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2021/02/01

芥川龍之介書簡抄6 / 明治四四(一九一一)年書簡より(2) 五通

 

明治四四(一九一一)年四月三日・本所區相生町三丁六番地 山本喜譽司宛(葉書・横書き)

 

 3. 4. 1911

敬啓

 如何に御暮しなされ候や.

三日の試験完りてより. 僕は每日乱讀と懶睡とに耽り居り候へども春風屢〻夢を吹いて. 湘南の地に落すを覺え候

皆々樣にもよろしく願上候

   とろとろととけゆく蠟の心よく靜に春の夜はふけにけり

   枝垂れ咲けり春の雨ふる僧院の庭の隅なる老木の椿

去年の今頃の旅にてよめる歌二首

   濁りたる渚に浮ぶ海草に日の光さす午後のはかなさ.

   春まひる菜の花咲ける丘の道をひとりゆきつゝ潮鳴りを聞く

                龍生拜

 

[やぶちゃん注:「乱」はママ。「はかなさ.」のピリオドもママ。新全集の宮坂年譜を見ると、この二日前の四月一日から一週間の二学期終了に伴う試験休暇に入っており、『二学期の成績は五番だった』とある。本文中に「湘南」とあるから、この休暇に入って直ぐに湘南へ遊んだものらしい(年譜には記載なし。但し、この三日後の六日の条に親友『西川英次郎とともに、赤城山に登り、この日、山頂に達する』とあるから、湘南へは或いは日帰りのトンボ返りであったものと思われる)。

「枝垂れ咲けり春の雨ふる僧院の庭の隅なる老木の椿」は、

 枝垂(しだ)れ咲(さ)けり

  春の雨ふる

      僧院の

     庭の隅なる

       老木(おいぎ)の椿

で、初五が字余りのようである。

「去年の今頃の旅」龍之介は前年の三月(この月に三中卒業)の末に茨城県の水郷として知られる潮来(いたこ)に遊んでいる。]

 

 

明治四四(一九一一)年七月二十四日・本所區相生町三ノ六 山本喜譽司樣(絵葉書)

 

先夜伺ひし君の番号は、一二に候や なめちやんが「七〇より八○までの間の番号ださうだけれどもどうしても敎へない」と申し居り候ひしより七二だつたかしらと大に疑はしくなつて參りに 間違ふと少々大變ゆえ念の爲御たづね申し候

昨日クラス會ヘ一寸まゐり候 近藤や靑山や竹下やめづらしい人にあひ候ひしも 琵琶やら磯節に恐縮して途中から失敬致候

淺草の鰻屋の雨は新宿の雨より音高くひゞき候 匆々

    二十四日朝          龍

 

     Les chanson du Kirishitan.

 

   うすやみを沈の香ほのにたゞよひぬ

   Santa Maria を繪にする堂に、

 

   淚して

   陀羅尼誦しつゝ祈りにき

   我目見靑き Dominika 人は、

 

   七八人邪宗の僧の黑き袈裝

   靜にゆきぬ、長崎の夕、

 

   醉ひぬれば泣きて誇らく

   「佛手柑黃ばまむ國ぞ我ふるさとは」

 

   角を吹く Madoros なきぞ淋しけれ

   天草じまの無花果の森、

 

   我夢はうすき月さす西斑牙

   茴香の野の靄にさまよふ、

 

   黑船の Sinngoro は悲し、薰り濃き珍酡に醉へば

   Rabeika を彈く、

 

[やぶちゃん注:詩篇の第三連の一行目末の「袈裝」はママ。「袈裟」の誤字。「西斑牙」はママ(底本岩波旧全集にはママ注記はない)。「スペイン」で「西班牙」が正しい。

「先夜伺ひし君の番号……」何の番号か一向に思いつかない。「間違ふと少々大變」というところを見ると、電話番号か? 十二年前の明治三十二年には全国の電話加入者数は一万人を超えている。

「なめちやん」共通の友人らしいが、不明。

「近藤」三中時代の同級生で近藤為次郎がいる。海軍兵学校に進学した。

「靑山」同前で青山新次郎(?~昭和四八(一九七三)年)がいる。

「竹下」同前で竹下泰一(?~昭和五〇(一九七五)年)がいる(以上の三人のデータは新全集「人名解説索引」に拠った)。

「磯節」(いそぶし)は茨城県の漁師の民謡のそれであろう。「教育芸術社」公式サイトのこちらによれば(コンマを読点に代え、読みは一部を参考にしたに留めた)、発祥は『那珂川河口近くの大洗や那珂湊の辺りで、漁師たちが古くから歌っていた歌が元になっている』らしいとあり、『いつごろから歌い始められたかははっきりし』ないものの、『明治時代の初めごろになって、俳人でもあった渡辺竹楽坊』(わたなべちくらくぼう)なる人物が『歌詞や囃子言葉を補足したといわれて』おり、『ほかに』も、『藪木萬吉やその娘たちが三味線の伴奏などを加えて歌ったともいわれてい』るとする。当初は『水戸や大洗などの限られたところでしか』、『歌われてい』なかったのだが、『その磯節が』、『全国に広まった理由の一つに、水戸出身の横綱である常陸山』(横綱在位は明治三六(一九〇三)年から大正三(一九一四)年六月)『と、美声の持ち主であった関根安中』(せきねあんちゅう 明治一〇(一八七七)年~昭和一五(一九四〇)年:茨城県磯浜町(現在の大洗町)生まれで、本名は関根丑太郎。十九歳の時に盲目となり、郷里茨城県であんまを業とする傍ら、同地の民謡である磯節を修業し、名手と称せられるようになった。後、横綱常陸山から贔屓にされ、その巡業に随行して磯節を披露して評判となった。大正初期には磯節のレコード録音にも従事した。独特な節回しを持ち、その磯節は特に「安中節」と呼ばれた、と「日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」にあった)『との出会いが挙げられ』、『水戸に帰ったあるときに、常陸山は関根安中の歌った磯節をきいて、たいそう気に入り』、『常陸山は安中を相撲の巡業に連れて行き、行く先々で磯節を歌わせた』という。『いろいろな場所で歌われて、磯節の名はしだいに広まっていき』、『やがて、「安中の磯節か、磯節の安中か」とまで評判になり、安中の独特の歌い回しから「安中節」とも呼よばれ』た。『現在では、県内の各市町村の文化芸術祭や地域のお祭りなどで歌われて』おり、『毎年』二『月には磯節全国大会も開かれ、全国から多くの参加者を集めてい』るとある。常陸山の横綱昇進年と関根安中の事蹟とを照らすと、この磯節とみて、まず、よいと私は思う

「淺草の鰻屋」浅草の鰻屋は老舗が複数あり、これがどこかは判らない。

「Les chanson du Kirishitan.」この詩篇(フランス語で「切支丹の唄」)は言わずもがな、この書信の二年前の明治四二(一九一〇)年に発行された、北原白秋(龍之介より七つ上で、書簡当時二十四歳)「邪宗門」を確信犯でインスパイアしたもので、芥川龍之介のオリジナリティがある詩篇とは言い難いし、龍之介もそれを承知で悪戯っぽい気持ちから作った戯れの詩であると私には思われる。特に、詩集「邪宗門」の長々しい冒頭パートの本来の詩篇部の序詩とも言うべき「邪宗門秘曲」(リンク先は函・表紙・背・裏表紙・天・見返し・扉・献辞・「邪宗門扉銘」・序・「松の葉」所収小唄・例言・散文詩(長田秀雄)・「邪宗門秘曲」を一括して電子化してあるので、探されたい)を題名からしてが、パロっていることが判る(私は昨年、「北原白秋 邪宗門 正規表現版」の全電子化注を終わっており、一括縦書PDFも公開している)。而して、「邪宗門秘曲」の第一連と第二連を見るだけでも十分である(読みは一部を除いて除去した)。

   *

われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。

黑船の加比丹を、紅毛の不可思議國を、

色赤きびいどろを、匂鋭(と)きあんじやべいいる、

南蠻の棧留縞を、はた、阿刺吉(あらき)、珍酡(ちんた)の酒を。

 

目見(まみ)靑きドミニカびとは陀羅尼(だらに)誦(ず)し夢にも語る、

禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔(くるす)、

芥子粒を林檎のごとく見すといふ欺罔(けれん)の器、

波羅葦僧(はらいそ)の空をも覗く伸び縮む奇なる眼鏡を。

   *

なお、白秋の第二詩集「抒情小曲集 おもひで」(同じくカテゴリ「北原白秋」で全電子化注済み)がこの書信の前月の六月五日に刊行されているが、その影響は殆んど見られない。後で注する「茴香」を野の花として読むのは「おもひで 散步」に「日は光り、いまだ茴香(ういきやう)の露も苦く、」とあって、それらしく見ようと思えば見えなくもないが)。

「佛手柑黃ばまむ國ぞ我ふるさとは」「佛手柑」は生物種としては、ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン変種ブッシュカン Citrus medica var. sarcodactylis を指すが、北原白秋はこれではなく、変種ではない原種のタイプ種である被子植物門双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン Citrus medica を指していると考えている。「シトロン」は和名を「丸仏手柑(マルブシュカン)」とも呼ぶからで、この私の比定考証は「北原白秋 邪宗門 正規表現版 君」を見られたく、その詩篇を一読されるや、この龍之介の一行が、白秋のこの「君」の三行目の「佛手柑の靑む南國」のパロディであることが明白となるであろう。

「角を吹く Madoros なきぞ淋しけれ/天草じまの無花果の森、」龍之介は無論、天草に行ったこともない。「邪宗門」の「天草雅歌」パートの「角を吹け」を嘯いたものである。

「茴香」(ういきやう)セリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare 。花期は七~八月で、枝分かれした草体全体が鮮やかな黄緑色のその茎頂に、黄色の小花を多数つけて傘状に広がる。若葉や種子がハーブとして古くから使われ、酒の香りづけなどにもなる。ここも恐らく私はやはり「邪宗門」由来であろうと思う。同詩集にはリキュールの「アプサァント」が「茴香酒(アブサン)」(フランス語:absinthe)として何度も出るからである。

「Sinngoro」不詳。因みに参考までに、川口敦子氏の論文「ポルトガル国立図書館所蔵1627年の殉教に関するフェレイラ報告書の日本語表記」(『三重大学日本語学文学』二〇一〇年発行・第二十一号・PDF)によれば、「Xingorō Thome(新五郎 トメ)」と記されてあるとある。

「珍酡」先に示した私の「邪宗門秘曲の注の中で、吉田精一氏の引用を引いた中に、『珍酡(Vinho-tinto)の如き、オランダ、ポルトガルより渡來したといふ古渡りの洋酒の名を列擧してゐる。珍酡はポルトガルの赤葡萄酒の名、阿刺吉はオランダの火酒の類で、吉井勇の歌などにも愛用されてゐる』とある。

「Rabeika」この綴りを龍之介がどこから引っ張ってきたかは定かでないが、これは「ラベイカ」で「レベック」(Rebec・Rebeck)と呼ばれ、現在のヴァイオリンの起源ともなったとされる弦楽器の一つとされる。ウィキの「レベックによれば、『一般的にはアラブ人の楽器ラバーブがもとになっていると考えられており、外観は洋ナシ形をしている。おそらく中世中期にスペイン経由でヨーロッパに広まったとされている。ラベイカとも』呼ぶとある。十六『世紀から』十七『世紀のレベックはフレットがなく』、二弦或いは三弦で五度『調弦である。高い技術を要する楽器ではなかったため、特にダンスの際によく使用された』とある。これらと、同ウィキに添えられてある、その楽器の西洋人の演奏風景を描いた絵を見るに、これは胡弓とそっくりである。胡弓はまた、本邦で古くに独自に発展して日本胡弓(しかもそれは異国風の幻想を文字通り、掻き立てるものであった)もあるからして、そうした複合幻想をこの単語に纏わせてよいと私は思う。]

 

 

明治四四(一九一一)年十月十四日・本所區相生町三ノ六 山本喜譽司樣(塩原の絵葉書)

 

黃昏 白い幌をかけた乘合馬車につのて、角笛のやうなラツパの聲をきゝながらこの淋しい村をすぎました 所々の黃葉した樹の下には黑い鷄が遊んでゐます 雨は漸やんで濁つた雲の間からうす靑い空が見えて居ります

十四日                龍

 

[やぶちゃん注:この十月十日に龍之介は友人西川英次郎(こちらの「Rosmersholm」の注で既注)と那須塩原の塩原温泉(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に出かけている。なお、この前に生活に大きな変化が起こっている。則ち、この前月の九月に、一・二年次全寮制であったのが、特別許可が切れ、南寮の中寮三番に入寮している(十二人部屋)。龍之介は寮生活に馴染めず、土日には自宅に帰っており、寮の風呂にもなかなか入らなかったという。しかし、ここで同室となったのが、後に彼の親友となった井川(後に婿養子となって恒藤に改姓)恭であった。]

 

 

明治四四(一九一一)年十月十七日・新宿発信・中塚癸巳男宛

 

敬啓 鹽原からは一昨日かへつて來た足の裏が兩方とも豆で一ぱいになつてしまつた寢ても坐つてもづきづき痛む步いては猶更痛む煙草の吹がらと飯粒とを一緖にねつて貼つて見たがどうも一寸癒りさうではない

豆は第一日に鹽原へついた時にもう足のうら一面に蔓延してしまつたのであるそして西川と目をきくのが面倒臭い程痛む仕方がないから手紙を二三枚かいたなり寢ころんで「こゝの宿屋は椎たけばかり食はせる」とか「女中がいやに丁寧ぶつてゐやあがる」とか獨りで勝手な不平をならべて見たさうすると西川が「中塚へは僕からハガキを出しとくぜ」と云つた西川は少し前からせつせとヱハガキヘ萬年筆を走らせながら「この吼哮瀧のヱハガキは寮の始終寮歌ばかりうたつてる友達へ出してやらう」とか「明日は栗ようかんをおみやげに買つて行かうかな」とかくだらない獨語を云つて嬉しがつてゐたのであるもとより豆に恐縮してゐる際だから「よろしく賴むよ」とすぐに許可してやつたが西川は少し考へながら今度は「中塚はまたのんきぢやあないかな」と疑問のやうな疑問でないやうな事を云ひ出した外の奴がこんな事を云つたなら「俺は知らないよ」と答へてやるのだが西川だけに此方も眞面目な答をしなければならなくなつた何故眞面目な答をしなければならなくなつたときかれると少し說明が入る元來西川はあんまりこんな事を云はない男である眞鍮を金に見せようとするけちな了簡がないだけに決して顏だけ泣きつらをして腹の中では舌を出しながら笑ふやうな事をしない男である世の中には隨分おひやらかし半分に心配さうな顏をして見たりさも驚いたやうな顏をして見たりする奴がどこへ行つてもうぢやうぢやゐるだからこんな奴をあつかふ時には僕も正當防衞として冷かすかさもなければおひやらかして追拂つてしまふ唯西川にはこれがない藥にしたくもこんな下劣なづうづうしい所がないこれだから僕は眞面目になつたのである此時ばかりではない何時でも僕は眞面目になるのである

そこで「俺ものん氣になつては困ると思つてるんだ」と答へたそしてその上に「ことによると少しのんきになつてるかもしれないな」とつけ加へたさうすると西川は「どこか豫備校へでも行つてゐるのかね」と尋ねたそれから西川と僕との間には大體下のやうな對話が交換された

A「どこへも行つてゐないのだらう」

N「それで勉强する氣かな」

A「さうだらうと思ふ」

N「獨りで勉强するには餘程意志が强くないと怠けるからな往意しないといけない」

A「來年は是非はいらなくつちやあいけないんだからね俺も何時でものん氣ならざらむことを祈つてるんだ」

西川はだまつて「小梅業平町五十」と君の宛名を書いたそれから僕は寢ころんで十分ばかモーパツサンの短篇をよんだら眠くなつて來た少し早かつたが二人共床へはいつて花のやうな赤い灯をながめながら話をしてゐると又西川が「中塚のとこから手紙でもくるかね」ときゝ出した

A「うむ幽靈の木像の繪はがきと病氣見舞のはがきとがきた」

N「勉强をしてゐるやうかい」

A「してるんだらうと思ふ」

N「來年ははいらなくつちや駄目だからな」

A「○○君のやうに四年目に補缺ではいるなんと云ふんぢやあ心細いからな」

N「さうなつちやあ大變だ」

A「無精とのん氣さへ祟らなけりやあはいれるんだが」

N「のん氣になつてはいけないな」

それから話しがクラスの人物評になつたが二十分も話してゐる中に御互に眠くなつたので「これから以後に口をきくものは寢言と見倣す」と西川が宣言したそして寐てしまつた

甚くだらない事を書いたと思ふかもしれないしかしこれは僕等二人が正しく感じた事を正しく口にしたものである僕はあの箒川の水音のきこえる溫泉宿で豆だらけの足を重ねながら肅然として「何處へも行つてゐないんだらう」と答へた時の惑じを何時までも忘れないだらうと思ふそして今でもあの人の事に頓着しない西川が二度まで自分から切出して話を君の上に移した事を思ふと我しらず眼のうるむのを感ぜざるを得ないのである

僕は今新宿の君のしつてゐる二階の書齋でこれを書く書きながら淚が二つ落ちた僕たちは唯君が正しい努力の步を一步づゝ進めることを祈る君が君の前に始終母上と祖母上とのいますことを忘れないやうに祈る獨り母上と祖母上とのみならず君の父上も亦君の慰めを待たれる事を忘れないやうに祈るこれさへ忘れなければそれで澤山だ一高の寄宿舍に君の上を祈るものの少くも三人はあるのも忘れていゝ何も彼も忘れていゝ唯これだけを忘れるなと云ひたい君の爲に捧げた君の家族の銀の如く美しい犧牲を忘れるなと云ひたい

くだらない事を長々とかいた夜がふけたから筆を擱く讀み返さないでこのまゝ封じるから御判讀をねがひたい 不惡

    十七日夜       芥川龍之介

   中塚癸巳男兄 案下

 

[やぶちゃん注:「中塚癸巳男」(なかつかきしお 明治二五(一八九二)年~昭和五二(一九七七)年)は三中時代の同級生。芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録「槍ヶ岳紀行」(リンク先は私のサイト版)に同行した他、当時の龍之介の旅にしばしば同行しており、西川英次郎・山本喜誉司などとともに、非常に親しい仲間であった。ここで龍之介と西川が盛んに彼のことを心配している通り、彼は結局、二浪し、明治四十五年に一高の第二部甲類に入学することになる。

「吼哮瀧」「こうかうだき」で、既注の共通の友人上瀧嵬(こうたきたかし)の綽名のようである。

「小梅業平町」(こうめなりひらちやう)。洒落た地名だが、消滅した。現在は墨田区吾妻橋三丁目及び東駒形四丁目。この中央附近

「箒川」(はうきがは)は那須塩原温泉を貫流する川。]

 

 

明治四四(一九一一)年 十一日(年次推定)・山本喜譽司宛(写し)

 

雨の中を十一時まで獨りでぶらついた。君の家の前も二度通つた。たゞ何となく氣がいらいらする、このいらいらする思ひを君にしらせたいと思ふ。君より外にきいてくれる人はないと思ふ。

前に大きな陷穽があつて、僕の通る道が唯一すぢ其陷穽にどうしてもおちなくてはならぬやうについてゐたとしたら、どんなだらう。すべての力もぬけてしまふぢやアないか。病軀を抱いて痛飮する尾城の心もちになつて見れば、隨分氣の毒なものだと思ふ。しかも僕自身もこの憫むべき人間ぢやアないか。

レルモントフは「自分には魂が二つある、一は始終働いてゐるが一つは其働くのを觀察し又は批評してゐる」といつた。僕も自己が二つあるやうな氣がしてならない。さうして一つの自己はもう一つの自己を、絕えず冷笑し侮辱してゐるンだもの、僕は意氣地のない無價値な人間なンだもの、それはボルクマンもよみ、ノラもよんだのだから、何故自己の生活に生きないといはれるかも知れない、けれども僕は到底そんなに腰がすゑられない、僕は醉つてゐる一方においては絕えず醒めてもゐる。僕は囚はれてゐる一方に於ては、常に解放せられてゐる。生慾と性慾との要求を同時に一刻も空虛を感じないことはない。まるで反對なものがいつも同時に反對の方向に動かうとしてゐる。僕は自ら聰明だと信ずる、唯其聰明は呪ふべき聰明である。僕は聰明を求めて却つて聰明のために苦んでゐるのだ、其相搏つてゐる大きな二つの力の何れかゞ無くつてくれゝばいゝ。さうしなければいつも不安である、かうまで思弱るほど意氣地のない人間なんだもの。君は嗤ふかもしれないけれども嗤はれてもいゝ、しみじみかう考へこむのだから。

いつまでたつても僕はひとりのやうな氣がする。淋しい巡禮のやうな、悲しさが胸にわくよ、唯同じやうな(多少なりとも)感情を持つてゐる君が賴みになるばかりなのだもの。

君がゐなくなつたら僕はどうしていゝかわからないのだもの、いつか君にわかれる日がくるンぢやアないかと思ふと、わけもなくつまらなく感じられる、見はなされるやうな氣さへするよ君。

何をやつても同じ事だ、結局は同じ運命がくるのだし、誰でも同じ運命にあふのだから。

しみじみ何のために生きてゐるのかわからない。神も僕にはだんだんとうすくなる。種の爲の生存、子孫をつくる爲の生存、それが眞理かもしれないとさへ思はれる。外面の生活の缺陷を補つてゆく觀樂は此苦しさをわすれさせるかもしれない、けれども空虛な感じはどうしたつて失せなからう。種の爲の生存、かなしいひゞきがつたはるぢやアないか。

窮極する所は死乎、けれども僕にはどうもまだどうにかなりさうな氣がする、死なずともすみさうな氣がする。卑怯だ、未練があるのだ、僕は死ねない理由もなく死ねない、家族の係累といふ錘はさらにこの卑怯をつよくする、

何度日記に「死」といふ字をかいて見たかしれないのに。

さういへば其日記ら此頃はやめてしまつた、過去何年の日記は、皆噓ばかりかいてある。唯あとで讀んで面白い爲なら、何も日記をつける必要はない、何故あんな愚にもつかない事を誇張して日記なんていつたらう。

どうしていゝかわからない。唯苦笑して生きてゆくばかりだ、さうしたらいつか年をとつて死んでしまふだらう。死なないまでも今の思想とはまるでかはつた思想を抱くだらう、どうせ「忘却」のかなしみはいつか僕を掩ふんだらう。

氣狂ひじみた事を長くかいた。けれども實際こんな考が起つてとめどがない。よみかへすと君に見せるのが嫌になるかもしれないからかきはなしで君の所へあげる。

誤字や脫字はよろしく御判讀を願ふ。

切に試驗をうまくやるのをいのる。

    十一日夜十二時蠟燭の火にて  龍生

 

[やぶちゃん注:この年次推定は現在も変わらない(その証拠に二〇〇九年岩波文庫刊「芥川龍之介書簡集」(石割透編)も同年に入れてある)。これが未だ芥川龍之介満十九歲のものであることに私は強く撲たれる。何度読んでも、激しい衝撃を受ける一篇である。「(写し)」というのは、底本の『(寫)』から。これは底本の「後記」に、『從來の全集において他から轉載したものと思われが、その出典を明らかにし得なかったので(寫)を踏襲した』と説明されてある。

「陷穽」(かんせい)原義は「動物などを落ち込ませて捕獲する落とし穴」で、転じて「人を陥(おとしい)れる策略や罠」を言う。

「尾城」不詳。昭和四六(一九七一)年刊「筑摩全集類聚」版も『不詳』。最新の岩波文庫「芥川龍之介書簡集」には注さえない。

「レルモントフ」帝政ロシア時代の詩人・作家ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ(Михаи́л Ю́рьевич Ле́рмонтов,/ラテン文字転写:Mikhail Yurevich Lermontov 一八一四年~一八四一年)。出典不詳。

「ボルクマン」ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセン(Henrik Johan Ibsen 一八二八年~一九〇六年)の戯曲「ヨーン・ガブリエル・ボルクマン」(John Gabriel Borkman )は一八九六年に書かれ、一八九七年にヘルシンキで初演された。梗概は本作のウィキを読まれたい。

「ノラ」同じくイプセンが一八七九年に書いた戯曲「人形の家」(Et dukkehjem )をその主人公の名ノーラ(Nora)で呼んだもの。

「錘」「おもり」。

 なお、岩波の旧全集の翌明治四十五年の四月十三日(月推定・封筒欠)の書簡の末尾に、『最後に御願がある 一昨年の九月にあげた手紙は破るか火にくべるかしてくれ給へ どンな事を書いたか今になつて考へると殆取留めがない さぞ馬鹿々々しい事が書いてあつたらうと思ふ』(改行)『何となく氣まりが惡いからどうかしちやつてくれ給へ 切に御願する』と記している。ここに最後に掲げた明治四十四年の沈痛な芥川龍之介書簡は月が定まらないために、前の十月七日中塚宛書簡の後に置かれているが、これは編集上の機械的仕儀に過ぎない。だからと言って、これがここで破棄を求めた書簡であると断定することは出来ない。しかし、破棄を懇請する手紙を残しておき、かの重い告白書簡をその通りに焼き捨てたというのも私は妙に思う。しかし、翻って、前年の九月十一日に読み返しもせずに投函した書簡を、七ヶ月も経過してから思い出したように破棄要請を出すというのも、ちょっと解せない気もする(その間にも残存する山本宛書簡は日付確定のものだけでも四通あるのにである)から、全然、別の実際に山本によって破棄された書簡なのかも知れぬ。取り敢えず、気がついた事実として、言い添えておく。その書簡は後に掲げる。]

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