芥川龍之介書簡抄15 / 大正二(一九一三)年書簡より(2) 三通
大正二(一九一三)年八月四日・山本喜譽司宛(封筒欠)
朝床の中で君の手紙をよんだ
何にしても大した變動もなく事がすんだのなら御目出度いと思ふ 又君自身が正當と考へてした事ならそれは誰の考へるよりも更に正當なものでなければならないと思ふ(秋たつ頃に詳しい話をきかせてもらへるだらうと思ふけれど)ANATOLE FRANCE[やぶちゃん注:縦書。]がこんな事を云つてゐる
You are not a child: if you love and are loved,
do what you think right. and don't complicate
love by material interests which have nothing
to do with feeling. That is the advice of a friend.
咋日平塚を訪ねた 三中の宿直室も久しぶりで行つてみるとなつかしい まづしく土鉢の中にさく天竺蜀葵の赤もしめつぽいビスケツトをもつた白い皿も 静にあの四疊で獨乙語の独習をしてゐる平塚にはふさはしいやうな氣がする 平塚に依田が鵠沼へ行つた事をきいた それから依田から君が大へんふさいでゐる事をきいたと云ふ事もきいた どうしてふさいでゐるのかなつてきいて見たら平塚は幼稚な論理と單純な推側から君のふさいでゐる理由を体の弱い事と叔父さんに澤山用を云ひつけられる事とその二つから来る大學入學後の心配とに歸着させた それを聞いてる間に僕は平塚がしみじみ氣の毒になつた さうしてこんな事をきかなければよかつたと思つた それのみならず第一僕自身が君の内事をきくだけの資格があるだらうかとそれさへ疑はしくなつて來た そこで僕も其三つの理由に賛成して「さうにちがいない」と斷定に應援を添へてやつた そのあとで Grimm の märchen の中のわからない所をきかれたが一寸よんでみても判然しないからいゝ加滅な事を敎へて「さうにちがいない 獨乙語にはこんな使ひ方が澤山ある」と誤譯にまで應援を加へて來た
六日の朝の汽車で僕はたつ事にした 行くさきは静岡縣安倍郡不二見村新定院
一二週間は西川と一緖にゐてあとは獨になるかもしれない 本を少しよむつもりでもつてゆくけれどこれも大部分よまずにもつてかへるやうな事になるかもしれない、
君の方も多分さうだらうが東京はこの二三日大へんすゞしかつた 少し眼がわるくなつた
杖をこしらへた 紫檀で、もつ所は黑檀のだ あんまりよくないけど學生だからこれでがまんする 紫檀の所へ何か羅甸語[やぶちゃん注:「ラテンご」。]の銘を刻つて貰はうかとも思つてる 赤百合か何かの中に杖の頭へ女の泣顔を刻んで MISERY OF HUMANITY て云つてる詩人の事を思ひ出す
頭がわるくなつてすゞしくつても勉强が出來ない
つかのまのゆめのなかなるつかのまをめづるあまりに身をおとしける
あゝ遂にみぢかきゆめをつゞけゆく逸樂びととなりにけらしな
によひよき絹の小枕(クツサン)薔薇色の羽ねぶとんもてきづかれし墓[やぶちゃん注:「によひ」はママ。]
香料をふりそゝぎたるふしどより戀の柩にしくものはなし
いやみな歌だつてわらはれるかもしれない 午前十時サルヒアの花が暑い日の光を吸つてゐる
四日 龍
JOY兄 案下
[やぶちゃん注:最初の引用英文は完全に続いて底本では二行であるが、二行目も二字下げであることから、ブラウザでの不具合も考えて、以上のように四行に分割した。短歌の前後は一行空けた。
「何にしても大した變動もなく事がすんだのなら御目出度いと思ふ 又君自身が正當と考へてした事ならそれは誰の考へるよりも更に正當なものでなければならないと思ふ(秋たつ頃に詳しい話をきかせてもらへるだらうと思ふけれど)」芥川龍之介が山本の気持ちの整理に一ヶ月ぐらいは時間がかかるらしいと踏んでいること、また、英文引用で家人の目に触れても意味が判らぬようにしている、その忠告の内容(後で訳す)、失恋の自作短歌を並べた後に「いやみな歌だつてわらはれるかもしれない」と言っていること、そうして何より、次に掲げる八月十一日の同じ山本宛書簡に於いて、俄然、芥川龍之介が自分自身の持つ結婚観をぶち上げ、しかもその中で、『第一に平凡な世間並の忠告――愛さない女はもらふな――を第二に自分を理解する事の出來ない女をもらふなをすゝめたいと思ふ』と記していることからも、ここで起こった山本を廻る家内の騒擾は、親から示された山本の婚約・結婚話を山本が拒否したことに基づくものではないかと想像される。
「ANATOLE FRANCE」芥川龍之介の好きなフランスの詩人・小説家・批評家のアナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)。以下のその引用(小説から。後述する)は、
*
あなたは子供ではない。あなたが人を愛し、愛されているのなら、あなたが正当であると思うことをするべきであって、感情とは何の関係もない物質的な興味などによって、愛を複雑にしてはならない。それが友人としての忠告である。
*
か。これは一八九四年に発表された、恋愛長編小説「紅い百合」(Le Lys Rouge:十九世紀末のパリとフィレンツェを舞台として軽薄奢侈な社交界に飽きて真実の愛と自由を求めた貴婦人テレーズの官能的で儚い恋愛模様を描く)の「XVII」(第十七章)の末尾に現われる台詞である。例えば、「Internet archive」にある英訳本(発行は原作と同年)のここを見られたい(右の「167」ページ七行目)。今少しボリュームがあるが、ほぼ同一の内容の英訳が読める。
「平塚」既注。「僕は平塚がしみじみ氣の毒になつた」理由もそちらで判るように注してある。
「天竺蜀葵」フウロソウ目フウロソウ科テンジクアオイ属 Pelargonium のことであるが、一般には「ゼラニウム」の名で知られる園芸品種である。当該ウィキによれば、属名は『ギリシャ語の「こうのとり」』(ラテン文字転写:pelargo)」『に由来し、果実に錐状の突起があり、こうのとりのくちばしに似ているためである』。『普通、園芸植物として栽培されるものはゼラニウムと総称されるが、紛らわしいことに、ゼラニウムとは同じ科のゲンノショウコなどが含まれるフウロソウ属(Geranium)のことでもある。この』二『つの属に属する植物は元は Geranium 属にまとめられていたが』、一七八九年に『多肉質の Pelargonium 属を分離した。園芸植物として栽培されていたテンジクアオイ類はこのときに Pelargonium 属に入ったのであるが、古くから Geranium(ゼラニウム、ゲラニウム)の名で親しまれてきたために、園芸名としてはゼラニウムの呼び名が残ったのである。園芸店などでも、本属植物の一部をラテン名でペラルゴニウム(Pelargonium )で呼び、その一方で本属植物の一部を「ゼラニウム」と呼んでいることがあり、これらは全然』、『別の植物のような印象を与えていることがある。ペラルゴニウムとゼラニウムを意識的に区別している場合は、ペラルゴニウム属のうち』、『一季咲きのものをペラルゴニウム、四季咲きのものをゼラニウムとしているようである』。『最初に栽培されたのは南アフリカ原産の Pelargonium triste である』(この元品種、調べてみたが、岩のような塊根で花も地味で、凡そ私の「ゼラニムウム」のイメージではない(愛好家には人気種である)。種小名「トリステ」でこれはラテン語の「つまらない・鈍い・さえない」で、同種の小さい地味な花に由来しているらしい)。『バラを思わせる芳香を持つPelargonium graveolens は』単に「ゼラニウム」、或いは「ローズ・ゼラニウム」、別に「貧乏人の薔薇」『(英語:poor-man's rose)と呼ばれ、和名は「匂い天竺葵」。香水や香料の原料として昔から栽培されていた』とある。
「依田」依田誠。龍之介の三中時代の同級生。三年次、担任で英語教師であった広瀬雄(芥川龍之介書簡既出)と龍之介と三人で明治四一(一九〇八)年七月の夏休みに関西旅行に出かけ、高野山などを訪れている。
「Grimm の märchen」「グリムのメルヒェン」。グリム兄弟の御伽噺。
「六日の朝の汽車で僕はたつ事にした 行くさきは静岡縣安倍郡不二見村新定院」「一二週間は西川と一緖にゐてあとは獨になるかもしれない 本を少しよむつもりでもつてゆくけれどこれも大部分よまずにもつてかへるやうな事になるかもしれない」既注。
「杖をこしらへた 紫檀で、もつ所は黑檀のだ あんまりよくないけど學生だからこれでがまんする 紫檀の所へ何か羅甸語の銘を刻つて貰はうかとも思つてる」芥川龍之介は終生、ステッキ好きであった。私の、芥川龍之介を素材とした田中純の実名小説「二本のステッキ」(昭和三一(一九五六)年二月『小説新潮』発表。佐藤泰治の挿絵)を読まれたい。
「MISERY OF HUMANITY」「人類の悲惨さ」。フランス語なら、‘La misère de la vie’か。私の好きなドリュ・ラ・ロシェル(Drieu La Rochelle)の‘Le Feu Follet’(「消えゆく炎」・「鬼火」。私のサイト・ブログ名の起原)の主人公 Alain Leroy の言いそうな台詞だ。フランス語原本初版の‘Le Lys Rouge’も「Internet archive」で縦覧したが、相応するシークエンスには行き当たらなかった。龍之介自身が「赤百合か何かの中に」と言っているので、最低限度以上(フル・テクストの各単語による検索)に穿鑿する気にならなかった。悪しからず。
「小枕(クツサン)」「クツサン」はルビ。フランス語 ‘coussin’。クッサン。「クッション」のこと。
「サルヒア」シソ目シソ科イヌハッカ亜科ハッカ連アキギリ属サルビア Salvia splendens 。
「JOY」英語で「喜び」の意であるから、山本の名の「喜譽司」に掛けた英語の綽名であろう。この前の八月一日附書簡でも宛名・敬称に『M. JOY 案下』と既に記している。実は「J」は下方が有意に長く伸びている活字なのだが、表示出来ない(以下も同じ)。]
大正二(一九一三)年八月八日・不二見村新定院発信・淺野三千三宛(絵葉書)
僕はこんな寶物をみるのがすきです本物でも贋でもかまはない唯其製作者か所持者が古ければ古い程いゝのです丁度古老の口から中世紀の傳說をきいてゐる樣な気がするからです眞贋とか作の善惡とかを標準にして寶物を拜見するほど人の好いのんきな事はないと思ひます此處には此外に蜷川新左衞門の念持佛と云ふしやれた觀音樣があります顔の長い未來派の作品の樣な觀音さまです
八日朝 蜜柑の木の下にて 芥川生
[やぶちゃん注:既注の臨済宗妙心寺派雲門山新定院の歴史は公式サイトのこちらを参照されたい。
「淺野三千三」(みちぞう 明治二七(一八九四)年~昭和二三(一九四八)年)は千葉県生まれで、三中の芥川龍之介の後輩。後に東京帝国大学薬学科に入学し、大正八(一九一九)年に卒業後、母校帝大薬科の教授となり、「伝染病研究所」化学部・薬学科植物化学・生薬学講座を担当した。地依成分研究で知られ、脂肪族地依酸を五型に分類し、その体系化を図り、微生物領域の脂肪酸研究を進めるなど、天然物有機化学の分野で大きな業績を残した。昭和一一(一九三六)年の「プルビン酸系地依色素に関する研究」で学士院賞を受賞、没した翌年には「ジフテリア菌脂肪酸の研究」に対して日本薬学会学術賞が贈られている。
「蜷川新左衞門」は室町時代の連歌師で俗名を蜷川新右衛門親当(ちかまさ)と言った智蘊(ちうん ?~文安五(一四四八)年)のことか。宮道(みやじ)氏の出で、足利義教に仕えたが、義教の死後に出家し、智蘊と称した。和歌を清巌正徹に学び、「正徹物語」下巻は彼の聞き書きとされる。連歌では、後に飯尾宗祇が選んだ「連歌七賢」の一人とされ、永享五(一四三三)年の「「北野社一日一万句連歌」に参加するなどして活躍した。高山宗砌とともに連歌中興の祖となった人物で、「一休さん」の相手としてもお馴染みである。但し、現在の新定院の寺宝には記されていない。聖観世音菩薩はあるが、それがこれかどうかは判らぬ。]
大正二(一九一三)年八月十一日(年月推定)・「相州高座郡鵠沼村加賀本樣別莊にて」・山本喜譽司樣 親披
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君の手紙をみていろいろな事を考へた 僕は容易に自分を忘れる事の出来ない性分だから何を考へるのでも必自分が中心になる だから僕の考へは僕だけに通用する考へは人には通用しないのにちがひない けれども君の手紙をみたら何か書きたくなつたからとりとめのない考をかいて送らうと思ふ 此 ink の色が僕は大嫌なのだが外に ink がないから仕方がない 紙も Note‐book からさいた罫紙の外に紙がないのだから仕方がない
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僕には結婚が〝二個のbeimgの醜い結合〟とも〝corps of love〟とも考へられない かうした語が普遍的な意味を持つてゐるのでなく世間並な結婚に對する嘲罵の語であるなら贊同の意を表さない事もないが結婚と云ふ事が其事の性質上必然的にかうした語のやうな結果に陷らねばならぬと云ふ事はどうしても信ずる事が出來ない(僕は夢想家だからこれも illusion の一つかもしれないが)僕は結婚によつて我々の生活は完成を告げると思ふ しかしこゝに云ふ結婚を世間並に一對の男女を結びつける形式と考へたら大へんな間違になる 結婚と云ふのは宇宙に存在する二の實在が一体になる事を云ふのだ 原始神の炎のやうな熱と愛とを以て二つの星宿を一つの光芒の中に合せしめる事を云ふのだ 二實在が一体[やぶちゃん注:ママ。]をなす爲には先其間に愛がなければならない(僕は性欲と愛とを同一とは考へない)次いでは其間に円満な理解がなければならない この二物を缺いた結婚は葡萄も酵母も持たない酒造りで生活の酒は決して其手から釀される事はないと思ふ かうして自己が他人の中に生き又他人が自己の中に生きる落寞とした〝生〟の路はかくして始めて薔薇と百合とに蔽はれる事が出來るのではないか 人はかう云ふかもしれない〝それなら二人の男女が相愛すればいゝではないか 何に苦んで結婚と云ふ Bond を帶びる必要があらう〟しかし人間はアダムとイブとの樣に生きてゐるのではない 個人は社會と對立してゐる 結婚の Bond なくして同じき結果を得んが爲に他の欲望を犧牲にしなければならぬ(たとへば道義慾)さうすると結婚の Bond を帶びると云ふ事は一所に死して萬所に生きるのである 一所に死するのではない その結婚の完全に行はるゝ限り唯萬所に生きるのである どうして之が love の corps であらう
IBSEN は結婚問題に解決を與へて相愛する男女は結婚するなと云つてゐる しかし之は解決ではないと思ふ 何となれば問題は how にあるのに IBSEN は問題そのものを否定する だから之は無解決と同じである
君の場合に於ても僕としてすゝめ得る事があるなら第一に平凡な世間並の忠告――愛さない女はもらふな――を第二に自分を理解する事の出來ない女をもらふなをすゝめたいと思ふ
理解し得る得ないは女の敎育程度の如何にあるのではない 女の頭のいゝ惡いにあるのではない(全然之によらないとも云へない 少くも敎育程度の如何が理解に關係するより頭の善惡が理解に關係する方が遙に多いと思ふ)自分のと同じ心の傾向を持つてゐるかどうか 自分と同じ感情を持つ事が出來るかどうかにあると思ふ
僕のいゝかげんな想像を元にして推想してみるとお鶴さんを貰ふのが一番よささうだ しかしさうなるとおしもさんも少しかはいさうだなと思ふ 一寸二人とも見たいやうな氣もする
さうさうもう一つかく事があつた 一度嫁に行つた女はいけない 別れたのでもつれあひがしんだのでもその男の幽靈がついてゐるからね
よみかへしてみると議論が甚 conventional な上に實際自分はこんなに結婚を高く estimateしてゐるかなと疑はしくもなつた いゝやどうせなまけものがなまけながら考へた事だ そのつもりで君もよんでくれるだらう
何でも人の噂によると僕は influencial で人にbad influenceを及ぼしながら自分はすまして見てゐるのださうだ 僕の云ふ事は皆詭弁で Paradox で論理を無視してゐるのださうだ もしさうなら君もこんな手紙のinfluence なんかうけないやうにしたまヘ
僕はいつかも日記にかいた事がある「我 我と同じくつくられたる人を求む かゝる人ありやなしや われは之をしらずされど何となく世界のいづくかにかゝる人ありてわれをまてるが如き心ちするなり これ亦夢なるやも知らざれどかゝる人なくしては われ 生くるに堪へず」一人でもいゝ 一人でもいゝと思ふ 年上でも年下でもいゝ 男でも女でらいゝと思ふ かぎりなくさびしい 僕は何時でもかぎりなくさびしい
そのうちに君にあひたい 事によつたら東京へかへる時に鵠沼へ二三時間よるか藤澤迄君に出て來てもらふかもしれない
十一日朝 蜜柑の木の下にて 龍
MY‘JOY’
[やぶちゃん注:「相州高座郡鵠沼村加賀本樣別莊にて」二〇〇九年岩波文庫刊「芥川龍之介書簡集」(石割透編)では「にて」が『から』となっているが、孰れも不審である。この住所は当時、山本の居た住所であり、この発信日には龍之介は清水の新定院にいた。従ってこれは芥川龍之介の誤記と考えられる。にしても、底本の旧全集と以上が異なるのは、これまた、おかしな話である。新全集を所持しないので判らぬ。石割氏はこの不審に注してもいない。
「beimg」存在物。人間。
「corps of love」「恋愛感情の群れ」か。
「illusion」幻想・錯覚・迷い・勘違い・誤解。
「Bond」ポジティヴには「絆(きづな)」であるが、龍之介は以下でフラットな「結合・同盟・盟約」、さらにはネガティヴな「束縛・拘束」の意も含ませているように読める。
「IBSEN」既出既注のノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen 一八二八年~一九〇六年)。
「相愛する男女は結婚するなと云つてゐる」イプセンの「人形の家」を始めとして、彼がそう訴えているのは判る。
「how」どのようにするべきか。
「お鶴さん」岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の注で石割氏は、『本所で「藍問屋」を営んでいた娘。「本所両国」(一九二七年)では、山本の姪の芥川夫人が、山本が「好きだつた人」と話している』とある。芥川龍之介の「本所兩國」(リンク先は私の電子化注)は最晩年の昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回の連載(二回休載)で、『大阪毎日新聞』の傍系誌であった『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記四六――六〇」を附して、連載されたもの。当時は龍之介は大阪毎日新聞社の特別社員であった。その「方丈記」と題した一節で、旧地の本所をその日訪ねて田端の家に帰り、家族らと話をする中で、
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妻「お鶴さんの家はどうなつたでせう?」
僕「お鶴さん? ああ、あの藍問屋の娘さんか。」
妻「ええ、兄さんの好きだつた人。」
僕「あの家どうだつたかな。兄さんのためにも見て來るんだつけ。尤も前は通つたんだけれども。」
*
と出るのを指す。
「おしもさん」不詳。宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊・旧全集対象)の「人名索引」でもこの書簡のみを指示する。
「一度嫁に行つた女はいけない 別れたのでもつれあひがしんだのでもその男の幽靈がついてゐるからね」これは実の姉ヒサを念頭に置いていると考えられる。既に注した通り、彼女は葛巻義定(義敏は彼との間の子)と結婚したが、明治四三(一九一〇)年九月に離婚している(後にヒサは西川豊と再婚したが、彼が鉄道自殺し、晩年の芥川龍之介はその後始末に奔走する羽目となり、龍之介は遺書(リンク先は「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」)でこの実姉ヒサ及び実弟新原得二と義絶することを妻文に命じていたと推定されている(その部分は死後に遺族によって破棄されている。因みにそこには義敏の扶養の指示もあったと推定される)。なお、ヒサはその後に最初の夫である義定と再々婚している)。
「conventional」因習的な・紋切り型の・独創性を欠いた・陳腐な。
「estimate」見積もる・評価する・価値判断する。
「influencial」influential であろう。他者に対して有意な影響を及ぼすさまを謂う。
「bad influence」悪い影響。
「Paradox」逆説。
『僕はいつかも日記にかいた事がある「我 我と同じくつくられたる人を求む かゝる人ありやなしや われは之をしらずされど何となく世界のいづくかにかゝる人ありてわれをまてるが如き心ちするなり これ亦夢なるやも知らざれどかゝる人なくしては われ 生くるに堪へず」一人でもいゝ 一人でもいゝと思ふ 年上でも年下でもいゝ 男でも女でらいゝと思ふ かぎりなくさびしい 僕は何時でもかぎりなくさびしい』これは、芥川龍之介の後の、多数の女性との恋愛関係を持つことになることを知っている我々には、何んとも言えぬ、甚だ苦いものを感じさせざるを得ない。しかも、この時、龍之介は、相手の山本の姪である塚本文のことを、未だ、その恋愛対象の範疇に、一抹も全く含んでいなかったであろうことを思うにつけても、である。]
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