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« 怪談登志男 廿六、天狗誘童子 | トップページ | 只野真葛 むかしばなし (14) »

2021/02/18

怪談登志男 廿七、麤工醫冨貴 / 怪談登志男~全電子化注完遂

 

    廿七、麤工醫冨貴(へたいしやのふうき)

 世のなかに怪しき事は、さらになし。

 「これも此理(り)、彼(かれ)も此理」と、理屈いふ人もあれど、心を付て見るに、さりとては、怪しき事も、おほき物なり。

 まづ、第一に聖賢の書を人に敎へ、「先生」とあがめらるゝわろを、中の町で、時々、見懸る。最(いと)怪(あやし)ならずや。

 出(で)る息、入間(いるま)もまたず、

「ああ、悲しひかな、ばせを。泡沫(ほうまつ)の此身。」

と、婆(ばゝ)・嚊(かゝ)には、無常を說ひて、氣をへらさせ、我は、五、六ねんもかゝる無盡(むじん)、企(くわたて)る和尙、又、怪しむべし。

 娘に、豐後ぶし、習はせて、駈落・心中を、すゝむる親、大に、怪し。

 女房が、羽織、着て、夜の内から、物參りするを、鼻毛(はなげ)延(のば)して、見て居る夫(おつと)。

 伊勢講・太々講に、三社(しや)の託、懸(かけ)て置(おい)て、博奕(ばくゑき)する、やから。

 神を馬鹿にした、せんさく、甚、怪しむべし。

 律義如法(りちぎによほう)なおとこが、貧苦に迫りて、身を投(なげ)て死んだと、邪見非道な奴が、家を買(かふ)て、長生(ちやうせい)するのと、何(いつれ)も、怪しむべし。

 亦、亡八(くつは)が、經書の講談、聞に、朱硯(しゆすゝり)、懷(ふところ)に入てあるくは、綠林(りよくりん)に伯夷(はくゐ)を祭るがごとし。最、怪しむべきの、甚しきなり。

 其外、高利(かうり)金借(か)しながら、後世[やぶちゃん注:「ごぜ」。]、ねがふ親仁。魚(うを)喰(くは)ぬ法師。意地のよい座頭の坊。念仏坂に住居する法華宗など、一々、かぞへも盡(つく)されず。

 怪しむべき物、いかほどもあるべき中に、極めて怪しかりしは、いにしへ、寬文[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年。]の頃にや、都の町に「やはら道順」と異名せし、下手醫者(へたいしや)、住(すみ)けり。

 抑(そもそも)、「やはら」と號する事は、「かゝると、なげる」といふ心にや、又、別号を「岡崎先生」と云ける。其意は、「ゆふベも殺して、又、殺した」と、歌から出たる名なりけり。

 されども、怪しむべきは、ある大家(け)の出頭人(しゆつとうにん)の、風ひきたるに、ふと、賴まれて、「香蘇散」二ふくで、忽、平癒せしより、一家中へ推擧(すゐきよ)せられ、程なく、扶持人[やぶちゃん注:「ふちにん」。]と成すまし、日々に仕合[やぶちゃん注:「しあはせ」。]つのりて、六枚肩の乘物、六尺に、尻、ふらせて、飛あるき、夏も、「ほうろく頭巾」で、かさ高に出かけ、歷々の良醫を、下目に見こなし、橫平(おうへい)にあひしらへど、時の勢(いきほひ)、いかんともしがたく、幼年より、學問の功を積て、内經の奧旨(あうし)にも通ぜし醫者も、座を讓て、下に屈(かゝみ)、平(ひら)がな付の囘春(くわいしゆん)、漸(やうやう)、讀(よめ)れど、段々と、冨榮(とみさかへ)て、次第に、一家も廣く、「御(おん)」の字の「大醫」と、もてはやされ、むかし、煉藥(ねりやく)の押賣せし事をも忘れ、盛殺(もりころ)せし、そこばくの幽靈共も、恨[やぶちゃん注:「うらみ」。]をもなさで、只、寺町を通る時、

『あの寺にも、此寺にも、我手にかけし人の、石塔、あるべし。』

と、心底には、少し、氣の毒もありしが、一生、ゆたかに暮して、終わりぬ。

 また、緒方玄仲(おがたげんちう)とかやいひし人は、形こそ「新竹齋(ちくさい)」の繪に其儘なりしが、醫學の淵底(ゑんてい)を極め、儒學は闇齋(あんさい)の門人、療治功者(りやうじかうしや)の甲斐もなく、一代、妻子もなく、僕(こもの)一人、使ひて、本所の片土(へんど)に埋(うづ)もれ果(はて)、今は名をしる人も、なし。

 德ありて、斯(かく)、埋(うづ)もれ、無能にて、道順が榮へたりし。

 ともに、あやしき事なり。

 一つ眼(まなこ)・見越(みこし)入道のみ、怪しむべきに、あらず。

 いにしへも顏囘(かんくはい)のびんぼう、盗妬(とうせき)が幸(さいはい)、あやしく、心得がたき事なり。

 これをおもへば、此篇にしるせし數々の妖怪(はけもの)は「誠に怪し」とするに、たらず。

 これを見ん女中も童(わらべ)も、さのみ「怖(こは)し」と、おもひ給ひそ。

 白晝(はくちう)の化(はけ)ものにこそ、油斷したまはざれ、と、慙雪舍(さんせつしや)の閑窻(かんそう)に、筆をなげて、やすみぬ。

 

 

怪談年雄德巻㐧五大尾

[やぶちゃん注:「わろ」「和郞」。野郎。奴。人を罵って言う語。

「中の町」江戸深川の地名。現在の東京都江東区門前仲町(グーグル・マップ・データ)。富岡八幡宮の門前町で、江戸時代には茶屋が多くあった。後継される筆者の草庵も近く、そうした鼻につく連中のいるロケーションとしても腑に落ちる。

「ああ、悲しひかな、ばせを。泡沫(ほうまつ)の此身」世阿弥の改作かとされる謡曲「葵上」(シテは「六条御息所の生霊」)の一節。冒頭のサシの『凡そ輪𢌞は車の輪の如く 六趣四生を出でやらず 人間の不定(ふじやう)芭蕉(ばせを)泡沫(はうまつ)の世の慣らひ 昨日の花は今日の夢と 驚かぬこそ愚なれ 身の憂きに人の恨みのなほ添ひて 忘れもやらぬわが思ひ せめてや暫し慰むと 梓(あづさ)の弓に怨靈の これまで顯はれ出でたるなり』。

「無盡(むじん)」「無盡講」。「賴母講」(たのもしこう)とも呼ぶ。相互に金銭を融通し合う目的で組織された講で、世話人の募集に応じて、講の成員となった者が、一定の掛金を持ち寄って、定期的に集会を催し、籤(くじ)や入札(いれふだ)などの方法によって、順番に各回の掛金の給付を受ける庶民金融の組織。貧困者の互助救済を目的としたため、当初は無利子・無担保であったが、掛金を怠る者があったりした結果、次第に利息や担保を取るようになった。江戸時代に最も盛んで、明治以後でも近代的な金融機関を利用し得ない庶民の間で普通に行なわれ続けた。

「豐後ぶし」既出既注。豊後節は三味線楽曲の一流派。哀艶で扇情的な傾向を強く持ち、特に心中物を扱い、一時期、江戸で大流行した。

習はせて、駈落・心中を、すゝむる親、大に、。

「女房が、羽織、着て、夜の内から、物參りするを、鼻毛(はなげ)延(のば)して、見て居る夫(おつと)」「鼻毛を伸ばす」とは「女の色香に心を奪われてだらしなくなる」ことを謂う。ここは言わずもがなであるが、女房の夜の物詣でに不倫密通を嗅ぎだせない夫の愚鈍さにとどめを刺している。

「伊勢講・太々講」下は「だいだいこう」と読むが、これらは同じもの。伊勢参宮を目的とした講で、旅費を積み立て、籖で代表を選んでは、交代で参詣した。太太神楽 (だいだいかぐら:伊勢神宮に奉納される太神楽の中で最も大がかりな神楽のこと) を奉納することから「(伊勢)太太講」とも呼ばれた。中世末より近世にかけて盛んに行われた。

「三社(しや)」伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂神社(或いは春日大社)。

「託」神に神聖な祈誓をして願掛けを託すること。その核心は博奕で大儲けすることしかないという為体を指す。

「神を馬鹿にした、せんさく」特に仏・菩薩を本地として、日本神話の神を垂迹とする仏教側の本地垂迹説に拘る、仏教宗派のファンダメンタリストの神道批判であろう。

「亡八(くつは)」ここは遊女屋の主人の異称。昔の江戸初期に大橋柳町(京橋)に女郎屋あった頃、十文字に町を開削して家作りをしたため、その頃、「轡丁」(くつわちょう)と呼んだことに由来する当て訓。「亡八」は「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの徳目総てを失った者の謂いから、遊廓(くるわ)通いをすること、その者。転じて遊女屋及びその主人をも指した。女郎屋の主人は学識・文才のある者も多かった。

「綠林(りよくりん)に伯夷(はくゐ)を祭るがごとし」伯夷(歴史的仮名遣は「はくい」でよい)は「史記」列伝第一に挙げられた殷末周初の伝説上の人物。孤竹君の子。国君の後継者としての地位を弟の叔斉(しゅくせい)と譲りあって、ともに国を去り、周に行った。後、周の武王が暴虐な天子紂(ちゅう)王を征伐しようとした際、父の喪が明けていないことと、臣が君を弑(しい)するのは人道に反するとして、諌めたが、聞き入られなかったため、二人とも武王の元を去り、首陽山に隠れ、やがて、食べるべき草がなくなっても山を下りず、遂に餓死したと伝えられ、二人は中国史における最も清廉な人間のシンボルとされる。その彼を豊饒の緑なす林に祀るといのはお門違いの際たるものである。

「高利(かうり)金借(か)しながら、後世、ねがふ親仁」我利我利亡者は地獄決定(けつじょう)。

「魚(うを)喰(くは)ぬ法師」よく判らないが、ある意味、人(の葬式)で食っている罪深い存在である僧侶の中に、魚は殺生となるとして食べないという者がおり、中途半端なそれを筆者はせせら笑ったものであろう。蠅・蚊・蚤・虱を殺さずに生きることは所詮、不可能であるからねぇ。

「意地のよい座頭の坊」江戸時代の検校は盲官を金で買うために、非常な貯蓄や高利の金貸しをすることで悪名が高かった。さればこそ「人間として人格の優れた座頭や検校」というのは、あり得ないものの代名詞であったものであろう。

「念仏坂に住居する法華宗」法華宗=日蓮宗は仏教内でもファンダメンタルな存在として知られる(特に日蓮宗徒でない者との相互の布施を完全拒絶した「不受不施派」は江戸時代を通じて禁教であった)が、確かに「念仏坂」という名の坂の途中に日蓮宗寺院があったら、これはもう、吹き出さざるを得ない。というより、天皇の日蓮宗化を今や外してしまった現代の日蓮宗や創価学会は宗祖の基礎基本理念に反したものであるのを、どう鳧をつけるのかと私は強く言いたい。

「やはら道順」不詳。筆者が最後の最後で、最早、怪談から完全に脱線して怨念さえ感じる語り口で述べ始めるこのヘボ医者、実在していないと、おかしいと思うんだが? どなたか、モデルでも結構です、お教え下され!

『「やはら」と號する事は、「かゝると、なげる」といふ心にや』最後の最後にしっかり笑かして呉れる。この名前自体が嘘臭い気はするね。「柔」道だもの。彼の診断に「かかると」、即、彼は文字通り、匙を「投げる」というわけ。

「岡崎先生」『其意は、「ゆふベも殺して、又、殺した」と、歌から出たる名なりけり』これは全く原拠が判らない。お手上げである。識者の御教授を乞う。当初は、私の好きな浄瑠璃「伊賀越道中双六」の「岡崎の段」を直ちに想起したのだが(私の劇評『平成25(2013)年9月文楽公演 竹本義太夫三〇〇回忌記念 通し狂言「伊賀越道中双六」』参照)、同作は天明三(一七八三)年四月大坂竹本座初演で、安永五(一七七六)年十二月に大坂嵐座で上演された奈河亀輔作の歌舞伎を翌年三月に大坂豊竹此吉座で人形浄瑠璃化した当り作「伊賀越乗掛合羽(いがごえのりがけがつぱ)」の改作で、本書(寛延三(一七五〇)年板行)より後であるから、話にならないことが判った。或いは、「伊賀越乗掛合羽」の元になった本編よりも前の作品があるのかも知れないが、私はその辺りに全く冥いので、解明する事が出来ない。

「出頭人(しゆつとうにん)」室町時代から江戸初期にかけて、幕府又は大名の家で、主君の側近にあって政務に参与すした者。「三管領」・「四職」・「奉行」・「老臣」などが含まれる。後代、それから転じて、「主君の寵愛を得て権勢を揮っている者」をも指すようになった。

「香蘇散」宋代に編纂された医学書「和劑局方」(一一〇七年)に初出する薬方。構成生薬は香附子(こうぶし)・蘇葉(そよう)・陳皮・生姜・甘草で、名は主薬である香附子と蘇葉から。普段から慢性的に胃腸が優れず、気分もよくない人が、頭痛・発熱・悪寒などの風邪症状がある際に用いる。体表から病邪を汗で除く発表剤(はつひょうざい)として風邪の初期に服用され、そうした風邪の初期の他、腹痛を伴う風邪・気鬱や血の道証(どうしょう:肩こり・耳鳴り・頭痛など)・蕁麻疹・神経衰弱にも適応される(「内外薬品株式会社」のこちらを参照した)。

「六枚肩」(ろくまいがた)「の乘物」六人の駕籠舁きが交代で駕籠を舁くこと。また、その大型の駕籠。

「六尺」輿や駕籠を担ぐ駕籠舁き人足の異名。「陸尺」とも書く。これは「力者(りきしゃ)」が転訛したものとされ、肩から模様のある長袖の法被を着していた。他に古代中国の天子の輿が六尺四方だったからとか、駕籠舁きには長身の者が求められ、六尺(百八十二センチメートル)に及ぶ大男たちが務めたからという説もあるという。

「ほうろく頭巾」「焙烙頭巾」。歴史的仮名遣は「はうろくづきん」が正しい。既出既注だが再掲しておく。焙烙の形をした丸い頭巾。僧や老人が多く用いた。「大黒頭巾」「丸頭巾」「錣(しころ)頭巾」とも呼ぶ。グーグル画像検索「焙烙頭巾」をリンクさせておく。

「橫平(おうへい)」「橫柄」。歴史的仮名遣は「わうへい」或いは「あふへい」。元は「おしから(押柄)」の音読からかとされ、「いばって人を無視した態度をとること・無礼無遠慮なこと」。「大柄(おほへい)」ともかく。

「内經」「黃帝内經」(くわうていだいけい(こうていだいけい))のこと。中国の古典医学書で、戦国時代から秦・漢にかけて医学文献を集大成したものとされる。現存本は「素問」(そもん)と「靈樞」(れいすう)に分けられ、黄帝と岐伯(きはく)・雷公らとの問答形式で生理・病理・診断法・治療法を述べてある。

「平(ひら)がな付の囘春(くわいしゆん)」十六世紀後半に当寺の中国伝統医学であった〈李朱医学〉に於いて漢方などを用いた、所謂、〈回春剤〉の処方を纏めた「万病回春」という医学書(宮廷御典医龔廷賢(きょうていけん)著)で、同書は江戸初期に著者の弟子であった戴曼公(たいまんこう)が来日して、当該書を最初に紹介し、日本全国に広めたという。

「緒方玄仲(おがたげんちう)」不詳。全く資料に掛かってこない。仮名にしてあるか?

「新竹齋(ちくさい)」浮世草子。西村市郎右衛門未達作。貞享四(一六八七)年板行。滑稽な遍歴紀行物。

「闇齋(あんさい)」江戸前期の儒学者・神道家山崎闇斎(元和四(一六一九)年~天和二(一六八二)年)。諱は嘉。朱子学の一派〈崎門学(きもんがく)〉や、神道の一派〈垂加神道〉の創始者として知られる。

「顏囘(かんくはい)」(紀元前五二一年?~紀元前四九〇年?)は孔子と同じ魯の生まれで、孔子が最も愛した第一の高弟。貧しかったが、孔子の教えを心から楽しんだことで知られる。歴史的仮名遣は「がんくわい」が正しい。

「慙雪舍(さんせつしや)」本書の原型「怪談實妖錄」を書いたとされる慙雪舎素及子(ざんせつしゃそぎゅうし:以下の「後序」にも名が出るが、その歴史的仮名遣は「そぎふし」が正しい)。詳細事績不詳。]

 

 

   後序

「怪談實妖錄」は、素及子(そぎうし)の著(あらは)す所、皆、近世の事實にして、其卷(まき)は秋の野の千艸(ちくさ)より多く、その文は、夏山の茂りより、增りぬれば、讀者(よむもの)、睡(ねむり)を引の媒(なかたち)となれるを、あたら、櫻の咎(とが)にもならじと、こゝかしこの要(かなめ)を摘(つまん)で、扇橋(あふぎばし)の草庵に綴り、師の房(ほう)が忍ぶの岡の隱(かくれ)家に外題(げだい)を求つ。   好話門人 靜話房書

 

  寬延三正月吉祥日

 ○年雄德後篇(としおとこかうへん)五冊後ゟ出戶候

 

         東都書林

          通油町

            須原屋太兵衞板

 

[やぶちゃん注:最後の底本奥附は殆んどのポイントが大きいが、総て同じにした。

「櫻の咎(とが)」西行の「山家集」の「上 春」にある(八七番)、

    閑(しづ)かならんと思ひける頃、

    花見に人々まうできたりければ

 花見にと群れつゝ人の來るのみぞ

   あたら櫻の科(とが)には有(あり)ける

   *

で、世阿弥の謡曲「西行櫻」にも引かれる知られた一首である。

「要(かなめ)を摘(つまん)で」以下の「扇橋」の「扇」の要に掛けたもの。

「扇橋の草庵」筆者静観房静話(じやうくわんばうじやうわ(じょうかんぼうじょうわ))のそれ。深川扇橋町(おうぎばしまち)にあった。現在の江東区白河四丁目・三好四丁目・平野四丁目相当。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「師」冒頭注で述べた、談義本の創始者として知られ、本篇の「序」もものしている静話静観房好阿(こうあ)のこと。

「忍ぶの岡」東京都台東区の北西部にある上野台地(忍の森・上野山)の旧称。江戸時代は東叡山寛永寺の境内で、現在の上野公園。

「求つ」「もとめつ」。

「寬延三庚午」(かのえうま/こうご)一七五〇年。

「年雄德後篇」「五冊」「後ゟ出戶候」(「あとより、とをいでさふらふ」か。「後から続いて刊行致します」)しかし、残念ながら、この後篇は出版されていない。

「通油町」(とほりあぶらちやう)は現在の中央区日本橋大伝馬町(グーグル・マップ・データ)。

 最後に。本書は前半の、まことにオリジナリティに富んだ怪談の、絶妙なキレの割には、後半、急速に凋んで、先行作品の使い回しが激しくなってしまうのが、まことに惜しい気がしている。筆者の内実に何か大きな変化があったように思われてならない。かく変質してしまっては「後篇」自体出ようがない。出さなくてよかった。

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