲み水」の謂いであるものの、江戸時代の江戸では通用しなかった言葉であることが判る。特に女のいない寺内であることも関係していよう。

を一ツ被ㇾ下。」

「勝手」寺の厨(くりや)。

「一とう」「一党」。

「きやう・こつ」「經・骨」。絶妙なオチであるが、それだけに、どうもこの話、作り話しっぽいね。]

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