明恵上人夢記 85
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一、同二月十四日の夜、夢に云はく、一つの池を構(かま)ふ。僅かに、二、三段許りにして、水、少なくして乏(とぼ)し。雨、忽ちに降りて、水、溢(あふ)る。其の水は淸く澄めり。其の傍(かたはら)に、又、大きなる池、有り。古き河の如し。此の小さき池に、水、滿つる時、大きなる池を隔(へだ)つる事、一尺許りなり。『今少し、雨下(ふ)らば、大きなる池と通(かよ)ふべし。通ひ已(をは)りて、魚・龜等、皆、小さき池に通ふべし。』と思ふ。卽ち、心に『二月十五日也。』と思ふ。『今夜の月、此の池に浮かびて、定めて、面白かるべし。』と思ふ。
案じて云はく、小さき池は此(これ)、禪觀也。
大きなる池は諸佛菩薩所證の根本三昧也。魚等
は諸(もろもろ)の聖者(しやうじや)也。
一々に深き義なり。之を思ふに、水少なきは
修(しゆ)せざる時也。溢るゝは修する時也。
今少し、信ぜば、諸佛菩薩、通ふべき也。當時、
小さき池に魚無きは初心也と云々。
[やぶちゃん注:何年かは不詳。「84」夢の私の注の冒頭を参照されたい。後半部は明恵自身による卓抜した夢解釈である。
「二月十五日」釈迦の入滅、即ち、釈迦が如来と成った日。この夢が二月十四日の夢であることに注意。
「二、三段許り」地面から少しばかり掘られた浅い池であることを言う。
「禪觀」「坐禪觀法」の略。心を一つの対象にのみ集中し、正しい智慧により、真理を洞察すること。
「所證」修行によって得られた悟りの内容。
「根本三昧」(こんぽんざんまい)仏教の真理のみを心に集中して、一切、動揺しない状態。雑念を完全に去って、それに没入することによって、正しく捉えること。]
□やぶちゃん現代語訳
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同じ二月十四日の夜、こんな夢を見た――
一つの池がそこに造られてある。
僅かに、二、三段ばかりの浅い池で、水も少なくて、如何にも乏(とぼ)しい。
ところが、雨が俄かに降りきたって、水が溢(あふ)れた。
その水は、とても清くして澄んでいた。
ふと、見ると、その傍らに、また、大きな池が出現していた。
あたかも、それは古くからあった河のようにも見えた。
先の、その小さな池に、雨で水が滿ちた、その時、大きなその池とは、隔てること、僅かに一尺ばかりなのであった。
夢の中の私は、思うた。
『今、少し、雨が降ったならば、この小さな池は、あの大きな池と通うに違いない。通い終ったならば、魚(さかな)や亀など、皆、小さい池の方にも通うに違いない。』
と。
その時、夢の中の私は、即座に、心に、
『それは明日――二月十五日――のことである。』
と思うた。
『今宵の月が、この小さな池に浮かんで、それはそれは、必ず、興趣に富んだ景観に違いない。』
と思うた。
[明恵注:この夢を解釈するに、「小さな池」は、これ、「禅観」を象徴するものである。「大きな池」は、諸(もろもろ)の仏・菩薩を所証するところの「根本三昧」を象徴するものである。「魚」や「亀」などは、仏教草創以来の諸の聖人たちを象徴するものである。夢の中の対象物の一つ一つが深い意義を表わしているのである。これを思うに、「水が少ない」という様態は修行が不全なる時を意味する。「水が溢れる」という様態は修行が完遂される時を意味する。今、少し、正法(しょうぼう)を信ずれば、諸の仏・菩薩が、通ってくるはずであるという意味である。されば、今、現在、「小さき池に魚がいない」という様態は、取りも直さず、私が未だ初心にして不全であることを意味するのである……]