怪談登志男 廿五、天狗㩴慢心人
廿五、天狗㩴二慢心人一(てんぐ、まんしんのひとを、つかむ)
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]
近き頃は、世人(よのひと)、小賢(こさかし)くなりて、「生物知(なまものしり)、渕(ふち)へはまる」といへる諺のごとく、口にまかせて、鬼神(きじん)はなきもののやうにのゝしる。然れども、まのあたり、天駒に攫(つかま)れたる者、あまた、あり。其事跡(じせき)、書(ふみ)にもしるし語りも傳へて、數々ある中に、やごとなきおほんかたの御園(みその)[やぶちゃん注:禁中。内裏。]に、いやしき百姓の、天狗にさそはれ、入たる事を、遠からぬ代の事、しるせしふみに、載(のせ)たり。
近くは、寬文年中[やぶちゃん注:一六六一年から一六七三年まで。徳川家綱の治世。]、夏のことなりし。
大坂人、
「暑さ、堪へがたし。」
とて、大肌(おゝはだ)脫(ぬぎ)、團(うちは)つかひて、大空(おゝそら)を詠やるに[やぶちゃん注:「ながめやるに」。]、人に似たるもの、南のかたより、飛(とび)來る[やぶちゃん注:「きたる」。]。
「何ものにや、あらんずらん。」
と、目をも、はなさず、詠居たれば、次第に近くなりて、天神橋の上に、
「ひらひら」
と落たり。
急ぎ、立寄て見れば、僧なり。
「何國(いづく)の人ぞ。」
と問へども、いらへもせず、正體(せいたい)なし。
爰に、備前岡山の古金屋(ふるかねや)、折ふし、大坂に來り居しが[やぶちゃん注:「をりしが」。]、大勢、立集りたる中を、さしのぞきて見れば、知音(ちかづき)の僧にて、高嶋の松林寺といふ寺にありし人なり。
久しく高野に住して、學問せしが、何とかしたりけん、天狗に攫(つかま)れて、行衞なかりしに、今、此所に落たり。
彼人、連(つれ)て、故鄕(こきう[やぶちゃん注:ママ。])にへ送りぬ。
此事、「役(ゑん)の行者靈驗記(きやうじやれいげんき)」にも載(のせ)られたり。
まさに、近き事にて、しかも白晝(はくちう)なり。見屆たる人、近き頃迄、皆、存命せり。
「『なきもの』と、あなづりて攫(つかま)れ給ふな。」
と、ある人の語りき。
[やぶちゃん注:「生物知(なまものしり)、渕(ふち)へはまる」「生物知、川へはまる(川へ流れる)」。なまじい、多少の知識があると、それを頼んで軽率に振舞う結果、大きなしくじりをすることの喩え。「生兵法(なまびょうほう)は大疵(おおきず)の基)」に同じい。
「やごとなき」「やんごとなき」の擬古文的無表記。原本(右頁五行目)はちゃんと敬意を示す字空けが前に施されてある。私の電子化したなかには、「天狗」の話は枚挙に暇がないのだが、以下の出典は今のところ、不詳。見出したら、追記する。
「天神橋」ここ(グーグル・マップ・データ)。
「古金屋(ふるかねや)」「古鐡屋(ふるがねや)」。壊れた鍋や釜など、使い古した金属製品を買い取ってリサイクルした商人。
「高嶋の松林寺」現在は岡山市宮浦に移っている、真言宗新花山松林寺普門院(グーグル・マップ・データ)。元は現在地の北方に臨む児島湾内の高島(リンク地図に入れてある)にあった高島宮社(現在は高島神社)の社僧の寺で、寺伝によれば、天平一一(七三九)年に備前国分尼寺として創建され、仁寿年間(八五一年~八五四年)、安行僧都が再興し、寛永一一(一六三四)年に僧宥算が伽藍を再建した。明治二八 (一八九五)年に本堂のみを残して焼失、明治四〇(一九〇七)年、高島から本堂を宮浦に移して、当地の福寿院・千手院を合併して現寺号としたものである。
「役(ゑん)の行者靈驗記(きやうじやれいげんき)」真言僧蓮体(れんたい 寛文三(一六六三)年~享保一一(一七二六)年:河内出身。俗姓は上田。叔父浄厳(じょうごん)に学び、河内延命寺を嗣いだ。文章に優れ、仏教説話集「礦石集」・「観音冥応集」などを著わした。平易な言葉で教化に勤めた)が享保六(一七二一)に板行した「役行者靈驗記」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらにある同書原本の下巻(PDF)の「20」コマ目に「△三十七 天狗(テング)ニ攫(ツカマ)レシ人人(ヒトヒト)ノ事」の冒頭に記されてある。ほぼ同じであるが、最後の部分が、『國(クニ)ニ具(グ)シテ歸(カヘ)リシガ。後(ノチ)ニハ縊死(ヱイシ/クビクヽリシス[やぶちゃん注:右左のルビ。])セリトカヤ。正(マサ)シク此(コレ)ヲ聞(キケ)リ』となっている。]