譚海 卷之三 五山長老對州輪番
〇五山長老輪番に對州(たいしう)へ詰(つめ)て、朝鮮國より到來の書翰返書等を認(したたむ)る役に走らるゝ也。さるが故に五山僧徒は學文(がくもん)なくては成がたき寺也。五山長老の中(うち)順番に當りて、對州發行の人定(さだま)る時は、先(まづ)關東へ下り登城致し、五山和尙位に任ぜられ、謁見の禮あり、時服(じふく)其外拜領物例(ためし)有(あり)て過分の事なり。其後上京對州へ着船の上、都(やが)て朝鮮の書翰を司る、別館に住して饗應丁寧をつくす、寒暑に人參一斤(きん)づつ對州より贈る事とぞ。朝鮮より來書あれば封のまゝ長老へ渡す。長老開封して事の次第を和語に寫(うつ)し關東へ傳達し、御下知を得て漢字返翰を認め、對州役人へ渡し、則(すなはち)朝鮮へ送る事也、此勤役(きんやく)三年(みとせ)づつ也。三年事濟(ことすん)で後の長老に委託し、出船上京して和尙位を辭し隱居する也、其和尙生涯公儀より年々百石づつ下し給ふ事とぞ。
[やぶちゃん注:私も全く知らなかったが、これは「以酊庵(いていあん)輪番制」という制度である。ウィキの「以酊庵」によれば、『以酊庵』『は、かつて長崎県対馬市に存在した日本の寺院である。山号は瞎驢山(かつろざん)』。『日本と中国、朝鮮との外交は、基礎教養として漢詩文を学び漢文能力に優れる、禅僧が担当してきた』。天正八(一五八〇)年、『対馬の戦国大名宗義調』(そうよししげ)『により景轍玄蘇』(けいてつげんそ:日本人臨済僧。筑前国宗像郡西郷生まれ。俗姓河津氏)『が招かれ』、『朝鮮との外交に当たり、文禄・慶長の役では豊臣秀吉の命で明との交渉を担当した』。『その後』慶長二(一五九七)年若しくは慶長十六年に『玄蘇が対馬天道茂(対馬市厳原町天道茂)の地に寺院を建立し、玄蘇の生まれた』天文六丁酉(ひのととり/ていゆう)の『年にちなんで以酊庵と名づけられた』。享保一七(一七三二)年の『大火で本堂を焼失したため、国分(対馬市厳原町国分)にあった西山寺を末寺の瑞泉院に移転させ、その跡に以酊庵を移した』。『玄蘇の跡を継いだ規伯玄方は』、寛永一二(一六三五)年の「柳川一件」(対馬藩主宗義成(よしなり)と家老柳川調興(しげおき)が日本と李氏朝鮮の間で交わされた国書の偽造を巡って対立した事件。家光の裁定は義成は無罪、柳川調興は津軽へ流罪、規伯玄方も国書改竄に関わったとして南部に配流となった)で『流罪となり、対朝鮮外交の実務者を失った対馬藩は玄方に代わる人材(対朝鮮外交文書の解読・作成には高度な漢文知識を必要としていた)を得ることが出来ず、江戸幕府に援助を求めた。これを受けて幕府は同年東福寺の玉峰光璘を以酊庵に派遣、以後』、『幕府は京都五山の禅僧の中でも特に「五山碩学」の呼ばれた者』『の中から朝鮮修文職(朝鮮書契御用・対州書役)に任じ、以酊庵に』一年(後に二年)(本記載と異なる)『交替の輪番制で派遣して、外交文書作成や朝鮮通信使などの使節の応接、貿易の監視、双方の外交文書をまとめた』「本邦朝鮮往復書」る文書の『作成と対馬藩への提出などを扱わせた。このシステムを以酊庵輪番制と言う。朝鮮修文職は幕府の任命による外交機関とも言うべき存在であり、対馬からの帰還後は元いた寺院の住持に任ぜられ、更に京都五山の筆頭である南禅寺の坐公文』(ざくもん・すわりくもん)『(名誉職としての住持の公帖)を授かることとされていた』。『江戸幕府の衰退によって』慶応二(一八六六)年に『江戸幕府から対馬藩に対して以酊庵輪番制の廃止が通告され』、翌年一月に第八十九世(通算百二十六代目)『玉澗守俊が東福寺に帰還、更に江戸幕府に代わった明治政府が対馬藩から対朝鮮外交権を剥奪したこともあり、無住となった以酊庵は明治元』(一八六八)年に『廃寺となった。明治以後は西山寺が復帰することになり、玄蘇の遺品や以酊庵関係資料は同寺に伝来している』とある。
「時服」毎年春と秋または夏と冬の二季に朝廷や将軍などから諸臣に賜った衣服。
「一斤」約六百グラム。]

