譚海 卷之三 松花堂器物
〇八幡山瀧本房に松花堂猩々翁(しやうくわだうしやうじをう)の器物所持せり。好事のもの茶を乞へば、會席をまうけ悉く器物を陳(ならべ)て見する也。銀一兩づつを出して所望する事也。
[やぶちゃん注:「八幡山瀧本房」京都府八幡市にある石清水八幡宮神社(旧称は男山八幡宮)のめ「男山四十八坊」と呼ばれた宿坊の一つ。現存しない。
「松花堂猩々」江戸初期の真言僧で文人の松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう 天正一〇(一五八二)年~寛永一六(一六三九)年)。男山八幡神社社僧。旧姓は喜多川、通称を滝本坊、別号に惺々翁(しやうじやうをう(しょうじょうおう):本文はこの誤記であろう)・南山隠士など。俗名は中沼式部。堺の出身。書道・絵画・茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久(さきひさ)に学び、大師流・定家流も学んで、独自の松花堂流(滝本流とも称した)という書風を創出、近衛信尹(のぶただ)・本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた。絵は狩野山楽に師事している。晩年は男山に松花堂を建てて隠棲した。なお、現行の松花堂弁当は、日本料理吉兆の創始者が見そめ、工夫を重ねて、茶会の点心等に出すようになった「四つ切り箱」であるが、それを好んだ昭乗に敬意を払って「松花堂弁当」と名付けられたとする説があるという(以上は当該ウィキを主文として、底本の武内利美氏の注を加味したが、最後の説は同八幡宮公式サイトのこちらでは断定されてある)。また、彼の隠棲した方丈跡が現存し、同八幡宮公式サイトの「松花堂跡」に、『表参道から影清塚の分岐点を右に上がり、石清水社へと向かう途中に江戸時代初期、松花堂昭乗』『が営んだ「松花堂」という方丈の建っていた跡地があります』(写真有り)。『瀧本坊の住職であった松花堂昭乗は』、寛永一一(一六三四)年『以前に弟子に坊を譲り、泉坊に移って隠棲し』、『寛永』十四『年には泉坊の一角に方丈の草庵を結び』、『「松花堂」と称したことから』、『松花堂昭乗と呼ばれるようになりました』。『松花堂と泉坊の客殿は、明治初年のいわゆる「神仏分離」後もしばらく男山に残っていましたが』、明治七(一八七四)年『頃に京都府知事』(この糞野郎を調べた。長谷信篤(ながたにのぶあつ)である)『より「山内の坊舎は早々に撤却せよ」との厳命が下ったため、当時の住職が山麓の大谷治麿氏に売却し、幸運にも破却されずに残りました』。『その後、幾度かの移築を経て、現在の松花堂庭園は』昭和五二(一九七七)年に『八幡市の所有となり』、『管理運営されています』とある。
「一兩」本書は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年にかけて書かれた。江戸後期のそれは概ね現在の四~六万円ほどに当たる。]