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2021/02/04

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 3

 

[やぶちゃん注:以下より、底本では、字下げの附記内容の二段を終えて、本文に戻って、新たに行最上部から始まっている。

 

次に、古話の同似せるものの記錄、東洋が西洋より古き二三の例を擧げんに、一五二五年頃初めて刊行され、殘缺本のみ現存せる英文‘A Hundred Merry Tales’ed. Hazlitt, London, 1881,pp. 123-124)に云く、「昔し倫敦に畫工有り、若き艷妻を持るが、用有て旅するに臨み、豫て其妻の心底を疑ひければ、其腹に羊を畫き、己が歸り來るまで、消失ぬ樣注意せよと命じて出行きぬ、不在中に、未だ妻を持ざる好色の若き商人來り、畫工の妻を說き落し、屢ば室に入て之と婬す、會し畢て[やぶちゃん注:「くわいしをはりて」。交接を終わって。]女の腹に復た羊を畫きける、夫在外一年許[やぶちゃん注:「ばかり」]して歸り來り、妻と同床し、件の所を覽て大に驚き言く[やぶちゃん注:「いはく」。]、豫が汝の腹に畫けるは角無き羊なりしに、今此羊に二角あり、必定予の不在中不貞の行ひぞ有つらめと、是に於て妻夫に向ひ短く」と有て、下文缺けたり、友人「エー、コリングウツド、リー」氏、予の囑托に應じ、此話に似たる伊佛獨諸國の譚を聚め、報じ來りしを見るに、何れも十六世紀より古きは無し、然るに、西曆十三世紀に筆せる、無住の砂石集[やぶちゃん注:ママ。]七卷、六章に、此話有るのみならず、其前後の結構、歐州の諸話に比して一層詳細なり、惟ふに根本は小乘佛典より出しならん、予目下多忙にて、藏經を調査する暇無ければ、姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]無住の所筆を引んに云ふ、「遠江國、池田の邊に庄官有りけり、彼妻極めたる嫉妬心の者にて、男を取詰めて、あからさまにも差出さず、所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて遊けるに、見參の爲宿へ行かんとするを、例の許さず云々、如何見參せざらん、許せと言ふに、去ば印を附ん迚、陰れたる所に、すり粉を塗りてけり、扨宿へ行ぬ、地頭皆子細知て、いみじく女房に許されておはしたり、遊女呼で遊で給へと云に、人にも似ぬ者にて、六かしく候、しかも符を付けられて候と云て、云々と語りければ、冠者原に見せて、本の如く塗可しとて、遊で後、本の樣に違へず、摺粉を塗て家へ歸りぬ、妻云々、摺粉をこそげて甞めて見て、さればこそしてけり、我摺粉には鹽を加へたるに、是は鹽が無きとて、引伏せて縛りけり、心深き餘りに疎ましく覺えて、頓て打ち捨て鎌倉へ下りけり、近き事也、舊き物語りに、或男他行の時、間男持る妻を符附ん迚、隱れたる所に牛を描てけり、去程に、まめ男の來るに、斯る事なん有と語ければ、我も繪はかけば描くべしとて、去ば能々まみて、元の如くも描で[やぶちゃん注:「ゑがかで」。]、實の男は臥る牛を描るに、間男は立る牛を描きてけり、扨夫歸で見て、去ばこそ、間男の所爲にこそ、我描る牛は臥る牛なるに、是は立る牛なりと叱りければ、哀れやみ給へ、臥る牛は一生臥るかと云ければ、さもあらん迚許しつ、男の心は淺く大樣なる習ひにや、嗚呼がましき方も有れども、情量の淺き方は、罪も淺くや、池田の女人には事の外似ざりけり」委細は、予の ‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body,Vragen en Mededeelingen, Arnhem, I ser., i, pp. 261-262, 1910. に載せたり、又三年前刊行 G.L.Gomme, ‘Folklore as an Historical Science,’ p.67 Seqq. に、蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]の古語出づ、云く、富る老翁、多くの子成長したるに畑地を分與たり[やぶちゃん注:「わけあたへたり」。]、老妻死しければ財產を悉諸子に分ち、自ら巡廻して諸子の家に客たり、諸子父を倦厭し、之を除き去んと謀る、老翁大に悲しみ、道傍に哭くを見て、舊友一人問て其故を知り、伴て自家に置き、黃金一鉢を授け、云々せよと敎ゆ、翁其言に從ひ、諸子寺へ詣で、孫共が留て塚上に遊べる所へ往き、日向で大石上に黃金を擴げ出し、呟て言く、「噫[やぶちゃん注:「ああ」。]黃金、汝は久く蓄へられて、黴が生へさうだ、どりや日に乾してやらう」と、孫共塚に上り之を窺ひ、走り來て問ふ、「ぢいさま何ぢや」と、翁應ふらく、「お前等の構ふ事で無い、こらこら觸れちあいけねー」と、言終りて黃金を大袋に盛り、舊友の許へ去る、諸子寺より還て、孫の報告に接し、何とか老翁の金を得んと、爭て機嫌を取る事甚だ勉む、老翁又友の訓えに由て、小作りな頑丈な箱を造り、常に隨身して步く、皆々その何たるやを尋ぬる每に翁唯「此箱を開く時が來たら自ら知れる」と答るのみ、扨兒孫の追從一方ならぬ中に、老翁沒しければ、一族爭ひ飭りて[やぶちゃん注:「かざりて」。]、善美を盡せる[やぶちゃん注:底本は「儘せる」であるが、初出で訂した。]葬式濟まして後、相會して其箱を開き見れば、茶碗の破片と、石數塊と、長柄の槌有るのみ、一同宛込み大外れ乍ら、槌の頭の銘を讀むに、

    この槌は、子に分け盡し、鵜の毛だに、

         身に添えぬ馬鹿の、頭をぞ打つ、

「ゴム」氏いわく、この話馬鹿氣たりと雖も、次の史實を包存せり、(一)古え諸國に、地面持ちの子供長ずる時、各に地面を分與し、子供別れ住み親は僅に一小地片を自有する風有し事、(二)父老ゆれば、財產を擧て子に讓る風有し事、(三)昔し此話の本國(蘇格蘭)には、同源の諸家一團に群立し、近傍の畑地を、諸家通じて共に耕せる風有し故に、老翁產を子供に分ち悉し[やぶちゃん注:「つくし」。]、巡廻して諸子に客たりしと言ふ也、(四)古え歐州の或部に、人老れば子に打殺さる俗ありし等是也と、熊楠按ずるに、史記陸賈傳に、呂后擅政[やぶちゃん注:「せんせい」。恣(ほしいまま)に政治を執ること。]の際、陸生、自度不能爭之、乃病免家居、以好畤田地善、可以家焉、有五男、廼出所使越得橐中裝、賣千金、分其子、子二百金、令爲生產、陸生常安車驢馬、從歌舞鼓琴瑟侍者十人、寶劒直百金、謂其子曰、與汝約、過汝、汝給吾人馬酒食、極欲十日而更、所死家、得寶劍車騎侍從者、一歲中、往來過他客、率不過再三過、數見不鮮、無久慁公爲也、予は是れ史實なるか小說なるかを知らず、又決して、俄に、蘇格蘭の古話が、支那の陸賈傳に基くと斷ぜずと雖も、子が成長して親を厭ふの情狀を敍せる此類の記錄は、東洋が西洋より早く、而して老父を槌殺せし風習の痕跡だに留めざる支那の德化が、迥に[やぶちゃん注:「はるかに」。]北歐より古く進めるを認む(予の“The Neglected Old Father: Chinese Parallel,” Notes and Queries, Aug. 20, 1910, p.145 に出)又伊國の大文豪「ボツカチオ」の「デカメロン」、第七日第九譚に、淫婦「リヂア」、老夫の氣力乏しきを嘆ち[やぶちゃん注:「かこち」。]、美少年「ピロ」に懸想し、幽情勃動、病んで死せんとするの狀を通じけるに、男三難題を出し、夫人能く悉く之を成就せば、戀を叶ふべしと答ふ、其第三の難題は、夫人須く其夫の齒を拔き、吾に贈るべしとあり、是於、「リヂア」計て[やぶちゃん注:「はかりて」。]、兩侍童に訓ゆらく[やぶちゃん注:「おしゆらく」。]、主翁汝等の口臭を忌む、汝等給侍する每に、顏を橫向けよと、兩童然くせしかば夫之を怪しむ、夫人進で說て言く、君の齒朽ち臭甚き故也と、輒ち爲に其齒を拔き、情人に遣る、[やぶちゃん注:初出で読点を補った。]「クラウストン」氏此類の譚を集めしに、歐州に十二世紀より前に之を記せし者無し、(W. A. Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol.ii, p.444 Seqq.; A. C. Lee, ’The Decameron, its Sources and Analogues,’ 1909, p.231 Seqq.)しかるに、予、韓非子(西曆紀元前三世紀の作)卷十に、是に似たる話有るを見出せり、云く、荆王所愛妾、有鄭袖者、荆王新得美女、鄭袖因敎之曰、王甚喜人之掩口也、爲近王、必掩口、美女入見近王、因掩口、王問其故、鄭袖曰、此固言、惡王之臭、及王與鄭袖美女三人坐、袖因先誡御者曰、王適有言、必亟[やぶちゃん注:底本は「丞」であるが、「韓非子」原本で訂した。また、次にくる読点位置も不全なので訂した。]聽從王言、美女前近王、甚數掩口、王勃然怒曰、劓之、御因揄刀而劓美人、因て之を譯し、Notes and Queries, Dec.24, 1904, p. 505 に揭げしに、「リー」氏評して、是れ此類の諸譚中最も古き者たり、古話の學する者、一齊に南方氏の發見を感謝すべしと言れたるは、不慮の過賞予慙汗三斗たらざるを得んや(A. C. Lee, “The Envied Favorite,” N. & Q., Jan. 28, 1905, pp.71-73 を見よ)、

 

[やぶちゃん注:「一五二五年」本邦では大永五年で戦国時代真っ只中。

「‘A Hundred Merry Tales’ed. Hazlitt, London, 1881,pp. 123-124)」著者はイギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)。底本ではページが「pp. 23-4」となっているが、初出と「選集」で訂した。それらしき原本をネットで見つけたが、しかし、孰れのページにもそれらしい内容が書かれていない。不審。

「エー、コリングウツド、リー」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)」に「A. C. Lee, ‘The Decameron its Sources and Analogues, 1909, p.139」(「デカメロンの原拠と類譚」か)と出た著者のアルフレッド・コーリングウッド・リー(Alfred Collingwood Lee)であろう(詳細事績未詳)。

「砂石集」「沙石集」(しゃせきしゅう)が正しい。鎌倉時代の仏教説話集。全十巻。無住一円著。弘安六(一二八三)年成立(原本はカタカナ漢字交り)。当該話は、第七の「六 嫉妬の心無き人の事」。但し、これは複数話から成るオムニバス構成で、その中の二篇である。所持する一九四三年岩波文庫刊筑土鈴寛校訂本からその部分のみを引く。句読点を追加し、段落を成形した。底本は一部が伏字になっているので(呆れかえるほど馬鹿々々しい戦時下の自主規制コードの仕儀である)、所持する岩波の古典文学大系本の「拾遺」で補った。話の変わる箇所に「+」を挿入しておいた。

   *

 遠江國、池田の邊(ほとり)に、庄官ありけり。かの妻、きはめたる嫉妬心の者にて、男をとりつめて[やぶちゃん注:異常に思い入れて。]、あからさまにもさし出ださず。

 所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて遊びけるに、

「見參のため、宿へ行かん。」

とするを、例の[やぶちゃん注:「例の通り」の意。]、ゆるさず。

「地頭代、知音なりければ、いかが見參せざらん。許せ。」

と言ふに、

「さらば、しるしをつけん。」

と、かくれたる所にすり粉(こ)を塗りてけり。

 さて、宿へゆきぬ。地頭、みな、子細知りて、

「いみじく女房に許されておはしたり。遊女呼びて、遊び給へ。」

と言ふに、

「人にも似ぬ者にて、むつかしく候ふ。しかも、符(しるし)付けられて候ふ。」

と言うて、

「しかじか。」

と語りければ、

「冠者ばらに見せて、本のごとく、塗るべし。」

とて、遊びて後、もとの樣にたがへず摺(すり)粉を塗りて、家へ歸りぬ。

 妻、

「いでいで、見ん。」

とて、摺粉をこそげて、なめてみて、

「さればこそ。してけり。わが摺粉には、塩をくはへたるに、これは、鹽が、なき。」

とて、ひきふせてしばりけり。

 心深さ、あまりにうとましく覺えて、頓(やが)てうち捨てて、鎌倉へ下りにけり。

 近きことなり。

   +

 舊き物語に、ある男、他行の時、まをとこ持てる妻を、

「しるしつけん。」

とて、かくれたる所に、牛をかきてけり。

 さるほどに、まめ男の來たるに、

「かかる事なん、あり。」

と語りければ、

「われも繪はかけば、かくべし。」とて、さらば、能々[やぶちゃん注:「よくよく」。]見て、もとのごとくもかかで、實[やぶちゃん注:「まこと」。]の男は、ふせる牛をかけるに、まをとこは、立てる牛をかきてけり。

 さて、夫、歸りて、見て、

「さればこそ、まをとこの所爲にこそ。わがかける牛はふせる牛なるに、これは、たてる牛なり。」

としかりければ、

「あはれ、やみ給へ。ふせる牛は、一生、ふせるか。」

と言ひければ、

「さもあるらん。」

とて、ゆるしつ。

 男の心は、あさく、おほやうなるならひにや。をこがましきかたもあれども、情量のあさきかたは、つみもあさくや。

 池田の女人には、事のほかに、似ざりけり。

   *

この「すり粉」(摺り粉)は、米を擂り鉢で擦り砕いて粉にしたもので、湯で溶いて乳児に母乳の代わりとして与えた。後の江戸時代には火にかけて汁飴(しるあめ)を加えて甘味をつけて吸わせたりもした。「人にも似ぬ者にて」とは妻の妬心が尋常でないことを言うものであろう。「いでいで」は感動詞。「さあ! さあ!」と、異様にせかしているのである。「ひきふせてしばりけり」となると、妬心の鬼と言うよりは、サディズムの性向さえ窺える。「情量」は仏教用語で、「凡夫に於ける妄想的な不全の分別」を指す。

「惟ふに根本は小乘佛典より出しならん」私は忙しくはないが、熊楠の代わりに、この原拠を探すために仏典を引っ繰り返す気は毛頭ない。悪しからず。

「予の ‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body,’ Vragen en Mededeelingen, Arnhem, I ser., i, pp. 261-262, 1910.」不詳。

G.L.Gomme, ‘Folklore as an Historical Science,’ p.67 Seqq.」イギリスを代表する民俗学者ジョージ・ローレンス・ゴム(George Laurence Gomme 一八五三年~一九一六年)の一九〇八年の著作「歴史科学としての民間伝承」。ずっと後の版だが、「Internet archive」の原本のこちらから読める。

「史記陸賈傳に……」「陸賈」(りくか 生没年未詳)は前漢初期の学者・政治家。楚の人。高祖劉邦に仕え、天下統一に貢献した。著に秦漢の興亡を述べた「新語」十二編がある。自然流で訓読を試みる。

   *

 陸生、自(みづか)ら之れと爭ふ能はざるを度(はか)りて、乃(すなは)ち、病ひもて、免ぜられて、家居す。以(おもへら)く、

「好畤(こうし)[やぶちゃん注:旧県名。現在の咸陽市乾県陽洪鎮好畤村一帯。]の田地、善(よ)ければ、以つて家とすべし。」

と。

 五男、有り、廼(すなは)ち、越(えつ)に使ひして得る所の橐中(たくちゆう)の裝(しやう)を出だし[やぶちゃん注:「橐」は中央に口があって両端に物を入れて担ぐ袋のこと。]、千金に賣りて、其の子に分かつこと、子ごとに二百金、生產を爲さしむ。陸生、常に安車・驢馬もて、歌舞して琴瑟を鼓(う)つ侍者十人を從へ、寶劒は直(あたひ)百金たり。其の子に謂ひて曰はく、

「汝(なんぢら)と約す。汝に過(たちよ)らば、汝、吾が人馬に酒食を給せ。欲を極むること、十日にして、更(か)へん。死する所の家は寶劍・車騎・侍從の者を得よ。一歲の中(うち)、往來して他に過(よぎ)りて客たらんとせば、率(おほむ)ね、再三、過ぐるに過ぎざるべし。數(しばしば)見(まみ)えんは、鮮(せん)ならず。久しく、公(きみら)を慁(みだ)すことを爲すは無からん。」

と。

   *

「予の“The Neglected Old Father: Chinese Parallel,” Notes and Queries, Aug. 20, 1910, p.145 に出)」「Internet archive」の原本のここから次のページにかけてがそれ。かなり長いが、幸いなことに、前に出たスコットランドの昔話も採録されているので、以下に電子化する。

   *

   THE NEGLECTED OLD FATHER :  CHINESE PARALLEL.― A Gaelic story is quoted as follows from J. F. Campbell in Mr. Gomme's ' Folk-lore as an Historical Science,* London, n.d., pp. 67-8 :

   "There was a man at some time or other who was well off, and had many children. When the family grew up the man gave a well-stocked farm to each of his children. When the man was old his wife died, and he divided all that he had amongst his children, and lived with them, turn about, in their houses. The sons got tired of him and ungrateful, and tried to get rid of him when he came to stay with them. At last an old friend found him sitting tearful by the wayside, and, learning the cause of his distress, took him home; there he gave him a bowl of gold and a lesson which the old man learned and acted. When all the ungrateful sons and daughters had gone to a preaching, the old man went to a green knoll where his grandchildren were at play, and, pretending to hide, he turned up a flat hearthstone in an old stance [ = standing-place], and went out of sight. He spread out his gold on a big stone in the sunlight, and he muttered, 'Ye are mouldy, ye are hoary, ye will be better for the sun.' The grandchildren came sneaking over the knoll, and when. they had seen and heard all that they were intended to see and hear, they came running up with, 'Grandfather, what have you got there?' ' That which concerns you not ; touch it not,' said the grandfather, and he swept his gold into a bag and took it home to his old friend. The grandchildren told what they had seen, and henceforth the children strove who should be kindest to the old grandfather. Still acting on the counsel of his sagacious old chum, he got a stout little black chest made, and carried it always with him. When any one questioned him as to its contents his answer was, ' That will be known when the chest is opened.' When he died he was buried with great honour and ceremony, and the chest was opened by the expectant heirs. In it were founa broken ; potsherds and bits of slate, and a long-handled white wooden mallet with this legend on its head :

    Here is the fair mall

    To give a knock on the skull

    To the man who keeps no gear for himself,

    But gives all to his bairn."

  Whether or not it has one and the same origin with this Scottish tale, a Chinese anecdote of a similar stamp is related, with all his characteristic eagerness, by Sze-ma Tsien, the greatest historian China has ever produced. It occurs in the ‘Life of Lu Kia’ in his ‘Shi-ki,’ written c. B.C. 97.  It tells us how in the year 196 B.C. the Emperor Hautsu sent Lu Kia, the great literate and diplomat, to Tchao To, the self-made monarch of Nang-yue, in order to subdue him without the use of arms (for the latter's life see Gamier, ‘Voyage d'Exploration en Indo-Chine,' Paris, 1873, torn. i. p. 469). The eloquent Lu Kia completely brought over Tchao To, so that the latter presented the former on his farewell with a bag containing valuables worth a thousand pieces of gold, to which he added another thousand for viaticum.

   After the Emperor Hiao-hui succeeded his father Hau-tsu (B.C. 194), the Dowager-Empress Lu was hankering to make kings of her own kindred, quite contrary to the will of her deceased husband. Well knowing his incompetence to stop this, Lu Kia pretended to be unwell, and retired to Hao-chi, there to live by keeping excellent farms.

   " As he had five sons," the narrative continues, " he took out of the bag the valuables Tchao-To had given him, and sold them for one thousand pieces of gold. These he divided amongst his sons, telling each to thrive with the fund of two hundred pieces. Lu Kia procured for himself a comfortable carriage drawn by four horses, ten attendants, all skilful in music and dancing, and a sword which cost him one hundred gold pieces. Then he spoke to his sons thus: ‘Now I covenant with you that whenever I come to any one of you, you shall supply me. my attendants, and my horses, with enough of food and drink, and I will go off after enjoying them for ten consecutive days. Should I happen to die in the house of any one of you, my sword, my carriage with horses, and my attendants, will all fall into his possession. But I will not visit any one of you more than twice or thrice a year, because to call on you more frequently would make you entertain me with less will, whilst a prolonged stay in one and the same house would inevitably be followed by your getting tired of me.' ……He died after enjoying longevity."

        KUMAGUSU MlNAKATA.

  Tanabe, Kii, Japan.

   *

機械翻訳でも、本文の内容と照らして十二分に理解出来る。

『「ボツカチオ」の「デカメロン」、第七日第九譚』多量の伏字があるが、国立国会図書館デジタルコレクションの河原万吉等訳「デカメロン」(昭和二(一九二七)年潮文閣刊)のここから読める。

『「クラウストン」氏此類の譚を集めしに、歐州に十二世紀より前に之を記せし者無し、(W. A. Clouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1887, vol.ii, p.444 Seqq.; A. C. Lee, ’The Decameron, its Sources and Analogues,’ 1909, p.231 Seqq.)』イギリスの民俗学者ウィリアム・アレキサンダー・クラウストン(William Alexander Clouston 一八四三年~一八九六年)。Internet archive」のこちらから原本当該部が読める。

「韓非子(西曆紀元前三世紀の作)卷十に、是に似たる話有るを見出せり、云く……」自然流で訓読を試みる。

   *

 荆王が愛する所の妾(せう)に、鄭袖(ていしう)なる者、有り。荆王、新たに美女を得たり。鄭袖、因りて之れに敎へて曰はく、

「王、甚だ人の口を掩(おほ)ふを口喜ぶなり。爲(も)し、王に近づかば、必ず、口を掩へ。」

と。

 美女、入りて見(まみ)え、王に近づくに、因りて、口を掩ふ。王、其の故を問ふ。鄭袖、曰はく、

「此れ、固(もと)より言へらく、王の臭(くさ)き惡(にく)む。」

と。王、鄭袖と美女と三人(みたり)坐ずるに及び、袖、因りて、先づ、御者(ぎよしや)[やぶちゃん注:侍従。]を誡(いまし)めて曰はく、

「王、適(たまた)ま言(げん)有らば、必ず亟(すみや)かに王が言に聽從せよ。」

と。美女、前(すす)みて王に近づくに、甚だ、數(しばし)ば、口を掩ふ。

 王、勃然として怒りて曰はく、

「之れ、劓(はなぎ)るべし。」

と。

 御(ぎよ)、因りて刀を揄(ひきぬ)きて、美人を劓る。

Notes and Queries, Dec.24, 1904, p. 505 に揭げし」「Internet archive」の原本のここの右ページ末から次のページで当該部が読める。

『「リー」氏評して、是れ此類の諸譚中最も古き者たり、古話の學する者、一齊に南方氏の發見を感謝すべしと言れたるは、不慮の過賞予慙汗三斗たらざるを得んや(A. C. Lee, “The Envied Favorite,” N. & Q., Jan. 28, 1905, pp.71-73 を見よ)』「リー氏」とは「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)」で「A. C. Lee, ‘The Decameron its Sources and Analogues, 1909, p.139」(「デカメロンの原拠と類譚」か。著者がアルフレッド・コーリングウッド・リー(Alfred Collingwood Lee)であることしか判らない(生没年も検索で出てこない))と引いた人物。「Internet archive」の原本のここから。確かに冒頭で、

   *

   ALL students of folk-lore will be grateful to MR. KUMAGUSU MINAKATA for furnishing what is apparently the earliest version of the incident which may be termed ' The Foul Breath ' occurring in the above well-known story. The following references to various Eastern and Western sources I give from a collection of notes made for a work on the subject of the origin and diffusion of the tales in Boccaccio's ' Decameron,' which I hope may some day see the light, and which may perhaps be useful to the readers of ‘N. &Q.’

   *

と賛辞を掲げてある。]

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