譚海 卷之三 建仁寺内傳正殿院
〇四條建仁寺塔中に正傳院とてあるは、織田有樂齋(うらくさい)の茶事を構られし所にて、其墳墓も其まゝ寺に有。正傳院は有樂の法名也。茶事のこしばりに曆(こよみ)の反古(ほうご)を用ひられたるは、則(すなはち)元和(げんな)の比(ころ)の曆の切れなり。其外塔中に慈照院左府の眞蹟春林院と云(いふ)額などもあり。建仁寺の西門は、小松内大臣の臺盤の門なるよし、往古(わうこ)此地(このち)六波羅に鄰(となり)て、内府のこゝに住(すま)れける所成(なる)を、鎌倉の時(とき)賴家將軍千光國師の爲に、今の建仁寺を造立ありしが、門の殘りたるをそのまゝに寺に用ひ來(きた)るといへり。又同所に夷(えびす)の宮とてあるは、防鴨河司(ばうかし)の祠(まつ)る所の禹王(うわう)の像なりといり。
[やぶちゃん注:「建仁寺内傳正殿院」現在の臨済宗大本山建仁寺の塔頭正伝永源院(グーグル・マップ・データ)。鎌倉時代の開山時には正伝院と永源庵の二ヶ寺であったが、明治時代に合わせて正伝永源院となった。
「織田有樂齋」安土桃山から江戸初期の大名で茶人として知られた長益系織田家嫡流初代の織田長益(ながます 天文一六(一五四七)年~元和七(一六二二)年)。信長の父織田信秀の十一男。有楽・如庵(じょあん)と号した。先の正伝院を再興し、ここに立てた茶室「如庵」は国宝に指定されている。私は小学校五年生の時、まだ如庵が神奈川県の大磯にあった時、父母と訪れ、他に客がいなかったため、管理されている方が、非常に丁寧に総て案内して下さったのを忘れない。小雨の降る日だったが、私が生涯でただ一度、茶室というものの新の清閑を感じ得た瞬間であった。
「こしばり」「腰張り」。壁・襖(ふすま)・障子などの下部に紙や布を張ること。
「元和」慶長の後で寛永の前。一六一五年から一六二四年まで。徳川秀忠・家光の治世。
「慈照院左府」室町幕府幕府第八代将軍足利義政のこと。彼の戒名は慈照院喜山道慶で、生前は左大臣まで昇りつめた。
「春林院と云(いふ)額」ネットでは見出し得ない。
「小松内大臣」平重盛。
「臺盤」狭義には平安時代の宮廷や貴族の飲食調度の一つで、節会・大饗などに用いた食物を盛った盤 (皿) を載せる木製の机状の台で、それを置く場所を台盤所といい、転じて台所となった。ここは重盛の屋敷の台所の門ということであろか。
「千光國師」平安末期から鎌倉初期の本邦の臨済宗開祖で建仁寺開山であった明菴栄西(みょうあんえいさい/ようさい 永治元(一一四一)年~建保三(一二一五)年)の諡号(しごう)。当時は廃れていた喫茶の習慣を本邦に再び伝えたことでもよく知られる。
「夷(えびす)の宮」建仁寺の東直近にある現在の「京都ゑびす神社」(グーグル・マップ・データ)。西宮神社・今宮戎神社と並んで「日本三大えびす」と称され、「えべっさん」の名で親しまれているあれである。実はこの社は建仁二(一二〇二)年に栄西が建仁寺を建立するに当たって、その鎮守社として自身が建久二(一一九一)年に南宋から帰国する際、海上で暴風雨から守護してくれた「恵美須神」を主祭神として勧請して創建されたものであった。なお、「応仁の乱」後に現在地に移転しているが、本来は孰れにしても建仁寺の境内にあったものである。
「防鴨河司」現代仮名遣「ぼうかし」「防鴨河使・防河使」とも書く。平安初期に設置された令外の官で、京都鴨川の堤防修築のを司った職。建仁寺の東を鴨川が流れる。
「禹王」中国古代の夏王朝の始祖とされる伝説上の帝王。父の鯀(こん)の事業を継いで、治水に成功し、聖王舜(しゅん)から帝位を禅譲されたことで知られる。]