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2021/02/23

芥川龍之介書簡抄17 / 大正二(一九一三)年書簡より(4) 十月十七日附井川恭宛書簡

 

大正二(一九一三)年十月十七日・京都市吉田京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 親披・「十月十七日 東京にて 芥川生」

 

エレクトラをみに行つた

第一 マクペスの舞臺稽古 第二 茶をつくる家 第三 エレクトラ 第四 女がたと順で 第一はモオリスベアリングの飜譯 第二は松居松葉氏の新作 第四は鷗外先生の喜劇だ

「マクペスの舞臺稽古」を序幕に据へたのは甚不都合な話で劇場内の氣分を統一するために日本の芝居ではお目見えのだんまりをやるが(モンナヷンナに室内が先立つたのも) マクベスの舞臺稽古は此點から見てどうしても故意に看客の氣分を搔亂する爲に選ばれたものとしか思ふことは出來ない この PLAY DEMUNITIVE DRAMAS(いつか寮へもつて行つてゐた事があるから君はみたらう)からとつたのだがあの中にある PLAY 中でこれが一番騷々しい 何しろ舞臺稽古に役者が皆我儘をならべたり 喧嘩をしたり 沙翁が怒つたり 大夫元[やぶちゃん注:「たいふもと」。]が怒鳴つたりするのをかいたんだから これ以上に騷々しい芝居があまりあるものではない 大詰にでもはねを惜む心をまぎらすにはこんな喜劇もよいかもしれないがエレクトラを演ずるにさきだつてこんな亂雜なものをやるのは言語道斷である

「茶をつくる家」をみたら猶いやになつた

舞臺のデザインは中々うまく行つてゐたが作そのものは〝完く駄目だ〟第一これでみると松居さんの頭も餘程怪しいものぢやあないかと思ふ 筋は宇治の春日井と云ふ茶屋が零落してとうとう老主人が保險金をとる爲に自分で放火をする迄になる そこで一旦東京の新橋で文學藝者と云はれたその家の娘のお花が足を洗つてうちへかへつて來てゐたがまた身をうつて二千圓の金をこしらへ音信不通になつてゐた兄から送つてくれたと云ふ事にして自分は東京へかへる 父や兄は娘の心をしらずに義理しらずと云つてお花を罵ると云ふのだ 第一どこに我々のすんでゐる時代が見えるのだらう 保險金をとらうとして放火する位の事は氣のきいた活動寫眞にでも仕くまれてゐる 且家運の微祿を救ふのに娘が身をうると云ふのは壯士芝居所か古くはお輕勘平の昔からある お輕が文學藝者に變つたからと云つてそれが何で SOCIAL DRAMA と云へやう 何で婦人問題に解決を與へたと云へやう(作者は解決を與へたと自稱してゐるのだからおどろく)

さてエレクトラになつた

灰色の石の壁 石の柱 赤瓦の屋根 同じ灰色の石の井戶 その傍に僅な一叢の綠 SCENE は大へんよかつた

水甕をもつた女が四五人出て來て水をくむのから事件が發展しはじめる 始めは退屈だつた 譯文が恐しくぎごつちないのである 一例を示すと

  おまへはどんなにあれがわれわれを見てゐたか見たか山猫のやうに妻かつた

  そして………

と云つたやうな調子である いくらギリシアだつてあんまりスパルタンすぎる クリテムネストラが出てて話すときも、そんなに面白くなかつた 之も譯文が崇りをなしてゐるのである 唯クリテムネストラは緋の袍に寶石の首かざりをして金の腕環を二つと金の冠とをかゞやかせ BARE ARMS に長い SCEPTRE をとつた姿が如何にも淫婦らしかつた 第一 この役者は顏が大へん淫蕩らしい顏に出來上つてゐるのだから八割方得である 殘念な事に聲は驢馬に似てゐた

オレステスの死んだと云ふ報知がくる クリテムネストラが勝誇つて手にセプタアをあげながら戶の中に走り入るかはいゝクリソテミスがエレクトラにオレステスが馬から落ちて死んだとつげる エレクトラが獨りなつてから[やぶちゃん注:ママ。]右の手をあげて「あゝとうとうひとりになつてしまつた」と叫ぶ 其時沈痛な聲の中に海のやうな悲哀をつたへるエレクトラがはじめて生きた 河合でないエレクトラが自分たちの前に立つてゐる その上に幕が急に下りた

前よりも以上の期待をもつて二幕目をみる 幕があくと下手の石の柱に紫の袍をきた若いオレステスが腕ぐみをしてよりかゝりながら立つてゐる 上手の戶口――靑銅の戶をとざした戸口の前には黑いやぶれた衣に繩の帶をしたエレクトラが後むきにうづくまつてゐる エジステスが父のアガメンノンを弑した斧の地に埋まつてゐるのを堀[やぶちゃん注:ママ。]つてゐるのである 二人の上にはほの靑い月の光がさす 舞臺は繪の樣に美しい

オレステスとエレクトラと姊弟の名のりをする オレステスの養父が來る 事件は息もつけない緊密な PLOT に從つて進んでゆく 靜な部屋のうちから叫聲を起る クリテムネストラが殺されたのである エレトク[やぶちゃん注:ママ。]は「オレステス オレステス うてうて」と叫ぶかと思ふと地に匍伏して獸のやうにうなる

エジステスが來る エレクトラに欺かれて部屋のうちへはいる 再「人殺し人殺し」と云ふ叫聲が起る 窓から刺されて仆れるエジステスの姿が見える

靜な舞臺には急に松明の火が幾十となくはせちがふ 劍と劍と相うつ音がする 人々の叫び罵る聲がする オレステスの敵とオレステスの味方と爭ふのである 其叫喚の中にエレクトラは又獸の如く唸つて地に匍伏する

松明の光は多きを加へる 人々は叫びながら部屋のうちに亂れ入る 剣の音 怒號の聲は益高くなる エレクトラは醉つたやうによろめきながら立上る さうして手をあげて足をあげてひた狂ひに狂ふのである

遠い紀元前から今日まで幾十代の人間の心の底を音もなく流れる大潮流のひゞきは此時エレクトラの踊る手足の運動に形をかへた やぶれた黑衣をいやが上にやぶれよと靑白い顏も火のやうに熱してうめきにうめき踊りに踊るエレクトラは日本の俳優が扮した西洋の男女の中で其最も生動したものの一であつた クリソテミスがひとり來て復仇の始末をつげる エレクトラは耳にもかけず踊る つかれては仆れ仆れては又踊る クリソテミスはなくなく靑銅の扉をたゝいて「オレステス オレステス」と叫ぶ 誰も答へない 幕はこの時 泣きくづれるクリソテミスと狂ひ舞ふエレクトラとの上に下りる

自分は何時か淚をながしてゐた

女がたは地方興行へ出てゐる俳優がある溫泉宿で富豪に部屋を占領される業腹さに女がたが女にばけてその富豪の好色なのにつけこんで一ぱいくはせると云ふ下らないものである 唯出る人間が皆普通の人間である 一人も馬鹿々々しい奴はゐない 悉我々と同じ飯をくつて同じ空氣を呼吸してゐる人間である こゝに鷗外先生の面目が見えない事もない

兎に角エレクトラはよかつた エレクトラエレクトラと思ひながら其晚電車にゆられて新宿へかへつた 今でも時々エレクトラの踊を思ひ出す

 

芝居の話はもうきり上げる事にする

牛込の家はあの翌日外から大体[やぶちゃん注:ママ。]みに行つた 場所は非常にいゝんだがうちが古いのとあの途中の急な坂とでおやぢは二の足をふんだ 所へ大塚の方から地所とうちがあるのをしらせてくれた人がある そのうちの方は去年建てたと云ふ新しいので恐しい凝り方をした普請(天井なんぞは神代杉でね)なんだが狹いので落第(割合に價は安いんだが)地所は貸地だが高燥なのと靜[やぶちゃん注:「しづか」。]なのと地代が安いのとで八割方及第した 多分二百坪ばかり借りてうちを建てる事になるだらうと思ふ 大塚の豐島岡御陵墓のうしろにあたる所で狩野[やぶちゃん注:ママ。]治五郞の塾に近い 緩慢な坂が一つあるだけで電車へ五町[やぶちゃん注:五百四十五メートル強。]と云ふのがとしよりには誘惑なのだらう 本鄕迄電車で二十分だからそんなに便利も惡くない

學校は不相變つまらない

シンヂはよみ完つた DEIDE OF SORROWS と云ふのが大へんよかつた 文はむづかしい 關係代名詞を主格でも目的格でも無暗にぬく 獨乙語流に from the house out とやる 大分面倒だ

Forerunner をよみだした 大へん面白い 長崎君が本をもつてゐたと思ふ あれでよんでみたまへ 割合にやさしくつていゝ

 

大學の橡はすつかり落葉した プランターンも黃色くなつた 朝夕は手足のさきがつめたい 夕方散步に出ると靄の下りた明地に草の枯れてゆくにほひがする

文展があしたから始まる

每日同じやうな講義をきいて每日同じやうな生活をしてゆくのはさびしい

 

   ゆゑしらずたゞにかなしくひとり小笛を

   かはたれのうすらあかりにほうぼうと銀の小笛を

   しみじみとかすかにふけばほの靑きはたおり虫か

   しくしくとすゝなきするわが心[やぶちゃん注:「すゝなき」はママ。]

   ゆえしらずたゞにかなしく

 

京都も秋がふかくなつたらう 寄宿舍の畫はがきにうつゝてゐる木も黃葉したかもしれない

 

   われは織る

   鳶色の絹

   うすれゆくヴィオラのひゞき

   うす黃なる Orange 模樣……

   われは織る われは織る

   十月の、秋の、Lieder.

 

十月幾日だかわすれた

水曜日なのはたしかだ

                   龍

   恭 君

 

[やぶちゃん注:詩篇は前後を一行空けた。

「エレクトラ」これはギリシャ三代悲劇のそれを素材とした、オーストリアのウィーン世紀末文化を代表する〈青年ウィーン〉(Jung-Wien)の一員で印象主義的な新ロマン主義の代表的作家フーゴ・ラウレンツ・アウグスト・ホーフマン・フォン・ホフマンスタール(Hugo Laurenz August Hofmann von Hofmannsthal 一八七四年~一九二九年)の戯曲「エレクトラ」(Elektra)で一九〇三年作。二〇〇九年岩波文庫刊「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注によれば、この複数作の一挙公演は、この年の十月の『帝国劇場での公衆劇団第一回公演』(一日初日)で、この『公演は京都でも』、この後の『一一月一一日から新京極明治座で上演された』とあるので、龍之介が京都の井川に細かく感想を述べているのが首肯出来るものの、これを読んだら、私だったら、こんなとんでもないごった煮のオムニバス、絶対、見には行かないね。なお、「エレクトラ」の元の筋を御存じない方は、ウィキの「エレクトラ(ソポクレス)や、「エレクトラ(エウリピデス)を参照されたい。その梗概まで記すほどに私はお目出度くない。

「マクペスの舞臺稽古」イギリスの作家モーリス・ベアリング(Maurice Baring 一八七四年~一九四五年)作の戯曲。原題は‘The Rehearsal’(一九一一年出版)。後の「DEMUNITIVE DRAMAS」の私の注を必ず参照されたい。

「茶をつくる家」劇作家・演出家・小説家・翻訳家の松居松葉(しょうよう 明治三(一八七〇)年~昭和八(一九三三)年:陸前塩釜生まれ。国民英学会卒。文学を志して坪内逍遙に師事し、明治二四(一八九一)年に創刊された『早稲田文学』の編集に発刊から従事し、『報知新聞』や『万朝報』などの記者も務めた。明治四二(一九〇九)年には三越の嘱託となって『三越タイムス』を編集し、発足した坪内逍遙・島村抱月の「文芸協会演劇研究所」に招かれ、講師を勤めた。明治四四(一九一一)年、新たに開業した帝国劇場の演劇主任を引き受けたものの、三越側の苦情で辞退し、大正二(一九一三)年には抱月脱退後の「文芸協会」を指導したが、間もなく解散となり、次いで、河合武雄とともに、この龍之介が見た公演の劇団「公衆劇団」を組織している。別号に「松翁」「駿河町人」「大久保二八」など)のこの年に書かれた新作翻訳劇。アイルランドの劇作家・演劇家レノックス・ロビンソン(Lennox Robinson  一八八六年~一九五八年)の ‘Harvest’(「収穫」:一九一〇年作)。

「女がた」この「公衆劇団」旗揚公演のために、森鷗外が書き下ろした彼の戯曲中、唯一の現代喜劇。大正二(一九一三)年十月発行の『三越』初出。藤本直実氏の論文『森鷗外「女がた」のセクシュアリティ』(PDF)が読める。私はその「女がた」を読んだことがないが、藤本氏の論文によれば、本作は『従来、演劇史においては全否定を以て遇され、鷗外研究からの論文も存在しなかった』という驚くべき鬼っ子扱いの作品らしい。

「モンナヷンナ」ベルギー象徴主義の詩人で劇作家モーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck 一八六二年~一九四九年)の戯曲「モンナ・ヴァンナ」(Monna Vanna:一九〇二年初演)。龍之介は既に見た通り「青い鳥」のファンであった。なお、この年、島村抱月が訳(南北社)しており、芥川龍之介は恐らくそれも読んでいるであろうが、その抱月の序文を見ると(幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める)、『數年前山岸荷葉氏が川上一座のために翻案して、明治座で演ぜしめたものがある』とあることから、或いは、芝居好きの龍之介だから、その翻案公演を観た可能性もある。なお、翌年には岩野泡鳴と村上静人も訳しているらしい。同作の第一幕は殿中、第二幕は戦場の幕営である。

「DEMUNITIVE DRAMAS」‘DIMINUTIVE DRAMAS’の誤記。先のモーリス・ベアリングの一九一一年作の短篇戯曲集‘Diminutive Dramas’(「小さなドラマ」)。Internet archive’のこちらで原本が読め、The Rehearsal’はここから始まる

「大夫元」「たゆうもと」。演劇の興行責任者。俳優や裏方をやとって一座を組織し、これを金主や座主に売り込んで興行する人。江戸時代には俳優の上に立つ監督者で、江戸では座元がこれを兼ねた。但し、ここは原本を見ると、‘The Stage Manager’のことを指しているから、舞台監督・演出家である。

「松居さん」作者で演出家の松居松葉。

「SOCIAL DRAMA」社会劇。劇中の出来事や登場人物が置かれる状況を、社会的環境や社会問題との関連のなかで描いた演劇。近代以降に登場した形態で、市民劇や写実劇は、しばしば社会劇の形をとる。イプセンやバーナード・ショーの諸作品を正統派の淵源とする。

「婦人問題」筑摩全集類聚版脚注に、『明治四十年頃から盛んになった婦人解放運動』とある。

「譯文」松井のそれ。

「スパルタン」所謂、現在の一般名詞としての「スパルタ」の意。あまりに言辞不全にして無骨に過ぎ、舞台台詞としてこなれていないことを批判しているのである。

「袍」(はう(ほう))は、ここでは、すっぽりとからだを包む上着。古代ギリシャでは亜麻の襞を持った優美なそれを「キトン」と呼んだ。

「BARE ARMS」外に曝し出した両腕。

「SCEPTRE」セプター。君主が持つ象徴的且つ装飾的な杖・笏。

「聲は驢馬に似てゐた」芥川龍之介、結構、辛辣!

「匍伏」匍匐に同じい。

「牛込の家はあの翌日外から大体みに行つた……」この十月上旬、芥川家は、龍之介の実父新原敏三の持ち家である彼の牧場の傍の家を出ることを考えて始めており、どうも龍之介が先頭に立て家探しを始めていたようである。新全集の宮坂年譜によれば、同年十月の条に、『家探しを始める。牛込や大塚に土地や家を見に出かけており、結局、翌年』十『月末』に龍之介の終の棲家となる『田端に家を新築して転居する』こととなることが記されてある。「あの」の指示語がやや不審だが(或いは旧全集には載らないこの前の書簡に家探しのことを書いていたのかも知れない。とすれば、やや腑に落ちる)、「翌日」に、「外(そと)から大体(だいたい)み」(見)「に行つた」で、家屋には入らず、周囲を検分したということであろう。

「神代杉」「じんだいすぎ」と読む。水中或いは土中に埋もれて長い年月を経過した杉材のこと。過去に火山灰の中に埋没したものとされる。青黒く、木目が細かくて美しい。伊豆半島・箱根・京都・福井・屋久島などから掘り出され、工芸品や天井板などの材料として珍重される。

「高燥」(かうさう(こうそう))は、土地が高所にあって乾燥していることを言う。

「靜」「しづか」。

「大塚の豐島岡御陵墓」豊島岡墓地(としまがおかぼち:グーグル・マップ・データ航空写真)。現在の東京都文京区大塚五丁目にある、皇族(皇后を除く)専用の墓地で護国寺に隣接する。

「狩野治五郞」「嘉納治五郞」(万延元(一八六〇)年~昭和一三(一九三八)年)の誤記。言わずと知れた、兵庫県生まれの柔道家・教育者で「講道館柔道」の創始者にして、日本のオリンピック初参加に尽力した彼である。

「塾」不詳。当初、嘉納が清国からの中国人留学生の受け入れに努め、彼らのために明治三二(一八九九)年に牛込に作った「弘文学院」(校長は松本亀次郎)のことではなかろうかと思ったが、あれは新宿区西五軒町で南東に一・七キロメートルも離れていて遠くはないが、「近い」とは言うまい。彼は別に英語学校「弘文館」を創立しているが、これは南神保町でさらに離れてしまう。

「シンヂ」アイルランドの劇作家にして詩人であったジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)。前記宮坂年譜の同年十月七日の条に、『John M. Synge “The well of the saints ; a play” “The tinker’s wedding , riders to sea and the shadow of the glen”を読了』とある(後は作品集らしいが、作品名の一部が略されていて不備があるので、以下に正確なものを示した)。前者は三幕物の諧謔的戯曲「聖者の泉」(The Well of the Saints)で一九〇五年の戯曲、後者は最初のそれが同前の二幕物「鋳掛(いか)け屋の婚礼」(The Tinker's Wedding:一九〇八年)、二番目が一幕物の悲劇「海に騎(の)り行く者たち」(Riders to the Sea:一九〇四年)、最後のそれが民話・民俗素材を取り入れた一幕物「谷間の影」(In the Shadow of the Glen:一九〇三年)。この内、“Riders to the Sea”は、後に芥川からの慫慂を受けて、この井川恭が、第三次『新思潮』に「海への騎者」という邦題で翻訳を載せている。さらに奇しくも「聖者の泉」は芥川龍之介が晩年、人生の最後に真剣な恋をした相手アイルランド文学者片山廣子が松村みね子名義で訳したものをサイトで公開しているし(言っておくと、この「聖者の泉」は芥川龍之介の「鼻」や「芋粥」の主題のヒントとしたとも考えられている)、また、シング著でウィリアム・バトラー・イェイツ挿絵という贅沢な作品「アラン島」(The Aran Islands)も挿絵附きで「姉崎正見訳 附やぶちゃん注」をずっと昔に私のサイト「鬼火」の「心朽窩新館」で同じく公開している。

「DEIDE OF SORROWS」シングの一九一〇年の作の三幕物の詩的悲劇「悲運のディアドレ」(Deirdre of the Sollows)。非常に優れた作品であるが(中に出る乳母の長い呪詛シーンなどは「シェイクスピアの再来」という賛辞さえ寄せられた)、残念なことに本篇の完全な推敲を終えぬうちにシングは白玉楼中の人となってしまったのであった。

「from the house out」‘get out of the house’ の意であろう。

「Forerunner」英語で「先駆者」。筑摩全集類聚版脚注及び石割氏に注ともに、ロシア象徴主義草創期の詩人で最も著名な思想家ディミトリー・セルギェーヴィチ・メレシュコフスキー(Дмитрий Сергеевич Мережковский:ラテン文字転写:Dmitry Sergeyevich Merezhkovsky 一八六六年~一九四一年)の歴史小説三部作「キリストと反キリスト」中の一篇「神々の復活」(Воскресшие боги. Леонардо да Винчи:「神々の復活。レオナルド・ダ・ヴィンチ」。一八九六年)の英訳名とする。芥川龍之介は後の大正九(一九二〇)年四・五・六月発行の雑誌『人間』に「壽陵余子」の署名で連載されたアフォリズム集「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」(リンク先は私のサイトの電子化注)の「妖婆」の標題で、

   *

 英語に witch と唱ふるもの、大むねは妖婆と飜譯すれど、年少美貌のウイツチ亦決して少しとは云ふべからず。メレジユウコウスキイが「先覺者」ダンヌンツイオが「ジヨリオの娘」或は遙に品下れどクロオフオオドが Witch of Prague など、顏玉の如きウイツチを描きしもの、尋ぬれば猶多かるべし。されど白髮蒼顏のウイツチの如く、活躍せる性格少きは否み難き事實ならんか。スコツト、ホオソオンが昔は問はず、近代の英米文學中、妖婆を描きて出色なるものは、キツプリングが The Courting of Dinah Shadd の如き、或は隨一とも稱すべき乎。ハアデイが小説にも、妖婆に材を取る事珍らしからず。名高き Under the Greenwood の中なる、エリザベス・エンダアフイルドもこの類なり。日本にては山姥〔やまうば〕鬼婆共に純然たるウイツチならず。支那にてはかの夜譚隨録載〔の〕する所の夜星子なるもの、略妖婆たるに近かるべし。(二月八日)

   *

と触れている。なお、トーマス・ハーディの作品名を芥川は‘Under the Greenwood’と記しているが、正しくは‘Under the Greenwood Tree’である。因みに、私は以上の「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」を、暴虎馮河で現代語訳した『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み やぶちゃん』として、やはりサイトに公開してある。]

「長崎君」一高時代の同級生で井川とも親しかった長崎太郎(明治二五(一八九二)年~昭和四四(一九六九)年)。高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)生まれ。旧同級だった芥川龍之介や菊池寛らとも親交を持った。一高卒業後、井川と同じく京都帝国大学法科大学に進学(さればこそここに名が出て腑に落ちる)、大正六(一九一七)年の卒業後は日本郵船株式会社に入社、米国に駐在し、趣味として古書や版画を収集し、特にウィリアム・ブレイクに関連した書籍の収集に力を入れた。同一三(一九二四)年に欧州美術巡覧の後に帰国した。翌十四年、武蔵高等学校教授となり、昭和四 (一九二九) 年には母校京都帝国大学の学生主事に就任した。同二十年、山口高等学校の校長となり、山口大学への昇格の任に当たった。同二四(一九四九)年には京都市立美術専門学校校長となったが、ここも新制大学へ昇格、翌年、京都市立美術大学学長となって、多くの人材を育てた。

「橡」ムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata

「プランターン」「プランターヌ」(フランス語:Platane)の誤記。ヤマモガシ目スズカケノキ科スズカケノキ属スズカケノキ Platanus orientalis 。属の学名である「プラタナス」と呼ばれることが多いが、本邦で見かける「プラタナス」は、本種よりもスズカケノキ属モミジバスズカケノキ Platanus × acerifolia であることの方が多い。

「明地」「あきち」。空き地。

「文展があしたから始まる」石割氏注によれば、第七回文部省美術展覧会で、この月の十月十五日から『上野竹の台陳列館』(現存しない。東京帝室博物館が管理する施設で、美術関係団体に貸し出された。この文展を始めとして各種美術展会場として使用されたが、東京府美術館の開館で、その役割を終えた。この陳列館は江戸時代に寛永寺中堂があった場所で、陳列館は現在の東京国立博物館の南側の噴水と奏楽堂の中間附近にあった)『で開催。京都』では十一月二十五日から開催されたとある。

「Lieder」「リーダア」。ドイツ語で‘Lied’の複数形で「歌曲」の意。

「十月幾日だかわすれた」「水曜日なのはたしかだ」当初、電子化しながら腑に落ちなかった。何故なら、底本の標題する大正二(一九一三)年十月十七日は万年カレンダーを調べると金曜日だからだった。しかし、石割氏の注で腑に落ちたのだった。彼は「文展があしたから始まる」と書いているから、書いているのは大正二年十月十四日か、日付が変わった十五日未明なのである(日付を忘れたとして調べようがないのは、深夜で自室で書いていたからであろうから、後者の可能性が高い)。彼は、これを翌日には出さずに(今までの書簡を見ると、しばしば龍之介はそういうことをしている。これは、或いは言い忘れたことを用心してのこと(追伸をするため、或いは、内容が気に入らず書き変えるケースもあろう)であることが多いように私は感じている)、二、三日ばかり経った十七日朝にでも封筒に入れて表裏書きをし、投函したものと考えると、腑に落ちたのであった。

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