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2021/02/11

芥川龍之介書簡抄14 / 大正二(一九一三)年書簡より(2) 三通

 

大正二(一九一三)年六月十五日・牛込區赤城元町廿一番地竹内樣方 山本喜譽司樣(葉書)

 

わざわざうちを御知らせ下すつて難有うございました 休になつたらあがります

試驗がいやで早くすめばいゝと思つてます それはよみ初めたヒユイズマンズが試驗にさまたげられたからでもあるので每日つまらない獨乙語や漢文をよむのがうんざりしてしまひます

英文科へ行かうか外の科へ行かうかそれも今では迷つてゐます(勿論法科なんぞへはかはりませんけれど)昔の樣な HEDONIST でゐられたらこんな心配も起らないのですけれど

蒲田へ行つてカーネーシヨンの切り花をかつてきて机の上へのせて置きました 甘いにほひが部屋中一杯になります

 

   靑簾丹前風呂のよき湯女がひとり文かく石竹の花

 

            さようなら

    十五日朝        龍

 

[やぶちゃん注:短歌の前後は一行空けた。

「ヒユイズマンズ」フランスの幻想作家ジョリス=カルル・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans 一八四八年~一九〇七年:本名 Georges Charles Huysmans)。著名な画家を輩出したフランドルの家系に生まれ,早く父を失った。法律を学んで、一八六八年以来、三十年間に亙って内務省に勤務した。散文詩「香料箱」(Le Drageoir à épices:一八七四年を発表した後、小説「マルト」(Marthe:一八七六年)でゾラに認められ、自然主義作家グループと交わった。精彩ある生活描写に個性的作風を示し、幾つかの作品を発表したが、病的に鋭い感覚とデカダンスにあふれた傑作「さかしま」(À rebours:一八八四年)を著した後、超自然的世界への関心を深め、悪魔主義に傾斜、中世の幼児殺戮者ジル・ド・レーを探究した「彼方」(Là-bas:一八九一年)を経て、修道院に入り、カトリックに改宗、「路上」(En route:一八九五年)、「伽藍」(La Cathédrale:一八九八年)、「修練者」(L'Oblat:一九〇三年)などを発表した。また、美術批評にも優れ、「近代美術」(L'Art moderne:一八八三年)、「画家論」(Certains:一八八九年)などで「印象派」の紹介にも努めた。その小説はフランス 十九世紀末の美学・知性。精神生活の諸段階を要約したものと言え(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)、イギリスのオスカー・ワイルドとともに代表的な「デカダン派」作家とされる。ここで龍之介が読んでいるのが何かは定かでないが、怪奇趣味へ傾倒していた当時の彼からみて、私も偏愛する幻想小説「さかしま」や「彼方」であるようには感じられる。

「HEDONIST」快楽主義者。]

 

 

大正二(一九一三)年六月二十三日・消印二十四日・東京市牛込區赤城元町竹内樣方 山本喜譽司樣(繪葉書)

 

水楢落葉松白樺の若葉 山つゝじのにほひ 鶯の聲 その間に燻し銀のやうな湖が鈍く光つてゐます 何處かに人の好い顏の赤いすこつとらんど人がゐて BAG-PIPE を吹てゐるやうな氣がしてしかたがありません

    廿三日  赤城にて   龍

 My heart is in the Highland!

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂年譜によれば、この前の六月十二日から二十日が一高の卒業試験で、それが終わった二日後の六月二十二日から同級生の井川恭・長崎太郎・藤岡蔵六とともに赤城山方面へ旅行に出立、この二十三日には午前四時に起床し、赤城山に登頂、下山して伊香保に宿泊、翌二十四日には榛名山に登頂、二十五日に伊香保に滞在、二十六日に藤岡とともに帰京している(井川と長崎は、二人と別れ、妙義山から軽井沢に向かっている)。

「落葉松」「からまつ」。

「湖」赤城山南西山麓の大沼であろう。]

 

 

大正二(一九一三)年七月十七日・消印十八日・消印内藤新宿・井川恭宛[やぶちゃん注:本文中で示した通り、二種を合成して原書簡を推定復元した。]

 

 卒業式をすませてから何と云ふ事もなくくらしてしまつた。人が來たり、人を訪ねたりする。ほかの人に遇はない日は一日もない。休みになつた割合に忙しいのでこまる。本も二、三册よんだ。

この休暇にかぎつて、今から休みの日數が非常に少いやうな氣がしてゐる。もうすぐに新學期にはいる。學校がはじまる。それがいやで仕方がない。いやだと云ふ中には、大分新しい大學の生活と云ふ不氣味な感じが含まれてゐるのは云ふまでもないが、同時にまた君がゐなくなつたあとの三年のさびしさを豫感するのも、いやな感じを起させる大きな FACTOR になつてゐる。顧ると自分の生活は何時でも影のうすい生活のやうな氣がする。自已の烙印を刻するものが何もないやうな氣がする。自分のオリギナリテートの弱い、始終他人の思想と感情とからつくられた生活のやうな氣がする。「やうな氣がする」に止めておいてくれるのは、自分の VANITY であらう。實際かうしたみすぼらしい生活だとしか考へられない。

 たとへば、自分が何かしやべつてゐる。しやべつてゐるのは自分の舌だが、舌をうごかしてゐるのは自分ではない。無意識に之をやつてゐる人は幸福だらうが、意識した以上こんな不快な自己屈辱を感ずる事は外にはない。此いやさが高じると、隨分思ひ切つた事までして自已を主張してみたくなる。自分はここで三年間の自分の我儘に對する君の寬大な態度を感謝するのを最適當だと信ずる。自分は一高生活の記憶はすべて消滅しても、君と一緖にゐた事を忘却することは決してないだらうと思ふ。こんな事を云ふと、安つぽい感情のエキザジェレーションのやうに聞えるからしれないが、自分が感情を誇張するのを輕蔑してゐる事は君もつてゐるだらう。兎に角自分は始終君の才能の波動を自分の心の上に感じてゐた。此事は君が京都の大學へゆく事になり、自分が獨り東京にのこる事になつた今日、殊に痛切に思返へされる。遠慮なく云はせてくれ給へ。自分と君との間には感情の相違がある。感覺の相違がある。君は君の感情なり感覺なりを justify する爲によく說明をする(自分は之を好かない)。僕も同樣に說明する事が出來る(この相違から君と僕の間の趣味の相違は起るのだが)。かうした相違は橫の相違で、竪の相違ではないからである。對等に權利のある相違で、高低の批判を下す可らざる相違だからである。しかし理智の相違はさうはゆかない。自分が君の透徹した理智の前に立つた時に、自己の姿は如何に曖昧に、如何に貪弱に見えたらう。君の論理の地盤は如何に堅固に、如何に緻密に見えたらう。之は思想上の問題についてばかりではない。實行上の君の ability の前に自分は如何に自分の弱小を感じたらう。こんな事がある。二年の時、僕が寮へはいつて間もなくであつた。散步をしてかへつて見ると誰もゐない。一寸本をよむ氣にならなかつたので、口笛をふきながら室の中をあるいてゐると、君の机の上にある白い本が見えた。何氣なくあけて見ると、フランス語のマーテルリンクであつた。(其時まで僕は君がふらんす語が出來る事をしらなかつた)。自分はその本の表紙をとぢる時に、讃嘆と云ふより寧ろ不快な氣がした。その時に感じた不快な氣はその後數月に亙つて僕を剌戟して、何册かの本をよませたのであつた。[やぶちゃん注:以下、ここまでの底本である岩波旧全集第十巻(一九七八年刊)では『〔この間二十四行ばかり省略〕』とある。以下は、岩波文庫の石割透編「芥川龍之介書簡集」(二〇〇九年)で復元されてあるものを参考に(岩波の新全集原拠)、漢字を概ね正字化し(その際は岩波旧全集のここまでの表記に従った)、芥川龍之介の癖を参考に現代仮名遣を歴史的仮名遣にした。以下最後まで改行字下げ等は岩波文庫に概ね従った。こんなに君は自分が自他の優劣を最[やぶちゃん注:「もつとも」。]明白に見る事が出來る鏡であつた。自分は誰よりも君を評價する點に於て誤らないと信じてゐる。君と僕とは友人と友人との時より或は師と弟子との時の方が多かつたかもしれない(唯幸に主と隷とにはならなかつた)。君の才能の波動を自分の心の上に感ずれば感ずるほど、自分の君に對する尊敬と嘆稱との念が增して行つたのは當然であらう。獨[やぶちゃん注:「ひとり」。]之に止らず自分は屢〻自ら顧みて(殊に君以外の人に對してゐる場合に)、「自己の傀儡」が「君の思想」を以て口をきいてゐるのを發見した。オリギナリテートの少ない人間にとつてはこんな事も家常茶飯[やぶちゃん注:「かじやうさはん」。]かもしれない。寧[やぶちゃん注:「むしろ」。]已むを得ない事なのかもしれない。しかし自分には之が如何にも卑劣に如何にも下等に見えた。目をきくばかりではない。更に進んでは「自己の傀儡」は「君の思想」と「君の感情」とを以て手をうごかし足をうごかした。自分には之が愈[やぶちゃん注:「いよいよ」。]下等に見えた。自分抔の君に對する尊敬は君の他人に對する(この中に勿論自分も含まれる)侮蔑を感じてもこれに反感を起し得ない程强くなつてゐる。けれども自分の行動を定めるものは常に自己でなくてはならない。自分は自分の言動を飽く迄も吟味して模倣と直譯とは必[やぶちゃん注:「かならず」。]避けなければならないが。[やぶちゃん注:以下、岩波旧全集に戻る。]

 かうして尊敬と可及的君の言動と逆に出ようとする謀叛心とが吸心力[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]と遠心力のやうに自分の心の中に共在してゐた。[やぶちゃん注:以下、同様に底本は『〔この間十行ばかり省略〕』とある。同前の仕儀で復元した。]橫道へそれるがこの遠心力を養成したのは一部分石田の功績である。笑つてはいけない。實際少し滑稽だが我々が何か論ずる時になると石田は何時でも曖々然[やぶちゃん注:「あいあいぜん」。如何にも曖昧な感じであることを言う。]とした中間を彷徨しながら旗色のいい方へ不離不卽に賛同する一種の技術を持つてゐる。このアートに対する反感は(このアートを用ゐる結果として石田は論をする際に常に君に賛成するから)自分を石田に反對させる爲に特に君に反對させた事が少くなかつた。[やぶちゃん注:以下、岩波旧全集に戻る。]自分はこの遠心力も全[やぶちゃん注:「まつたく」。]無益だつたとは思はない。前にも云つたやうに、これがあつた爲に君と自分とは主と隷とにならずにすんだ。けれども又之がある爲に自分は如何にも頑迷に、如何にも幼稚に、君に對して内の EGO を主張した事が度々ある。今から考へると冷汗の出るやうな事がないでもない。よく喧嘩をせずにすんだと思ふ。しかも喧嘩をせずにすんだのは全く自分の力ではない。終始君の寬大な爲であつた。自分が没論理に感情上から卑しい己を立て通した時に、自分の醜い姿が如何に明に君の眼に映じたかは、自分でも知つてゐる。地を換へたなら、自分は必ずかうした態度に出る男を指彈したに相違ない。いくら寬大でも、嘲侮はしたに相違ない。此點で自分は君がよく自分の我儘をゆるしてくれたと思ふ。さうしてさう思つたときに、今まで感じなかつたなつかしさが新しく自分の心にあふれてくる。

 井川君、[やぶちゃん注:以上四字は岩波文庫「芥川龍之介書簡集」で補った。]君は自分が君を尊敬していることはしつてゐるだらうと思ふ。けれども自分が如何に君を愛してゐるかは知らないかもしれないと思ふ。我々の思想は隅の隅迄同じ呼吸をしてゐないかもしれない。我々の神經は端の端までもつれあつてはゐないかもしれない。しかし自分は君を理解し得たに近いと信じてゐるし、君も又これを信じて欲しいと思つてゐる。[やぶちゃん注:岩波旧全集ではここで改行が入るが、前記岩波文庫の復元版に従って続けた。]一諸にゐて一緖に話してゐる間は感じなかつたが、愈々君が京都へゆくとなつて見ると、自分は大へんさびしく思ふ。時としては惡み、時としては爭つたが、矢張三年間一高にゐた間に一番愛してゐたのは君だつたと思ふ。[やぶちゃん注:同前で続ける。]センチメンタルな事をかいたが、笑つてはいけない。こんな事を考へるやうでは少し神經衰弱にかかつたのかもしれないと思ふ。しかし今は眞面目で之をかいてゐる。かきつつある間は少くとも僞を交へずにかいてゐると思つてゐる。自分は月並な友情を感激にみちた文句で表白する程閑人ではない。三年の生活をふりかへつて、しみじみと之を感ずるから書いてゐるのである。[やぶちゃん注:同前で続ける。]君のゐなくなつたあとで、自分の生活はどう變るか。遠心力と吸心力とは中心を失つた後にどう働く事が出來るか。それは自分にもわからない。君によつて初めて拍たれた鍵盤は、うつ手がなくなつた後も猶ひびく事が出來るか。出來るとしても、始と[やぶちゃん注:岩波旧全集は『殆ど』であるが、ここは前記岩波文庫のそれを採った。]同じ音色でひびくだらうか。それも自分にはわからない。

 今時計が十二時をうつ。もうペンを擱かなくてはならない。長々とくだらない事をかいたが、まだ書きたい事は澤山あるやうな氣がする。寢ても、こんな調子では寢つかれさうもない。[やぶちゃん注:岩波旧全集はここに『〔この間十二行省略〕』とある。同前の仕儀で復元した。]この手紙の二枚目は書いてゆく紙面の順序が外のとちがつてゐるから赤いんきで12としるしをつけておく。よくこの印をみてよまなくつちやあいけない。

 忙しいので石田にはまだあはない。一、二年の成蹟をみに行つたら小栗栖君にあつた。廿日頃京都へゆくつて云つてた。一高の入學試驗もすんだ。城下良平さんは少しあぶなさうだ。國語に「さすがになめくて」と云ふのが出たのでよわつたと云つてゐた。

 この頃「剪燈新話」だの「金瓶梅」だの古ぼけた本を少しよんだよ。[やぶちゃん注:岩波旧全集に戻る。]村田さんのところへは行つた。君が藪のある所を曲ると云つたから、山伏町で下りて、二番目の橫町をはいつてから藪ばかりさがしたが、藪が出ないうちに先生の門の前へ來てしまつた。村田さんのうちは村田さんのあたまのやうな家ぢやあないか。紅茶を御馳走になつた。女中が小さいくせに大へん丁寧なので感心した。

 よみにくいだらうが我慢してよんでくれ給へ。遲くなつたからもう寢る事にする。

 蚊がくふ。蒸暑い。御寺へは八月の二、三日頃ゆく事にした。さようなら。

    十七日夜           龍

   恭君

  追伸 また田中原だか内中原だかわすれたから曖昧に上がきをかく。今度手紙をくれる時かいてくれ給へ。

 

[やぶちゃん注:「卒業式」七月一日。成績は二十六日中、二番で、首席は井川恭であった。

「新しい大學の生活」龍之介はこの年の九月に東京帝国大学文科大学英吉利文学科に進学した。

「君がゐなくなつた」井川は同じく、九月、結局、京都帝国大学法科への進学を決め、東京を去ることになる。新全集の宮坂年譜によれば、井川は、『一時は』東京帝国大学『入学の意志もあったが』、九月十日頃、『芥川に』京都帝国大学『転学願いとその理由書が送られている』(後に電子化する)とある。但し、京都行きはこの時点で以下に現われる。転学というのは、法科へのそれを言っているものととる。井川は龍之介と出逢う以前の松江にあった時から、文芸作品を多くものしており、文科への進学希望があったものと思われ、しかし、芥川龍之介という類稀なる文才に触れて、文科進学から法科へ転ずるという経緯があったものとも私は推察している。

「オリギナリテート」Originalität。これはドイツ語で、「独創性」。

「VANITY」虚栄。自惚れ。

「エキザジェレーション」exaggeration。誇張。

「justify」正当化する。

「ability」能力。

「二年の時、僕が寮へはいつて間もなくであつた。散步をしてかへつて見ると誰もゐない。一寸本をよむ氣にならなかつたので、口笛をふきながら室の中をあるいてゐると、君の机の上にある白い本が見えた。何氣なくあけて見ると、フランス語のマーテルリンクであつた。(其時まで僕は君がふらんす語が出來る事をしらなかつた)。自分はその本の表紙をとぢる時に、讃嘆と云ふより寧ろ不快な氣がした」これには非常に腑に落ちる事実がある。既に示した明治四三(一九一〇)年四月二十三日附の親友山本喜誉司へ宛てた書簡で龍之介が山本にメーテルリンクの「青い鳥」を読むことを強く勧めている事実である。龍之介が井川と親しくなったのは、一高一学年の二学期頃からであった(翰林書房「芥川龍之介新辞典」に拠る)。一年の二学期の終了は明治四十四年三月であった。しかし、ここで龍之介が告白している事実は、龍之介がいやいや寮生活を始めた明治四十四年の九月以降の一高二学年の初めの頃であることが明白である(龍之介が時制上の噓をついている可能性はシークエンスからしてあり得ないと私は思う)。則ち、英文で前年に自分が読んで感銘して親友山本に推薦した「青い鳥」を、この時、井川がフランス語版で読んでいるという事実を知ったことは、正直、当時の文学的語学的才能を自負していた龍之介にとっては、すこぶるショックであったことが想像に難くないからである。「不快な氣はその後數月に亙つて僕を剌戟して、何册かの本をよませた」「こんなに君は自分が自他の優劣を最明白に見る事が出來る鏡であつた」という告白がのっぴきならないものであったことが判るのである。

「可及的」及ぶ限り。出来るだけ。

「石田」既出既注の石田幹之助。

「小栗栖」小栗栖国道(?~昭和二(一九二七)年)。大分生まれ。一高時代の同級生。一高を井川・芥川に次いで三番の成績で卒業し、井川と同じく京都帝国大学法科に進学した。後に母校京都帝大教授となった(新全集「人名解説索引」に拠る)。

「城下良平」不詳。たまんねえな。検索かけたら、『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「四」』が掛かってって来やがったぜ。井川・龍之介共通の友人ではある。「さん」付けしているので、龍之介よりも年齢が上かも知れない。井川は内臓疾患と思われる病気で、中学卒業後に三年間の療養生活を送ったため、龍之介よりも四歳年長であり、或いは、井川から紹介された人物かも知れない。判らない。

「さすがになめくて」「さすがに無禮くて」そうは言っても無礼・無作法で。出典は不詳。

「剪燈新話」明の瞿佑(くゆう)の撰になる伝奇小説集。全四巻。一三七八年頃の成立。華麗な文語体で書かれ、唐代伝奇の流れを汲む夢幻的な物語が多い。後代の通俗小説・戯曲及び本邦の江戸文学に与えた影響が大きく、浅井了意の怪奇小説集「御伽婢子(おとぎぼうこ)」や三遊亭円朝の落語「怪談牡丹燈籠」はその一部を翻案したものである。龍之介の怪奇趣味が私とびちっと一致する。

「金瓶梅」明代の長編小説。全百回。作者未詳。「水滸伝」の一挿話に題材を採り、薬商西門慶(せいもんけい)が大富豪に成り上がって、破滅するまでを描く。色欲生活の描写が多く、題名は相手の三人の女性の名に由来する。中国四大奇書の一つ。

「村田」「先生」一高の英語教授村田祐治(文久四・元治元(一八六四)年~昭和九(一九四四)年)か。現在の千葉県生まれ。

「山伏町」現在の市谷山伏町(いちがややまぶしちょう)附近か(グーグル・マップ・データ)。東京都新宿区の地名で旧牛込区に当たる。当時、芥川家が住んでいた場所から比較的近い。

「御寺へは八月の二、三日頃ゆく事にした」龍之介は同年八月六日から同二十二日まで、静岡県安倍郡不二見(ふじみ)村(現在の静岡県静岡市清水区北矢部町)の臨済宗雲門山定院(しんじょういん:グーグル・マップ・データ)に滞在し、午前中は読書、午後は海水浴、夕方は散歩という生活を半月ばかり送っている。最初の一、二週間は友人の西川英次郎は一緒であったらしい(一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」に拠る)。新全集宮坂年譜では、朝六時『起床、読書(英文原書。英訳本など)をしたり、手紙を書いたり、新聞を読んだりして過ごした。午後には、近所の子供と江尻』(当時、現在の清水駅は「江尻驛」で直近の東が海岸になっていた。「今昔マップ」のこちらを参照されたい)『の海水浴場に出かけたりもしている』とある。

「田中原だか内中原だか」井川実家の松江の地名。後の書簡で「松江市内中原」(グーグル・マップ・データ)と確認出来る。]

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