明恵上人夢記 87
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一、同四月五日、槇尾(まきを)に渡る事を議(はか)る。案(つくえ)に倚(よ)り懸かり、晝の休息之(の)次(つい)でに、眠り入る。夢に云はく、道忠僧都有りて、予之(の)後(うしろ)に在り。心に不審有らば、之を問ふべし。卽ち、定量(ぢやうりやう)を爲すべき由を思ひて、問ひて曰はく、「槇尾に住むべきか。」。答へて曰はく、「尓(しか)也。」。卽ち、勸めて云はく、「相構(あひかま)へて槇尾に住ましめ給ふべき也。」。又、問ひて曰はく、「百日(ひやつかにち)之(の)中(うち)に死せむ事は實(まこと)か。」。答へて曰はく、「實(まこと)ならざる也。死ぬべからざる也。」。卽ち、覺(さ)め了(をは)んぬ。
[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。珍しい強力な問答形式の夢である。
「槇尾」既出既注であるが再掲する。現在、京都市右京区にある真言宗大覚寺派槇尾山西明寺(まきのおさんさいみょうじ)。京都市街の北西、周山街道から清滝川を渡った対岸の山腹に位置する。周山街道沿いの高雄山神護寺、栂尾山高山寺とともに三尾(さんび)の名刹として知られる。寺伝によれば、天長年間(八二四年~八三四年)に空海の高弟智泉大徳が神護寺別院として創建したと伝える。その後荒廃したが、建治年間(一一七五年~一一七八年)に和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興、本堂・経蔵・宝塔・鎮守等が建てられた。後、正応三(一二九〇)年に神護寺から独立した(以上はウィキの「西明寺」に拠る)。明恵がいる高山寺とは、直線で南西に五百メートルほどしか離れていない。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「案(つくえ)」文机(ふづくえ)。
「道忠僧都」底本注に、『明恵の弟子の一人か。円明寺大納言平時忠男の道忠と同一人物か』とあるが、検索しても平時忠にその名の男子は見当たらない。不審。
「定量」不詳。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。真の自分の確かな思いを慮ることか。]
□やぶちゃん現代語訳
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同じ四月五日、槇尾(まきお)に移ることを弟子たちに諮(はか)った。文案(ふづくえ)に倚(よ)り懸かかって、昼の休息の次(つい)でに、ふと、眠りに入った。
その時、こんな夢を見た――
道忠僧都がいて、私の後ろに座っている。
私の心に不審があるならば、この者にを問うてやろう、と思うた。
されば、即座に、定量(じょうりょう)を確かめるべき必要を感じたによって、道忠に問うて言うに、
「槇尾に住(じゅう)すべきか?」
と。
道忠が答えて言うことには、
「それが、よろしいです。」
即座に重ねて、勧めて言うことには、
「相い構えへて。確かに槇尾にお住み遊ばされるべきで御座る。」
と。
さて、また、私は問うて言うことには、
「百日(ひゃっかにち)のうちに、私が死ぬであろうことはまことか?」
と。
道忠、答えて曰うことには、
「まことでは御座らぬ! 死ぬはずが御座らぬ!」
と。
――その瞬間、私は覚醒した。