芥川龍之介書簡抄10 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(3) 藤岡藏六宛(明治天皇崩御直後の一通)
大正元(一九一二)年八月二日・新宿発信・藤岡藏六宛
御不例中に手紙をかいて君の所へ出すばかりにして置いたが號外の連發される騷ぎについわすれてしまつたので書棚の上へのせたまゝ封筒の上に埃がたまるやうになつたその中に君のところから桃色の狀袋にはいつた君の手紙が來たので前の手紙を裂いて新に之をかく
御不例中に夜二重橋へ遙拜しに行つた姊が小學生が三人顏を土につけて二十分も三十分もおじぎをしてゐたと淚ぐんで話したときには僕でも動かされたが其内に御命に代り奉ると云つて二重橋の傍で劇藥をのんだ學生が出たら急にいやな氣になつてしまつた、電車へのつて遙拜にゆくつもりでゐたのがそんな奴ばかりの所へゆく位なら家にゐて御平癒を祈つた方が遙にいゝと考へるやうになつたさうすると直[やぶちゃん注:「ぢき」。]崩御の號外が出た、あけがたの暗い中に來た黑枠の號外を手にとつた時矢遙拜に行つた方がよかつたとしみじみさう思つた
昨日(一日)は學校で御哀悼の式があつた在京の生徒が可成あつまつた講堂であの緋と金との校旗の下に菊池さんが哀悼の辭よんだそのあとで可成長い菊池さんの話しがあつたさうしてそれが非常に暑かつた其前寮の委員が菊池さんの所へ寮生の御見舞狀を捧呈する爲に行つた所が夜の十一時すぎになつても歸つて來ない仕方がなく歸らうとすると路で先生にあつた所が先生は醉顏を風にふかせながら「陛下の御病氣はまことに痛心にたへない」とのべたそれがあの廿八日の夜だときいてゐるまた委員が谷山さんの所へ行つた時舍監は「こんな騷ぎなのに堀さんは淺草へ行つて遊んでるんだから仕方がない」と云ひ云ひ自分は酒をのんでやめなかつたときいたそんな scandal を聞いてゐるだけにあんな哀悼の辭より何の學問もない僕の母や伯母の方がはるかに尊いと云ふ反感が起つた實際崩御の號外が出た時には僕のうちのものは皆泣いたんだあんな調子ですべてをやつて行くんだから學校だつて駄目なんだと思ふ
もし旅が娛樂に關する催しの中に算入されないとしたならば僕は御停止がやんだら旅に出ようかとも思つてゐるまだ何ともきまらない時々僕のあたまの中には猪苗代の湖の靑い平面がきらりとうつる事があるあの近所へでも行かうかと思ふ
東京は暑いうんざりするほど暑いさうして場末だから僕の方は蚊が澤山くる灯をとりに黃金蟲やうんかや羽蟻のやうなやつが澤山はいつてくる夏はほんとうにいやだ
ヒヤワタは一寸面白い。プリミチブなアメリカインヂアンの獸皮に描く畫のやうな圓葉柳のかげにふく蘆笛の聲のやうな感じがする、僕はPeace-Pipe. Hiwatha and Mudjekeewis. The Son of Eveing Star. Hiawatha’s Departure がいゝと思ふあの中に出てくる幽靈はあんまり感心しない何と云つても Longfellow では Evangeline がすぐれてゐるのだらうと思ふ
鈴木は大連から手紙をくれた支那料理の饗應をうけて支那の芝居をみにゆくのださうだうまくやつてるなと思ふ灰色の平原と靑い海の鋼鐡のやうな面とが眼にうかぶ紅い灯の光になげく鳳管や月琴の聲が耳にひゞく此頃南淸へ行けと人に誘はれたが金がないので斷つた滿洲は黍が疎にはえた中で黑い豚が鼻をならしてゐるやうな氣がするけれど楊子江の柳に光る日の光は是非一度あびたいと思ふ
Mysterious な話しを何でもいゝから書いてくれ給へ、文に短きなんて謙遜するのはよし給ヘ
如例靜平な生活をしてゐる時に圖書館へ行つて怪異と云ふ標題の目錄をさがしてくる此間稻生物怪錄をよんだら一寸面白かつた其外比叡山天狗の沙汰だの本朝妖魅考だの甚現代に緣の遠いものをよんでゐる何でも天狗はよく「くそとび」と云ふ鳶の形をして現はれるさうだ「くそとび」は奇拔だと思ふ
健康を新る
龍
[やぶちゃん注:明治天皇は持病の糖尿病が悪化、それに尿毒症を併発し(直接の死因は心臓麻痺とされる)、明治四五(一九一二)年七月三十日午前零時四十三分に崩御した。本書簡は天皇崩御への彼の感懐と人々(一般人もさることながら、誰もが酒をくらっている一高教員への痛烈な非難は鋭い)それへのさまざまな批判的視線が知られて、非常に興味深い。それはしかし、本邦の総帥の死を悼みながらも、ある程度まで冷静であり、また、夏目漱石が二年後『朝日新聞』に大正三(一九一四)年四月二十日から連載した、かの「こゝろ」の「先生」のような一つの時代が終わる新たな区切りといった認識がある訳では全くなく、かと言って、学生の「私」のクールな捉え方とも、また、異なる点も見逃してはならない(リンク先は私の詳細注附きの新聞初出のサイト版三分割(前者が後の単行本の「先生と遺書」パート、後者が「兩親と私」パート))。
「藤岡藏六」既出既注。
「號外」岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の「御不例中に」への注に、『七月二〇日、宮内庁は明治天皇が重態であることを発表。以後、号外が飛び交い、皇居前に天皇の無事を祈願する人が集まった』とある。
「姊」既に何度も述べた実姉ヒサ。
「菊池さん」一高の教授であった菊池寿一(ひさと 元治元(一八六四)年~昭和一七(一九四二)年)。岩手県出身。明治二六(一八九三)年に東京帝国大学文科大学国文科を卒業し、さらに大学院で学んだ。明治二九(一八九六)年、陸軍教授となり、二年後の明治三十一年に第一高等学校教授に転じた。後の大正八(一九一九)年に第一高等学校校長に就任し、大正十三年に退官した。退官後は第一高等学校講師・東洋大学講師を務め、昭和六(一九三一)年には第一高等学校名誉教授の称号を受けている。
「谷山」筑摩全集類聚版脚注によれば、『谷山孫七郎。一高の教授で舎監』とある。
「堀さん」堀鉞之丞(えつのじょう 生没年未詳)は、愛知英語学校出身の理学士で、儒学者堀杏庵の子孫。明治二四(一八九一)年に衛生試験所技師。その後か、第一高等学校教授となっている。一九〇八年から一九一四年まで尾張徳川家の相談役となり、一九一四年九月からは同家の家令を務め、一九一七年には明倫中学校と附属博物館を愛知県に譲渡、名古屋の同家所有地の整理・処分を進めるなど、家政改革を推し進めた人物である。尾張徳川家整理については、彼のウィキに詳しいが、にも拘らず、生没年が未詳というのはちょっと解せないが。
「娛樂に關する催し」「御停止」前記の同書の石割氏の注に、『天皇の病状悪化により、七月三〇日、歌舞音曲などの娯楽の興行を三十一日から八月四日まで控えるべく通告され、その後も自粛ムードは続いた』とある。なお、夏目漱石がこれに大いに違和感を覚えたことはよく知られている。彼の同年七月二十日土曜日の日記に以下のようにある(所持する岩波旧「漱石全集」より)。
*
晩天子重患の號外を手にす。尿毒症の由にて昏睡狀態の旨報ぜらるる。川開きの催し差留られたり。天子未だ崩ぜず川開を禁ずるの必要なし。細民是が爲に困るもの多からん。當局者の沒常識驚ろくべし。演劇其他の興行もの停止とか停止せぬとかにて騷ぐ有樣也。天子の病は萬臣の同情に價す。然れども萬民の營業直接天子の病氣に害を與へざる限りは進行して然るべし。當局之に對して干涉がましき事をなすべきにあらず。もし夫臣民中心[やぶちゃん注:ママ。「夫(それ)臣民衷心」。]より遠慮の意あらば營業を勝手に停止するも隨意たるは論を待たず。然らずして當局の權を恐れ、野次馬の高聲を恐れて、當然の營業を休むとせば表向は如何にも皇室に對して禮篤く情深きに似たれども其實は皇室を恨んで不平を内に蓄ふるに異ならず。恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に釀すと一般也。(突飛なる騷ぎ方ならぬ以上は平然として臣民も之を爲すべし、當局も平然として之を捨置くべし)新聞紙を見れば彼ら異口同音に曰く都下闃寂火の消えたるが如しと。妄りに狼狽して無理に火を消して置きながら自然の勢で火の消えたるが如しと吹聽す。天子の德を頌する所以にあらず。却つて其德を傷くる仕業也。
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「闃寂」は「げきせき・げきじやく」でひっそりと静まりかえって寂しいさまを謂う。
「旅に出ようかとも思つてゐる」実際に、猪苗代ではないが、この八月十六日から友人(新全集宮坂年譜によれば、『中塚癸巳男か』とする)と二人で、信州・木曾・名古屋方面の旅に出かけている。十七日には御嶽山に登り、十八日には名古屋に到着、二十日名古屋を立って帰宅している。因みに、前に述べた通り、この間は学年末休暇である。
「ヒヤワタ」アメリカの詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow 一八〇七年~一八八二年)の代表作の一つである全十二章からなる長編叙事詩「ハイアワサの歌」(The Song of Hiawatha)。ハイアワサは十六世紀のアメリカ・インディアンのモホーク族の英雄である男性戦士・部族間調停者の名。モホーク族・カユーガ族・オナイダ族・オノンダーガ族・セネカ族の五部族を纏め上げて「イロコイ連邦」を成立させた。ウィキの「ハイアワサの歌」によれば、『インディアンの英雄を謳った英雄譚で』、『主人公の「ハイアワサ」は、イロコイ連邦をまとめ上げた、実在のモホーク族インディアンの戦士、酋長である。しかし、実際のストーリーはハイアワサの部族とは関係のない、オジブワ族のトリックスターである「ナナボーゾ」の神話をベースにしている。これは』、十九『世紀中頃にこの詩を編纂したヘンリー・スクールクラフトによる混同がもととなっている。つまり、ロングフェローは「ナナボーゾの歌」のつもりであったが、いつの間にか「ハイアワサの歌」にすり替わってしまい、現在も誤解されたままになっているのである』。『北欧神話の』「カレワラ」と『イメージが共通しているが、これは』、『インディアン神話も北欧神話も』、『そのモチーフを「水の中から大地が生まれ世界が形成された」と伝えている』点に由来する。『結局、何の関係もないハイアワサは、この詩による誤解によってステレオタイプなインディアンのイメージを植え付けられることとなった』。『イロコイ連邦国のひとつ、タスカローラ族のエリアス・ジョンソン酋長はこの「ハイアワサの歌」が植え付けるインディアンへの「悪いイメージ」についてこう抗議している』。『「ありとあらゆるインディアンの肖像が、手に頭皮剥ぎのナイフとトマホークを持った姿で描かれて、まるで野生の蛮人の象徴扱いにされている。それはキリスト教徒たちの国が、彼らの仕事、正義の象徴として、常に大砲や弾丸、剣、およびピストルを伴っているのと同じような具合で行き渡らされているように思える」』とある。フル・テクストが英文「Wikisource」のこちらで読める。芥川龍之介が勧めている「Peace-Pipe」は第一の歌「I. The Peace-Pipe」(「平和の煙管(パイプ)」)、「Hiwatha and Mudjekeewis」は「IV. Hiawatha and Mudjekeewis」(「ハイアワサとマジェキーイス」)、「The Son of Eveing Star」は「XII. The Son of the Evening Star」(「宵の明星の息子」)、「Hiawatha’s Departure」は終曲の「XXII. Hiawatha's Departure」(「ハイアワサの旅立ち」)である。
「圓葉柳」落葉高木キントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属マルバヤナギ Salix chaenomeloides 。本邦では本州東北以南から九州に自生し、他に朝鮮半島・中国中部以南の湿地に分布する(従って、細かいことを言えば、アメリカには植生しないから、アメリカ・インディアンが本種を描くことはない。但し、同属のカナダ・アメリカ原産のアメリカマルバヤナギ Salix amygdaloides がアメリカ北部に自生する)。雌雄異株。一本立ちで、高さは十~二十メートル。花期は四~五月頃と、日本に自生するヤナギ属の中では最も花期が遅い。葉身は長さ五~十五センチメートル、幅二~六センチメートルの楕円形を成し、葉の先端は尖り、基部は広い楔形で、葉の縁には先端が腺になっている細かい鋸歯が全縁に分布する。新葉は赤味を帯びる。ヤナギ類は細長い葉の種が多いため、標準和名をかく呼ぶ。また、新芽が赤いことからアカメヤナギの別名もある。サイト「葉と枝による樹木検索図鑑」の「マルバヤナギ―サイコクキツネヤナギ―バッコヤナギ―ヤマヤナギ」のページがよい。
「あの中に出てくる幽靈はあんまり感心しない」「ハイアワサの歌」(The Song of Hiawatha)の「XIX. The Ghosts」であろう。龍之介が「あんまり感心しない」と言っているのは、それが現実感を持った恐怖を惹起させないからであろう。
「Evangeline」「エヴァンジェリン」(Evangeline)はロングフェローが一八四七年に発表した長編詩。彼の代表作の一つ。岩波文庫の解説によれば、『十八世紀半ばの北米。英仏の植民地争奪戦により引き裂かれた恋人たちが、互いを探し求め、すれ違う悲しい運命を描いた物語詩』とし、『美しくてやさしい娘エヴァンジェリンは村の若者と婚約するが、軍の移住命令でふたりはひきさかれてしまう。恋人の行方をたずねて放浪した末にめぐり会ったとき、男は死の床にあった――この悲しい物語の中に歌われた熱烈な愛、貞節、豊かな情趣と敬虔な信仰とは、人の心を清め、人間の尊さに対する人の信念を高めずにはいない』とある。ロングフェローの友人でアメリカの小説家ナサニエル・ホーソン(Nathaniel Hawthorne 一八〇四年~一八六四年)が作品のアイディアを提供した。日本語では「ホーソン」と表記されることもある。「The Project Gutenberg」のこちらで全詩の電子データが複数用意されてある。
「鈴木」不詳。諸本注せず。
「鳳管」「ほうくわん(ほうかん)」。吹奏楽器の笙(しょう) の異称。
「月琴」「北原白秋 邪宗門 正規表現版 狂人の音樂」の私の「月琴(げつきん)」の注を参照されたい。
「南淸」「なんしん」。清国の南部の意。
「Mysterious な話しを何でもいゝから書いてくれ給へ」先の「ハイアワサの歌」の幽霊への批判と言い、直後の「圖書館へ行つて怪異と云ふ標題の目錄をさがしてくる」と言っていること、以下の濫読書名からも、例の芥川龍之介の怪談蒐集癖がまさに病膏肓に入る域に入っていることが判る。
「稻生物怪錄」(いのうもののけろく/いのうぶっかいろく:現代仮名遣)は江戸中期の寛延二(一七四九)年に、備後三次(現在の広島県三次市)に実在した武士(後に安芸国広島藩藩士)稲生正令(まさよし 享保二〇(一七三五)年~享和三(一八〇三)年)、通称「稲生武太夫(幼名は平太郎)が十六歳の折りに実際に体験したとする、波状的に彼を襲う妖怪に纏わる怪異を取り纏めた物語及び絵巻。私は古くからのフリークで、絵巻・図鑑・諸評論を含め、十数冊を所持する。実録怪談としては、展開の連続性が一ヶ月余り全く途絶えずに続く点を含め(小説や芝居のような大きなあざとい場面転換やインターミッションが殆んどない)、非常なオリジナリティを持ち、他の凡百の怪談集の追従を許さぬ。ウィキの本人「稲生正令」から引いておくと、『稲生平太郎』十六『歳の』『寛延』二(一七四九)年五月『末の夕方、隣家の三ッ井権八とともに、比熊山で肝試しの百物語をしたことがきっかけで』、七月一日から三十日間の『うちに、彼らの身の回りで怪異現象が続出した』彼は、自身でこの時の体験を「三次實錄物語」という書として記され、『原本は広島市在住の稲生武太夫の子孫に』現在も『伝えられてきている。妖怪の親玉、山本』(さんもと:異界の親玉であるから、読み方が通常の人名の読み方からわざとズラされてあるのである)『太郎左衛門から貰った木槌は享和』二(一八〇二)年に『平太郎の』自身の『手により』、『國前寺に納められ、現存している』。『また、柏正甫』(かつらせいほ)『という武太夫の同役の武士が、夜を徹して本人から詳しい話を聞き出し』、天明三(一七八三)年に「稻生物怪錄」として『書き留めた』ところ、これを神変超常現象フリークでもあった国学者『平田篤胤が』寛政一一(一七九九)年に『筆写して秘蔵し』、文化八(一八一一)年に『門下生に校訂させた』が、この『校訂本が元になって、読物や絵巻となり、明治時代以降、泉鏡花や巖谷小波の小説、折口信夫の俄狂言の題材とな』り、現在もそのブームは続いていると言える。
「比叡山天狗の沙汰」芥川龍之介の怪奇蒐集ノートである、私のサイトの最旧下層に属する電子化である「芥川龍之介 椒圖志異(全) 附 斷簡ノート」の、冒頭「魔魅及天狗」の「22」の「此叡山天狗の沙汰」を参照されたい(長いので引かない)。
「本朝妖魅考」筑摩全集類聚版脚注は『未詳』、岩波文庫「芥川龍之介書簡集」はスルーして注していないが、これは平田篤胤の「古今妖魅考」(全七巻・文政四(一八二一)年刊)と、林羅山の書いた「本朝神社考」(中世以来、仏教者のために王道が衰えて神道が廃れたことを憤って筆を執ったもので、神仏混淆を斥け、国家を上古の淳直の世に立ち返らせんことを闡明し、口碑縁起を訪ね歩いて、これを記紀・「延喜式」・「風土記」その他を照覧して本邦の主な神社の伝記その他を記したもの)を混同した誤記である。但し、この誤りは同情出来るレベルで、実は「古今妖魅考」は、神道家としても知られた篤胤が「本朝神社考」を親しく読み、その中の天狗に関する考察に共鳴して執筆したものだからである。さらに、同前の「椒圖志異」を見ると、先の「22」の前の「21」の天狗話(「天狗」の文字はないが)が、まさに羅山「本朝神社考」からの引用になっているのも考慮してやってよいだろう。
『天狗はよく「くそとび」と云ふ鳶の形をして現はれるさうだ「くそとび」は奇拔だと思ふ』同前の「椒圖志異」の「魔魅及天狗」の「24」が親和性のある話である。
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下總國香取郡萬歲村の若者ども五人連立ちて、後の山へ木こりにゆきけるが、少し傍なる山の端に、常よりは汚なげに見る鳶一つ羽をやすめ居たり、それをみて中なる一人が恐しげなる山伏の立居たると云ふ 然るに四人の者の目には唯鳶とのみ見ゆれば云ひ諍ふに 彼者正しく山伏なるものをと云てきゝ入れず、山より歸りて忽熱發して死にける、殘の四人は何事もなかりき 文化頃の事なり、
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天狗の眷族である鴉鳶(からすとんび)で知られる天狗と「糞鵄(くそとび)」の連関性は、私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「妖魅の會合」(その1)』及び『(その2)』が参考になる。私の「怪奇談集」でも枚挙に暇がないほどに出る。この如何にも不名誉な名の鳥は、現行では、タカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus に取り敢えず同定し得る。「糞鳶」という蔑称は、思うに、恐らくは「鷹狩り」に使えない鷲鷹類であったためかと思われる。但し、ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ Falco tinnunculus も含んでいるか、或いは「くそとび」はノスリでなく、チョウゲンボウである可能性も充分にある。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵟(くそとび) (ノスリ或いはチョウゲンボウ)」を見られたい。]
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