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2021/02/23

譚海 卷之四 阿波國石筒權現の事

 

譚 海 卷の四

 

○阿波國に石筒權現と申(まうす)おはします。橫崎といふ所より八里半のぼりて、高山の上に御社有、其間の嶮岨言語同斷也。絕頂にいたる處鐡のくさりにすがりてのぼる、其くさりの長さ三十三間有、つゝじの古かぶにつなぎてあれども、とりすがりてのぼるに、切るゝ事なし。くさりを登りはつる所に鳩の息つきの水といふ有、わづかなる淸水のたまりたる岩の上に、石にて造りたる鳩ひとつ水にのぞみて有、此水人々すくひのめども、終にたゆる事なし。每年六月十八日より七日の間參詣する事也。殊の外をそろしき山にて、時々人のけがされて血にまみれたるかばねなど、樹のうらにかゝりてある事多し、諸人潔齋して登る山也。

[やぶちゃん注:「阿波國に石筒權現」底本の「日本庶民生活史料集成」第八巻の武内利美氏の注に『四国の石鎚山』(いしづちさん)『の神。阿波ではなく、伊予の国の石鎚山』(千九百八十二メートル)『であろう。四国第一の高峰で、山上に石鎚神社があり、役』の『行者の開創と伝える。山岳信仰の中心の一つで、今日も七月一日から十日にわたる大祭には、多数の白衣行者が登拝する』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルの写真を見ると、険しさの様子が判る。当該ウィキによれば、『石鎚山は古くから山岳信仰の山とされ』、『奈良時代には修行道場として知れ渡った。役小角や空海も修行したとされ山岳仏教や修験道が発達し、信仰の拠点として石鎚神社、前神寺』(ぜんじんじ)、『極楽寺、横峰寺がある。(石鎚神社中宮成就社のある成就は明治初期の神仏分離以前は常住と呼ばれていた。)』。『古代の石鎚山は笹ヶ峰、瓶ヶ森』(かめがもり)『および子持権現山が石鈇信仰の中心であったとする説、あるいは現在の石鎚山と笹ヶ峰の東西』二『つの霊域を想定する説がある』。『(新居浜市の正法寺では奈良時代の石鎚山が笹ヶ峰を指していたことに基づき、現在でも石鎚権現の別当として毎年七『月に笹ヶ峰お山開き登拝が行われている。)』。『開山の伝承として』、斉明天皇三(六五七)年に『役の行者とその供をした法仙が龍王山(瓶ヶ森の中腹標高』八百四十メートル『辺り)で修行のすえ石土』(いしづち)『蔵王権現を感得したという。そして、そのすぐ下の広い場所に天河寺を開創する』。天平九(七三七)年に石土蔵王権現はさらに高い瓶ヶ森の絶頂に祀られ』「宮とこ」と呼ばれ、天平勝宝五(七五三)年には『芳元が熊野権現を勧請した。その山は石土山』(いしづちさん)『と云われていて、天河寺はその別当として栄えた。一方、現在の石鎚山となる山は石撮峰と呼ばれ、法安寺(愛媛県西条市小松、飛鳥時代創建)の住職である石仙(灼然)により横峰寺が開かれ、さらに当山中腹の常住に前神寺の前身となる堂が造られた。その後、黒川谷で修業をした上仙菩薩(伊予国神野郡出身)が石鎚蔵王大権現を称え、登山道を山頂へと開く。そして』、天長五(八二八)年には、『瓶ヶ森より石土山を現在の石鎚山へ光定』(こうじょう)『(伊予国風早郡出身)により移され、石鈇山』(いしづちさん)『と呼ばれるようになる』。『平安時代前半には神仏習合が行われたとされ、山岳信仰特有の金剛蔵王権現および子持権現が祀られた。そして、桓武天皇』(七八二年〜八〇五年)『が自身の病気平癒祈願と平安京奉謝などの成就をしたことにより、国司に命じ常住に七堂伽藍を建て勅願寺とし「金色院前神寺」の称号を下賜された。天正年間には河野通直、村上通聴』(読み不明)『が社領』を、慶長一五(一六一〇)年には『豊臣秀頼が社殿を前神寺に寄進した。寛文年間には小松藩主一柳氏、西条藩主松平氏の帰依により社殿が整備された』。『江戸時代初期には信者の増加に伴い、前神寺は麓に出張所を設置してからは常住の本寺を奥前神寺、麓の出張所を里前神寺と呼ぶようになった。その後、本寺機能は里に移っていった。そして、別当職や奥前神寺の地所をめぐって西条藩領の前神寺と小松藩領の横峰寺との間に紛争が起こった。古来、石鈇山蔵王権現別当は前神寺が専称していたのに対し』、享保一四(一七二九)年に『横峰寺が「石鈇山蔵王権現別當横峰寺」の印形を使用したのが発端であるとされ、双方が京都の御所に出訴するに至った。そこで、地所は小松藩領の千足山村、管理権と「石鈇山蔵王権現別當」の専称は前神寺とし、奥前神寺は常住社と名称変更され、横峰寺は「佛光山石鈇社』『別當」と称するとの裁決が下された』。明治四(一八七一)年の『神仏分離により、石鈇蔵王権現は石土毘古命』(いわつちびこのかみ)『となり』、『前神寺の寺地は全て石鉄』(『いしづち』神社に、前神寺は廃寺に、横峰寺は横峰社となった。両寺はその後すぐに復興し』、『真言宗に所属することとなった。明治三五(一九〇二)年に『石鉄神社から石鎚神社に変更が決定され』、『石鎚毘古命(石鎚大神)、石鎚山となる。そして明治時代中期以降は石鎚神社、前神寺、横峰寺はさらに多くの信者を集めるに至った』。『毎年』、七月一日から十日までの『間に「お山開き」の神事が執り行われ、多くの信者が参拝登山に訪れる。古くからお山開きの期間中は女人禁制とされてきたが、現在では』七月一日『だけが女人禁制となった。当日は女性は成就社まで、また土小屋遥拝殿までで山頂まで登る事が出来ない』。『石鎚山の頂は、通常は天狗岳のことを指すが、弥山から天狗岳までが岩場であることや、天狗岳に多人数がとどまれるスペースがないこともあり、天狗岳直前(約』二百メートル『手前)の弥山』(みせん)『までの登山者も多い。弥山には石鎚神社の鎮座のほか』、『山頂小屋がある』。『弥山まで』三『箇所の鎖場があり、下から』「一の鎖」(三十三メートル)・「二の鎖」(六十五メートル)・最後も「三の鎖」(六十七メートル)と続くが、『迂回路もある。「一の鎖」の手前に前社ヶ森』(千五百九十二メートル)『の岩峰にかかる「試しの鎖」』(七十四メートル)『があり、これが最も急勾配である。弥山への鎖は近世頃より掛けられたとされ、安永八(一七七九)年に』鎖が切れ、翌安永九年に『鎖の掛け替えを行ったとする記録である』「石鉄山弥山鎖筋之覚」が『前神寺旧記に残されている。山頂からは瀬戸内海、および土佐湾、見通しのよい日には大山を始めとする中国山地、九州の九重連山まで望むことができる』。『主な登山コースは、石鎚登山ロープウェイ使用の成就社コース、石鎚スカイラインまたは瓶ガ森林道を使用の土小屋コース、面河渓谷コースの』三『つが一般的であるが、ロープウェイを使わないコースとして』、『西ノ川登山口から夜明かし峠に至るコースや、今宮道から成就社に至るコースもある。成就からの登山道が表参道、面河からが裏参道と呼ばれる』。『西ノ川登山口からのコースで毎年遭難騒ぎが起きているので不十分な用意は禁物である。天狗岳直下には傾斜が強くオーバーハングした北壁が落ちており、四国一といってもよいロッククライミングのフィールドを提供している』。『さらに、「石鎚山旧跡三十六王子社」という行場を巡りながらの登拝もあるが』、『経験者の案内のもとに行かないと行き着けない』とある。

「橫崎といふ所より八里半のぼりて」この地名は現在の地図やスタンフォード大学の旧地図を見ても見出せない。思うに、これは原本の「橫峰」の誤字或いは判読の誤りではあるまいか? 但し、これは地名ではなく、寺名で、現在の愛媛県西条市小松町にある真言宗石鈇山(いしづちざん)福智院横峰寺で、四国八十八箇所の第六十番札所。グーグル・マップ・データ航空写真を見て戴くと判るが、石鎚山の真北(直線で八キロ弱)に位置し、東西を迂回して行くとしても、恐らく登攀実測では三十キロメートルはあるからである。この寺は標高七百四十五メートル付近にあり、伊予国では最高所の寺であり、八十八箇所の全体の中でも二番目の高地に建っている。私の試算がおかしいとなら、ウィキの「横峰寺」に、以下のように書かれている事実をお示しする。『いつのころか四国霊場巡拝は、当寺を打った後、当寺より』五『町未申の方角』(約五百メートル南西)『に上がった鉄ノ鳥居(星ヶ森)で参拝し、ここより』九里(注に「奉納四國中邊路之日記」(元禄九(一六九六)年)の記述の距離に拠るとある)『先の山中にある石鈇山蔵王権現(前神寺)への参拝を済ますようになっていた』とあるので如何か?

「三十三間」約六十メートル。先の引用を参照。山頂の石鎚神社への鎖り場の最後の「三の鎖」りの現在の長さも六十七メートルである。

「鳩の息つきの水」現行では確認出来なかった。

「けがされて」「怪我されて」ではおかしいから、潔斎をせずに登って「穢されて」(権現さまから「穢れたる身」と断ぜられて)の謂いととる。]

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