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2021/02/06

只野真葛 むかしばなし (6)

 

 母樣は、餘り餘りなるまで、無欲にて、御身のまはり、少しにても、とりかざること、被ㇾ遊(あそばされ)ざりし。

 御病身なることは、月に十四、五日は、おしづまりて有し。第一、頭痛持(づつうもち)にて、それがおこれば、二、三日、絕食にて平臥(へいが)なり。

 常に、食、ほそく、紅猪口(べにちよく)ぐらい[やぶちゃん注:ママ。諸本同じ。]の碗にて、一、二膳ほど、めし上りし。其上、つゆ氣(け)の物、御きらい、干ざかな、少々上り、煮まめ、殊に御好(おすき)にて、かたく煮たる豆、たえず、こしらへて、上りし。

 髮なども、櫛卷に被ㇾ遊しかた、おほかりし。

 歌はうちまかせて御よみ被ㇾ遊ば、御上手なるべし。三島などは、ほめたりしが、しゐて[やぶちゃん注:ママ。「日本庶民生活史料集成」は「しひて」。]も、よませられざりし。

[やぶちゃん注:「餘り餘りなるまで」度を越していると表現するほどにまで。

「紅猪口」内側に紅を塗りつけた猪口(ちょく)形の容器。指先で溶いて唇に塗る。べにちょこ。画像を見るに、盃を少し大きくしたほどの浅い丸小皿である。

「三島」江戸日本橋の幕府御用の呉服商にして国学者・歌人・能書家としても知られた三島自寛(享保一二(一七二七)年~文化九(一八一二)年)。本名は景雄。賀茂真淵門下の荷田在満(かだのありまろ)らと交遊し、安永九 (一七八〇) 年の歌合「角田川扇合(すみだがわおうぎあわせ)」を主催している。かれの一首を掲げておく。

   *

 鶯の初音の小松引く袖に

    あるじ顏にも匂ふ梅が香

   *]

 

 桑原ばゞ樣は、縫物、手きゝ。髮、上手。書もよく被ㇾ成、物語類(ものがたりのたぐひ)、好(このむ)。手跡は、眞を草に書(かき)かふること迄、御ぞんじにて、をぢ樣幼年の時分、見事に書を被ㇾ成しは、もはら、ばゞ樣のせわなりし。物がたりには、よほど委しかりしと見え、先年、「うつぼ」のとしだて、御考被ㇾ遊しが、春海さへ感ぜしといふこと、有し。心のちから、つよく、かんしやく持(もち)にて、きらい[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]のこと、おほし。わらひくるふこと、大(だいの)御きらい、うわうわと、おもしろそふなことは、殘らず、きらいなり。その内に、あだな付(つく)ることは、御きらいなりし故、そのかみは、『わるきことか』とのみ、おもゑて[やぶちゃん注:ママ。]有しが、後物がたりをみれば、もはら、あだなつけること、なりき。佛學、少々、被ㇾ成て、御さとり被ㇾ遊しより、

「世の中の人は、我に、あわぬもの。」

と、みづからおぼしめしとりて、一生、かんにんを、ことゝ被ㇾ成しなり。

 ワ、子供の時分、あそびに行ても、

「そふは、せぬもの。こうも、せぬもの。」

と被ㇾ仰、

『さてさて。氣のつまるばゞ樣。』

と、おぽえたりし。

[やぶちゃん注:「桑原ばゞ樣」ここで真葛母方の祖母桑原やよ子(くわはらやよこ 生没年不詳:仙台藩医桑原隆朝の妻)について、当該ウィキから引く(太字は私が附した)。『仙台藩江戸詰めの藩医桑原隆朝如璋』(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)『の妻で、古典文学に通じていた。特に平安時代の長編小説』「うつほ物語(宇津保物語)」の『年立の研究では先駆的な役割をになった』(本文の『「うつぼ」のとしだて』がそれ)。『著書に研究書』「宇津保物語考」があり、それは現代の昭和初期に刊行された「日本古典全集」の「宇津保物語」などに『収載されている』ほどに学術的に価値の高い論考である。また、その中で『やよ子のつくった系図は、日本において、複雑な人間関係を』見事に『図示した最初と』さえ『いわれている』。「宇津保物語考」は『安永年間』(一七七二年~一七八〇年)成立とみられ、国文学者の村田春海(はるみ 延享三(一七四六)年~文化八(一八一一)年:本文にも名が出る、国学者・歌人。本姓は「平」氏。通称は平四郎。賀茂真淵門下で県居学派(県門)四天王の一人。江戸の干鰯問屋に生れた。幕府連歌師阪昌周(ばん しょうしゅう)の養子となり、後に本家の干鰯問屋をも相続した。その生活は豪奢なもので「十八大通」の一人にも挙げられた。その結果、家産を傾け、隠居後は風雅を友とした。漢籍を服部白賁(はっとりはくひ)に、国典を賀茂真淵に学び、国学者で歌人の加藤千蔭(橘千蔭)とともに「江戸派」歌人の双璧をなし、陸奥国白河藩主で幕府老中も勤めた松平定信の寵愛を受けた。春海は、特に仮名遣いに造詣が深く、「新撰字鏡」を発見し、紹介してもいる。また、若い頃は漢学をもっぱら学んだこともあり、儒教を排せず、漢詩をよく作ったことも知られている。仙台藩江戸詰の藩医工藤球卿(平助)とも親交があり、その娘只野真葛の文才を評価している。著書には歌文集「琴後集」・漢詩集「錦織詩草」などがある。歌文の才能はもとより、書もすばらしい反面、「人の悪口は鰻より旨し」などと言うほど傲慢で不遜な一面があったという。以上は彼のウィキに拠ったが、「日本庶民生活史料集成」の中山氏の注には、『工藤家に出入りしていたため「宇津保物語考」を書写していたものと思う』とあるが『これを読んで感心し』、『人に書き写させて寛政』三(一七九二)年、『巻末に自分の手でその経緯を説明した写本をつくった』。『この写本は天保年間』(一八三〇年~一八四三年)『に井関隆子』(いせきたかこ 天明五(一七八五)年~天保一五(一八四四)年)は女流歌人・物語作家)『によっても書写されており』、『江戸後期の国学者のあいだでは有名であった』。『孫にあたる工藤あや子(只野真葛)は、自著『むかしばなし』のなかで「心の力つよくかんしゃく持ち」で大笑いすることやおもしろげな浮ついたことなどの大嫌いな、「気のつまるばば様」であったと記している。『むかしばなし』によれば、子を厳しくしつけ、裁縫や結髪など「女のわざ」に秀で、また書道も堪能であったという』。真葛が十三歳の頃(安永四(一七七五)年頃)に、仏教の教えを学んで悟りを開き、穏やかな人柄になったという。『子としては、娘』『と息子の隆朝純(じゅん)の名が知られる』。『姉娘は工藤平助に嫁し、その子只野真葛(工藤あや子)は女流文学者として知られる。息子の桑原純は、夫の如璋のあと』、『仙台藩医を継いだ。純は、母やよ子の手ほどきによって能書家であり、優れた手跡を残している』。『純の娘桑原信(のぶ)は伊能忠敬の後妻となった。只野真葛と桑原信は、ともにやよ子の孫娘にあたり』、二『人は従姉妹同士であった』とある。本篇の注として最適な引用となった。

「うわうわと」(ママ)「おもしろそふなこと」「うはうはと」が正しい。如何にも落ち着かない、喋っている本人の気持ちがしっかりしていないことが窺われるような、浮ついた滑稽話。

「あだな付(つく)ることは、御きらいなりし」とすれば、真葛の父母(母は自分の娘である)が「秋の七草」の別名を子供らに与え、それで呼び合うのを、彼女は絶対に嫌っていたことになるが。

「おもゑて」「日本庶民生活史料集成」・「仙台叢書」は『おぼえて』である。この後者の違いは、底本解説で鈴木よね子氏が同一底本としていることに疑問が生じる。同一底本で「仙台叢書」が補校するなら、「おもひて」とするだろうからである。

「もはら」「專ら」。

「佛學」仏教。

「被ㇾ成て」「ならせられて」はしっくりこない。

「御さとり被ㇾ遊し」少々学んだぐらいで「悟り」はないだろう。寧ろ、勝手な他者・現世解釈として、自分を棚上げした「世の中の人は、我に、あわぬもの」という利己的な自得に陥ったとすれば、これは変な謂いだと私は思う。

「かんにん」「堪忍」。]

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