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2021/02/24

怪談老の杖 電子化注 始動 / 序・目次・卷之一 杖の靈異

 

[やぶちゃん注:「怪談老の杖」は底本(後述)の朝倉治彦氏の「後記」によれば、序文からの推定で宝暦四(一七五四)年、元は友人で文人御家人・狂歌師の大田蜀山人の旧蔵書(途中に二箇所の大田の識語がある)「平秩東作全集」の下巻の一部であるらしい。

 作者平秩東作(へづつとうさく 享保一一(一七二六)年~寛政元(一七八九)年)は戯作者・狂歌師・漢詩人。姓は立松。名は懐之(かねゆき)。平秩東作は戯号。号に東蒙山人。内藤新宿生まれ。父道佐は元尾州藩士で、屋号を稲毛屋金右衛門と名乗った。東作が十歳の時に父が亡くなり、十四歳で父の後を継いで、馬宿(うまやど:自分の馬で旅をする者が宿に泊まる際、その馬を宿で預かったり、馬を預かる設備のある宿屋を営むこと)及び煙草商になった。漢文学や和歌の教養があり、平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年)と親交を持った。天明三(一七八三)年から翌年までは松前と江差に滞在しており、アイヌ風俗及び蝦夷地風土について見聞したところを記した「東遊記」を著しており、狂歌師としても知られ、四方赤良(よものあから:大田(蜀山人)南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)の狂号)らとも交友を持った。田沼意次絡みの幕府関連事業にも手を染めたが、「寛政の改革」によって幕府の咎めを受けており、そちらの実業面では「山師」的な側面をも持っていたようであるが、一方で、知己であった旗本土山(つちやま)宗次郎が買米金五百両を横領で逐電した際には彼を匿って捕縛されたり(宗次郎は斬首)、平賀源内が獄死した後、罪人なれば、遺体の引き取り手のなかった中、公儀に目をつけられることを覚悟の上で、東作が引き取ったともされ、一種、男気のある人物でもあった。

 底本は「燕石十種」(大正二(一九一三)年国書刊行会刊明治45-正字正仮名)の国立国会図書館デジタルコレクションの画像としたが、所持する同書の昭和五六(一九八一)国書刊行会刊「新燕石十種 第五巻」(新字正仮名)をOCRで読み込み、加工データとしつつ、校合した。

 本文にはごく僅かにルビが附されてあるので、それは《 》で示し、難読と判読した箇所には私の推定で歴史的仮名遣で( )で読みを附した。序を除く本文では、段落を成形し、句読点や記号も変更・追加した(底本は読点のみで句点はない)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。注はストイックに附した。【2021224日 藪野直史】]

 

  怪談老の杖

 

  怪談老の杖序

            平 原 子 編 輯

逍遙軒太田翁は、持資入道の遠裔にして、世(よゝ)控弦(こうげん)の家なり、壯なりし時は、豐後の國の城主に仕(つかへ)て、食祿三百石を賜り、威焰(いえん)手をあぶる勢なりしが、主侯うせ給ひて、其後睚眦(がいさい)の士多く、その口語に中(あて)られて、藩邸を退き、葛飾の邊に閉居して、奉祿の餘りありて、豐(ゆたか)に暮されしが、池魚の災(わざはひ)に逢ふ事、しばしば、生產漸(やうやく)盡きて、城西の膝子(ひざこ)驛にうつり、門を杜(とぢ)て出ざる事二十餘年、性、淸潔にして世に謟(へつら)はず、文武の業に精(くは)しかりければ、武邊の物語を好み、又怪異の話を嗜(たしな)みて、明暮、是を娛(たのしみ)とせり、若き頃、西海の往返(わうへん)年を重ね、爰かしこの奇談をしるしおかれけるが、老後の著述を合せて、頗る卷(かん)帙(ちつ)をなせり、翁八十にちかくて終り給ひぬ。歿後、その書、散逸して全(まつた)からず。一婢あり、幼(いとけなき)より翁に事(つか)へて恭敬(きやうけい)衰へず、のち、尼となりて、好運尼とよべり。こころざま、誠ありて、手など、拙(つたな)からず書(かき)けるが、反古堆(ほぐつい)の中(うち)より、ひとつ、ふたつと、求めいでゝ、箱のうちに祕めおきしものあり。乞ふてみれば、翁の手澤もなつかしく、また、みん人のこゝろをなぐさめ、善に勸むのはしともならば、翁の志しもむなしからじと、[怪談の卷を集めて]しげきを刪(けづ)り、疑しきを闕(はぶき)て、十あまりの卷となりぬ、書林なにがし、いたく乞ひてやまず、いなみがたくて是を與ふ。翁、姓名を變じては福井氏となり、流憩子と號す。語は淵明が賦中にとれり。此書、まづ、はじめに、杖の怪あるも、そのゑにしなきにあらず、よて、取あへず、老の杖と題し、これが序、かきてつかはす事になりぬ。

  寶曆丙戌の春

                 紫桃軒主人謹誌

[やぶちゃん注:「平原子」「紫桃軒主人」孰れも平秩東作の号。

「逍遙軒太田翁」「福井」「流憩子」本篇の原作者とするが、不詳。

「持資入道」室町後期の扇谷上杉家の家宰にして武蔵守護代で、江戸城の築城で知られる太田道灌(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)の諱(いみな)。

「控弦」弓術。

「豐後の國の城主」小藩が分立した豊後には九つもの藩があるので、特定は不能。最大の石高(七万石)で城持ちとなると、岡藩(藩庁は岡城(グーグル・マップ・データ)。豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)にあった)である。しかも、第一話の主人公がまさに「岡の城外」に住んでいるからして、そこでよかろうか。

「威焰」権勢。

「睚眦」「睚」は「睨む」、「眦」は「まなじり」の意。目を怒らして睨みつけること。憎そうに人を見ること。

「口語」語り合い。ここは前の「睚眦の士」から、分相応の扱いを得られないことへの憤懣の主張や言い争いを指すものと思われる。

「池魚の災」思いがけない災難に巻き込まれること。側杖を食うこと。特に回禄(火事)で類焼に遇うことを指すことが多い。原拠は、「池に投ぜられた宝珠を得ようと池を浚ったため、中の魚が総て死んだ」という「呂氏春秋」の「孝行覧 必己」の故事によるが、語源を語る中では、「城門が焼けた時、池の水を使ったために死んだ」として引用されることが多い。江戸は甚大な大火が多かったから、腑に落ちる謂いである。

「生產」ここは「生活に必要な物資の蓄え」の意。「しやうざん(しょうざん)」とも読む。

「膝子驛」現在の埼玉県さいたま市見沼区膝子(グーグル・マップ・データ)。旧北足立郡膝子(ひざこ)村。江戸時代は立場(たてば:五街道や脇街道に設けられた施設で「継立場(つぎたてば)」「継場(つぎば)」とも称する。江戸時代の宿場は、原則、道中奉行が管轄した町を指すが、五街道などで次の宿場町が遠い場合、その途中に、或いは、峠のような難所がある場合、その難所の近くに休憩施設として設けられたものを立場と称した)として栄えたという。

「杜て」「杜」には「塞ぐ・閉じる」の意がある。

「全(まつた)からず」取り纏めて残ることがなかった。

「好運尼」不詳。当初、この由来そのものが総て架空の話で、本篇は仮託であるように私には思われたが、先の朝倉氏の「後記」に、『巻四の終りの第四話は、福井翁の直話を記してあるから、この条は原稿からの抄出ではあるまい。それに続いて、蜀人が東作から聞いた、幼時の実話が書きそえてある』とされるのを見るに、必ずしも仮託とは言い切れぬ感じがする。

「反古堆」書き散らして定稿としなかった文章片の山。

「手澤」(しゆたく(しゅたく))「手沢本」の略。先人が生前に愛読した本。先人の書き入れなどがある本を指す。

[怪談の卷を集めて]底本では全体が四角で囲われている。この仕儀は以降、このように示し([ ]に下線)向後はいちいち注さない。底本編者に拠る諸本を校合した推定補填と思われる。

「しげき」あまりに煩わしい記載部分を示す。

「十あまりの卷となりぬ。書林なにがし、いたく乞ひてやまず、いなみがたくて是を與ふ」所持する刊本の朝倉氏に「後記」によれば、刊行された事実は見当たらないとある。本篇の巻数も、また、合わない。

「流憩子と號す。語は淵明が賦中にとれり」知られた陶淵明の「歸去來兮辭」の一節に、

   *

策扶老以流憩(扶老(ふらう)を策(つゑつ)き 以て 流憩し)

   *

がある。言うまでもないが、「扶老」は「杖」のことであり、この新たに「逍遙軒太田翁」「福井」氏が号したそれを説明するとともに、本篇の題名「老の杖」の由来も第一話のみならず、それに淵源することを「此書、まづ、はじめに、杖の怪あるも、そのゑにしなきにあらず」と但し書きするのである。

「よて」「依りて」。

「寶曆丙戌」宝暦には「丙戌」(ひのえいぬ/へいじゆつ(へいじゅつ)はない。朝倉氏の「後記」では、太田蜀山人は、「甲戌」で宝暦四年(一七五四年)或いは「丙子」で宝暦六年『と考えて朱を入れているが、甲戌(四年)ではあるまいか』と注されておられ、冒頭注ではそれを採用させて戴いた。

 

 

怪談老の杖目次

 

  卷之一

 杖の靈異

 紺屋何某が夢

 小島屋怪異に逢し話

 水虎かしらぬ

 幽靈の筆跡

 石塔の飛行

 

  卷之二

 半婢の亡靈

 生靈の心得違

 狐鬼女に化し話

 くらやみ坂の怪

 化物水を汲む

 貉童に化る

 多慾の人災にあふ

 

  卷之三

 美濃の國仙境

 吉原の化物

 小豆ばかりといふ化物[やぶちゃん注:底本は「小豆はかり」と清音であるが、本文で「ばかり」と濁っており、所蔵の同書も濁音であるので、特異的に訂した。]

 德島の心中

 慢心怪を生ず

 狐のよめ入

 狸寶劔をあたふ

 

   卷之四

 藝術に至るの話

 厩橋の百物語

 (失題)

 福井氏高名の話

 

 

怪談老の杖卷之一

 

   ○杖の靈異

「ちはやぶる神やきりけんつくからにちとせの坂も越えぬべらなり」

と、よみて、杖はめでたき具なり。されば、費長房が杖は龍と化し、[やぶちゃん注:底本はここに囲み字で『原本缺字』とする。四字分相当。]杖は鶴となりし例(ため)しありといふに、爰にもまた、奇異の物語を傳へぬ。

 豐後の國岡の城外に、物外(ぶつぐわい)といへる隱士あり。もとは諸侯に仕官の身なりしが、心にそまずやありけん、病(やまひ)に託して、身、退き、世をやすく暮しぬ。

 常にまがれる竹の杖を愛して、いづ方へも攜(たづさ)へ出られけるが、そのかたち、ふし、しげく、所々、くびれ、入りて、いとめづらなるさま、[なか杖][やぶちゃん注:所持する刊本ではこの囲み字(則ち、推定で補った欠字)が『なる杖』でこの方がすんなり読めることは事実である。]なりしを、いたく、けふじて、

「謝靈運が笠のためしも引出つべう、おのが心のゆがめるには、よき、いさめ草なり。」

など、愛せるあまり、常にも袋に入れ、あからさまなる處にもおかず、逸樂の身なれば、あるは、釣(つり)、たれ、野山の花もみぢに、一日(いちじつ)も、宿にある日は、まれなるに、いづかたへ行ても、かたはらに引そばめて、あたかも、寶鼎・重器のごとくかしづかれけるを、そしれる人も多かりけり。

 ある日、城下より三里程脇に、心やすく語う[やぶちゃん注:「かたらう」。ママ。実は底本は「語り」。所持する刊本で特異的に訂した。]僧のありしを訪(とぶら)はんとて、宵より僕(しもべ)にいひつけて、土產やうのものなど、取したゝめ、いつよりもはやく、閨(ねや)に入りて、休まれける夢に、同じ僧のがりゆくとて、野道にふみ迷ひ、茫然たる折ふし、むかふより若き男の、たけ高く、ふとりたるが、あゆみ來りて、

「きみには、いづこへおはしますにか。」

と、いと馴れ馴れしげにいふを、『あやし』と、おもひて、

「そこには、誰(た)れぞ。」

と問ヘば、

「我は、朝夕に君の傍(かたはら)を離れぬものを。うとうとしき仰(おほせ)かな。道に迷ひ給ふにこそ。我に順ひて來り給へ。」

と、先にたつを、『あやし』と、おもふおもふ、つきて行しに、その傍の岸、にはかに崩れて、下に、あめうしのありしが、うたれて死したり、と見て、夢さめぬ。

「さても。夢にてありし。」

と、兎角して、又、寐入り、翌の日、何心なく出行(いでゆき)ぬるに、主從ともに道にふみ迷ひて、爰(ここ)よ、かしこと、尋(たづね)さまよへど、ふつうに、知れず。

「狐などの化(ばか)すにや。」

と、眉につばなどぬり、心を靜めて尋ぬれど、畑道にて、しれざりしに、よべの夢の事、おもひ出(いで)て、

「さては。杖のしらせたるなるべし、實(げ)にも、『道に迷へる人は、杖を立て知る』といふ事も侍るにや。」

と、杖を念じて立(たて)つゝ、さて、杖のたふれたるかたを、めあてに、行ぬ。

 いつもゆく道とはたがふ、と覺へけれど、

「かく心付しうへは、しかるべき敎(をしへ)ぞ。」

と、信じ行けるに、巳の時[やぶちゃん注:午前十時頃。]ばかりにや、おびたゞしき地震、ゆりいでゝ、みるがうちに、過來(すぎこ)し道、くづれ、日頃すみし家も、上の山、崩れて、ひしげぬ。

 爰かしこにて、人も死し、牛馬もうせけるに、物外主從はつゝがなくて、橫難(わうなん)をまぬがれける。

「是、またく、杖の靈異なり。」

とて、囊を、改め、箱をつくりて、いとゞ貴(たふと)みける。

 その子孫、今になほ敬ひて、神のごとく奉ずるといへり。

 かの「徒然草」にかける土おほねも、愛するよりぞ、今はの時の災(わざはひ)を助けけん。心なきものといへども、いと哀れに年頃の情(なさけ)をば、おもひしりけるにこそ、まして、人たるものの、さる心なき、論ずるにも足らず、淺ましといへり。

 物外子、仕官の時の名は、山田半右衞門といへり。その子、外記(げき)、その孫、又半右衞門といふ。正德年中の事なり。

[やぶちゃん注:「ちはやぶる神やきりけんつくからにちとせの坂も越えぬべらなり」「古今和歌集」の巻第七「賀歌」の僧正遍照の一首(三四八番歌)、

   *

    仁和の帝(みかど)の、親王(みこ)に
    おはしましける時に、御をばの、
    八十(やそぢ)の賀に、
    銀(しろがね)を杖に作れりけるを
    見て、かの御をばに代りてよみける

 ちはやぶる神や伐りけむ突くからに

      千とせの坂も越えぬべらなり

   *

である。「この銀の杖は、神がお伐り出しなさったものなのでしょうか。お突きになってお歩きになれば、必ず、千年の長寿の坂さえもきっとお越えになられるに違い御座いません」という意である。

「費長房が杖は龍と化し」(ひちやうばう(ひちょうぼう))は後漢の方士・仙人(生没年未詳)。『柴田宵曲 續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(1)』の冒頭本文と私の注を参照されたい。

「杖は鶴となりし」原本がどの伝承を引いたかは判らぬが、鶴は仙人の常用する乗り物であるから、腑に落ちる。

「物外(ぶつぐわい)」この名も人を食った名である。「物外」とは「物質界を超越した世界・俗世間の外」の意である。

「病に託して」病気を口実として。無論、仮病である。

「謝靈運が笠のためし」「謝靈運」(しゃれいうん 三八五年~四三三年)は六朝時代の宋の詩人。貴族で祖父謝玄は晋の車騎将軍康楽公。その祖父の爵位を若くして継いだので「謝康楽」とも呼ばれる。自負心が強く、野心家であったが、宋代には不遇で、永嘉太守などを務めた後、辞任し、畜財にまかせて山水を遊歴したが、「謀反を企てた」として広州に流され、処刑された。当時、最高の教養を持ち、六朝を代表する詩人で、洗練された感覚と繊細な表現で山水の美を謳った。仏典に関する著述もある。一族の謝恵連・謝朓(しゃちょう)とともに「三謝」と呼ばれる。これは「世說新語」の「言語」の掉尾に、

   *

謝靈運、好戴曲柄笠、孔隱士謂曰、「卿欲希心高遠、何不能遺曲蓋之貌。」。謝答曰、「將不畏影者、未能忘懷。」。

(謝靈運、好んで曲柄笠(きよくへいりう)を戴く。孔隱士、謂ひて曰はく、「卿、心に高遠を希(ねが)はんと欲するに、何ぞ曲蓋(きよくがい)の貌(ばう)を遺(わす)るること、能(あた)はざる。」と。謝、答へて曰はく、「將(は)た影(かげ)を畏るる者は、未だ懷(おも)ふことを忘すること、能はざらんや。」と。)

   *

とあるのに基づく。「曲柄笠」は元は柄の曲がつた車蓋(車に立てる大きな傘)であるが、後に貴人の儀仗として用いた。「孔隱士」(孔淳之)は彼が「曲柄笠」という物の外形に拘ることを批判して言ったのに対して、霊運は、「君のように影を恐れて批難する者は、実は未だに影という対象たる事物が念頭を去っていないということを示してはいないかね?」とパラドキシャルに返したのである。

「がり」名詞。~のもと(所)へ。多く、このように人を表す名詞・代名詞に格助詞「の」が付いた形に続く。

「うとうとしき」「疎疎しき」。如何にもな「よそよそしい」応答であることをたしなめたのである。

「道に迷ひ給ふにこそ。」結びの省略。強意。

「岸」切岸(きりぎし)。崖。

「あめうし」「黃牛」飴色の毛色の牛。古くは立派な牛として貴ばれた。

「眉につばなどぬり」狐に化かされないようにためには、眉に唾をつけるとよいと言う。これは「狐に化かされるのは眉毛の数を読まれるからだ」と信じられたからで、濡らしてくっ付けて数えることが出来ないようにするという謂いとされる。但し、私は唾の腥い臭いも呪的効果を持つものと考えている。

「畑道にて、しれざりしに」ずっと畑の続く、それ以外に何も変化のない道で、全くどこであるか判らない事態に陥り、の意。現在で言うところの、所謂、単調な高速道路を走行中に運転者が眠気などを催す「ハイウェイ・ヒプノーシス」(Highway hypnosis)や、山中や雪・霧の中でしばしば起こる人が方向感覚を失って無意識のうちに円を描くように同一地点を彷徨(さまよ)い歩く「ルングワンダリング」(和製ドイツ語:Ringwanderung:輪(環)形彷徨)に類似した疑似超常現象とも言える。

「道に迷へる人は、杖を立て知る」「杖を念じて立つゝ、さて、杖のたふれたるかたを、めあてに、行ぬ」民俗社会に於ける呪的なお約束ごとである。

「橫難」不慮の災難。

『かの「徒然草」にかける土おほね』同書第六十八段の大根好きの男の不思議な話である。以下に示す。

   *

 筑紫(つくし)に、某(なにがし)の押領使(あふりやうし)[やぶちゃん注:警察官相当。]などいふ樣(やう)なる者のありけるが、土大根(つちおほね)を萬(よろづ)にいみじき藥とて、朝ごとに二つづゝ燒きて食ひける事、年久ひさしくなりぬ。

 或る時、館(たち)の内に人もなかりける隙(ひま)をはかりて、敵(かたき)襲ひ來(き)て、圍(かこ)み攻めけるに、館の内に、兵(つはもの)、二人、出で來て、命を惜(を)しまず、戰ひて、皆、追ひ返してけり。いと不思議に覺えて、

「日比(ひごろ)こゝにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戰ひし給ふは、いかなる人ぞ。」

と問ひければ、

「年來(としごろ)賴みて、朝な朝な、召しつる土大根にさぶらふ。」

と言ひて、失せにけり。

 深く信を致しぬれば、かゝる德もありけるにこそ。

   *

「山田半右衞門」「その子、外記(げき)」「その孫、又半右衞門」似たような名を探すことは出来るが、ここはさような詮索は無粋としておこう。

「正德」宝永の後で享保の前。一七一一年から一七一六年まで。徳川家宣・家継の治世。]

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