譚海 卷之三 山崎の妙喜庵
山崎の妙喜庵
○山崎に妙喜庵と云寺あり。其數寄屋(すきや)三疊大目(さんじやうだいめ)の根本也、千宗易作る所にて、豐臣太閤の袖すり松と云も此庭に有。今は枯たるを其樹を取て香合(かふがふ)に製したるもの、名ぶつにて世中に有。京都はすべて數寄屋の本色(ほんしよく)とするもの、千家をはじめ諸寺院にあまたあり、大德寺塔中は殊に多し。茶器の細工も釜師を始め、一閑張(いつかんばり)細工・茶碗師の類迄、その家を傳へて今に絕ず、精密なる事いふべからざるもの也。
[やぶちゃん注:「妙喜庵」京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(おおやまざきちょう)にある現在は臨済宗。山号は豊興山。江戸時代には一時、地蔵寺の塔頭であった。室町時代の明応年間(一四九二年~一五〇一年)の開創で、開山は東福寺開創聖一国師法嗣の春嶽士芳。国宝の茶室「待庵(たいあん)」があることで知られる。当該ウィキによれば、待庵は『日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。現在一般化している、にじり口が設けられた小間(こま)の茶室の原型かつ数奇屋建築の原型とされる。寺伝には』、天正一〇(一五八二)年の「山崎の戦い」の折り、『羽柴秀吉の陣中に千利休により建てられた二畳隅炉の茶室を解体し』、『移築したとある』。慶長一一(一六〇六)年に『描かれた「宝積寺絵図」には、現在の妙喜庵の位置あたりに「かこひ」(囲い)の書き込みがありこのときにはすでに現在地に移築されていたものと考えられる。同図には、妙喜庵の西方、現在の島本町の』連歌師山崎宗鑑の『旧居跡付近に「宗鑑やしき」そして「利休」の書き込みもあり、利休がこの付近に住んでいたことを伺わせる。したがって待庵はこの利休屋敷から移築されたとも考えられる』。『茶室は切妻造杮葺きで、書院の南側に接して建つ。茶席は二畳、次の間と勝手の間を含んだ全体の広さが四畳半大という、狭小な空間である。南東隅ににじり口を開け、にじり口から見た正面に床(とこ)を設ける』。『室内の壁は黒ずんだ荒壁仕上げで、藁すさの見える草庵風とする。この荒壁は仕上げ塗りを施さない民家では当たり前の手法であったが、細い部材を使用したため壁厚に制限を受ける草庵茶室では当然の選択でもあった。床は』四尺幅(内法三尺八寸)で、『隅、天井とも柱や廻り縁が表面に見えないように土で塗りまわした「室床(むろどこ)」である。天井高は』五尺二寸ほどで、『一般的な掛け軸は掛けられないほど低い。これは利休の意図というより』、『屋根の勾配に制限されてのことと考えられる。床柱は杉の細い丸太、床框は桐材で』、三『つの節がある。室内東壁は』二『箇所に下地窓、南壁には連子窓を開ける。下地窓(塗り残し)の小舞』(「木舞」とも書く。屋根や壁の下地で、竹や貫を縦横に組んだもの)『には葭が皮付きのまま使用されている。炉はにじり口から見て』、『部屋の左奥に隅切りとする。現在では炉と畳縁の間に必ず入れる「小板」はない。この炉に接した北西隅の柱も、壁を塗り回して隠しており、これは室床とともに』二『畳の室内を少しでも広く見せようとする工夫とされている。ただ隅炉でしかも小板がないのだから、炉の熱から隅柱を保護する目的もあったと考えられる。天井は、わずか』二『畳の広さながら』、三『つの部分に分かれている。すなわち、床の間前は床の間の格を示して平天井、炉のある点前座側はこれと直交する平天井とし、残りの部分(にじり口側)を東から西へと高くなる掛け込みの化粧屋根裏とする。この掛け込み天井は、にじりから入った客に少しでも圧迫感を感じさせない工夫と解せられる。二つの平天井を分ける南北に渡された桁材の一方は床柱が支えていて、この桁材が手前座と客座の掛け込み天井の境をも区切っている。つまり』、『一見』、『複雑な待庵の天井の中心には床柱があり、この明晰性が二畳の天井を三つに区切っていても』、『煩わしさを感じさせない理由となっている。平天井の竿縁や化粧屋根裏の垂木などには竹が使用されており、障子の桟にも竹が使われている。このように竹材の多用が目立ち、下地窓、荒壁の採用と合わせ、当時の民家の影響を感じさせる。二畳茶室の西隣には襖を隔てて』一『畳に幅』八『寸ほどの板敷きを添えた「次の間」が設けられ、続けて次の間の北側に一畳の「勝手の間」がある。一重棚を備えた次の間と、三重棚を備え、ひと隅をやはり塗り回しとする勝手の間の用途については江戸時代以来茶人や研究者がさまざま説を唱えているが未だ明らかになっていない』とある(茶室の一九五二年刊の「国宝図録」第一集所収のモノクロームの写真が有る)。
「三疊大目」「三疊臺目」とも書く。丸畳三畳の客座と台目畳一畳の点前座で構成された茶席のこと。サイト「茶道」のこちらに詳しい。
「千宗易」千利休の号。
「豐臣太閤の袖すり松」「古美術ささき」のこちらに、その松材で作った茶杓(銘「老松」)というのがあった。製作者は武田士延(昭和六(一九三一)年生)氏で彼は妙喜庵住職(昭和三五(一九六〇)年就任)である。
「香合」「香盒」とも書く。香を入れる小さな容器。香箱。
「一閑張」紙漆(かみうるし)細工或いはその紙漆細工を作る方法のこと。「一貫張」とも書く。当該ウィキによれば、『明から日本に亡命した飛来一閑が伝えて広めた技術なので一閑張になったという説がある。農民が農閑期の閑な時に作っていたものなので』、『一閑張と呼ばれるようになったという説もある』。『一貫』(三・七五キログラム)『の重さにも耐えるほど丈夫なのが由来なので漢字の書き方も一貫張という地方もある』。『竹や木で組んだ骨組み(最近では紙ひもを用いた物もある)に和紙を何度も張り重ねて形を作る。また、木や粘土の型に和紙を張り重ねた後に剥がして形をとる方法もある。形が完成したら柿渋や漆を塗って、色をつけたり防水加工や補強にする。張り子と作り方が似ている』。『食器や笠、机などの日用品に使われたが、現在はあまり一般的に使われていない。人形やお面などにも使われている』。『食器は高級料亭等でお皿として現在も利用されるが、日用品としては高価で一般に普及することがあまりない』とある。ウルシ・アレルギの私には永久に縁がない代物である。]
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