怪談老の杖卷之二 半婢の亡靈
怪談老の杖卷之二
○半婢《はしたもの》の亡靈
官醫佐田玉川といふ人、駿河臺に居られける。其草履取(ざうりとり)に關助(くわんすけ)といふ中間(ちゆうげん)ありしが、身持惡しき好色者にて、茶の間・はしたなど、たぶらかしける。
柳(りう)といひける半婢、生れつきも奇麗にて、心だても、よきものなり。しかも、親元も相應なる百姓のむすめなりしが、田舍は自陀落なるものなれば、盛りの娘をやどに置(おき)ては、萬一、不行義なる事ありては、あしく、
「江戶の屋敷方にては、『女部屋に錠(じやうぐち)口』とて、金箱(かねばこ)同前に油斷なく、男たるものは出入する事もならぬよし。左こそ有(あり)たきものなれ。」
と、田舍の律義なる心より、少(すこし)の緣をたよりに、何の辨(わきま)へもなく、ある御旗元衆の家へ奉公させけるが、まづ、山出(やまだ)しなれば、縫針(ぬひばり)はならず、食(めし)たきはしたに住みけるが、ふと、此中間が口に乘せられて、念頃(ねんごろ)にものし、
「末は夫婦(めをと)になるべし。」
と、衣類なども、親里より、數多く持來(もちきた)りしを、一つ、二つづゝ、だましとられけるが、法度(はつと)つよき家にては、思ふ樣(やう)に出會(であ)ふ事もならねば、夫(それ)のみなげき暮しけるが、かの中間、その屋敷を暇出(いとまだ)されて、此家へありつきけるを、此女、殊の外にしたひて、あくる年の出(で)がはりより、同じ家に勤め、小身なる家なれば、人目も少く、心のまゝに逢ふ事を樂しみに、女のはかなさは、うさ・つらさもなぐさみて勤(はたらき)けるが、不作法のかず、かさなりて、懷姙(くわいにん)しけるを、
「柳(やなぎ)はら邊(あたり)の『おろし藥』にて埓明(らちあけ)ん。」
と、關助、調へ來りて、むりにすゝめ、あたへけるが、「運のきはめ」とて、事をあやまちて、くるしみ、殊の外の大病となりける。
主人も、
「心だて、よきものなれば。」
と憐みて、養生も致吳(いたしくれ)られけれど、
「十(とを)が九つ、助かるべき樣子ならねば。」
迚、やどへ下げられ、十日計(ばかり)も、晝夜、くるしみて、相はてぬ、屋敷のうちのものは、その始末を知りけれど、田舍の親は夢にもしらず、たゞ一通りの病氣とおもひ、むすめも深くかくして、命をはりけんさま、いたましき事なり。
夫(それ)より、關助が部屋へ、每夜、每夜、かの女の亡靈、來りて、
「關助殿、々々々。」
と、枕元によりて、おどろかし、
「こなたゆゑに、非業の死をとげたり。そのときの苦しみを知らせば、いか計(ばかり)の苦痛とか思ふ。」
など、かきくどきける事、每夜なり。
のちには、關助、うるさくなりて、草鞋(わらぢ)をつくるよこ槌(づち)などにて打たゝきなどしければ、傍輩の中間ども、あやしみて、いろいろ尋ける程に、有のまゝに語りければ、後には、ほうばひも、きみをわるがり、一ツ部屋にもおかず、關助ひとりさし置ければ、夜一夜(よひとよ)、よこ槌にて、部屋の内を、たゝき廻りけるが、すこやかものにて、奉公をも引かず、勤めけれど、次第に疲(つかれ)おとろへける。
用人(ようにん)何某といふ人、不便(ふびん)におもひて、關助を招き、
「その方、每夜、死靈のために苦(くるし)むと聞けり。是、決して死靈にあらず。その方が心の内に、『彼が事を、むごき目をみせたり。もし、死靈にも成(なり)やせん』と、疑ひ思ふ念慮、凝(こ)りて、形の目に見ゆるなり。」
とて、その頃、駒込に禪僧の悟りたる人、幸ひ、主人、歸依にて、折ふし、やしきへ來られけるをたのみて、さまざま、云ひきかせ、碁石など、つゝみて、かの亡靈に、
「是は、何ぞ。」
など、尋させければ、
「碁石なり。」
といふを、また、此度(このたび)は、かずをあてさせ、終りには、白石・黑石、かずをかへして、關助にあたへ、尋させけるに、亡靈、それは返答せざりける故、
「是、汝がしりたる事は、死靈も知り、汝が知らぬことは死靈も知らず。是を以てしるべし。元來、その方が心想中(しんさうちゆう)に靈は、あり。外よりは、來らず。」
など、いろいろ、さとされけれど、もとより、文盲なる中間風情(ふぜい)、さる理(ことわ)り、合點(がてん)すべき樣(やう)なく、每夜、來る事、始(はじめ)のごとくなり。
用人、ある時、關助をよびて、
「亡靈、今に來るよし、いか樣(やう)なる樣子ぞ。」
と問はれければ、
「とかく、外よりはいりて、枕元に立(たつ)より、つめたき顏にて、私のかほを、こすり、手など、とらへ、いろいろに、恨みを申す。」
と、いひければ、
「扨は。狐狸などの業(しわざ)なるべし、今宵、もし、來らば、つれ來れ。」
と、いはれければ、
「ずいぶん、つれて參るべし。」
と約束しけり、
扨、其夜、九ツ時[やぶちゃん注:午前零時。]に來りて、部屋の戶をたゝきける。
「誰(た)ぞ。」
と問へば、
「關助にて候。幽靈を、つれだち、參りたり。御出合下されよ。」
といふ。
用人の妻女などは、こはがりて、
「かならず、そとへは御無用なり。」
と、とゞめけれど、用人のいはく、
「よもや、つれ來るべしとは、思ひよらず。『來(きた)れ』と、いひしが、今、出(いで)あはぬは、いかにしても。かれがおもはん所も、よろしからず。」
と、帶、しめなをし[やぶちゃん注:ママ。]、腰の物をさして、
「かならず。はなすな。しつかりと、とらへておるべし。」
と、内より、聲、かけければ、
「御氣づかひ被ㇾ成(なされ)まじ。ずいぶん、しつかりと、とらへ居(をり)候。」
と、いふゆゑ、戶をあけて、出(いで)、見(み)けるに、たゞ、關助、壱人(ひとり)、門に立てり。
「どれ。幽靈は、いづ方にいるぞ。」
と、いひければ、
「今まで、しつかりと、とらへおり候が、いづ方へまいりしや、おり申さず。」[やぶちゃん注:仮名遣い誤り三ヶ所は総てママ。]
と、いふにぞ、大(おほい)に呵(しか)りて、歸しぬ。
そののち、いろいろ、したりけれど、來(きた)る事、やまず。
次第に、やせ衰へければ、暇を出されたり。
其のちは、餘りに苦しがりて、
「江戶に居ては、いつ迄も來(きた)るべし。」
とて、大坂の御番衆に、つきて、のぼりけるが、幽靈の事なれば、いづ方へ行たりとて、いかで、あとを慕はざるべき、東海道のとまり、とまり、大坂の御城内までも、つきあるきて、終(つひ)に大坂にて、是を氣やみに、終りけり、と聞けり。
かの用人、直(ぢき)のもの語り也。
[やぶちゃん注:「官醫佐田玉川」実在する。香取俊光氏の論文「江戸幕府の医療制度に関する史料(八) ―鍼科医員佐田・増田・山崎家『官医家譜』など―」(PDF・『日本医史学雑誌』一九九六年十二月発行)の冒頭に、江戸幕府の鍼医の家系として「佐田分家」を挙げられ、その系図の初代『(某)』に『(新助 玉緑 佐田玉川貞重が長男)』(下線太字は私が附した)として、『(針術をもって尾張大納言光友卿に仕ふ)』とし(出自も伊勢国司教具の子定具の四代の孫と示す)、初代を佐田定之(さだゆき)とし、この『定之が終わり光友の侍医から幕府の鍼医という経緯で登用され、子孫は明治まで鍼科医員を勤めた』とある。定之が徳川家綱に初見は延宝七(一六七九)年で、幕府医官となったのは元禄五(一六九二)年である。本書は宝暦四(一七五四)年作であるから、この定之(元禄十年没)の少し古い話か、或いはそれを嗣いだ養子佐田道故(みちふる 宝暦六年没)と考えられる。リアリズム怪談として初めから堅固に作ってある。すこぶる頼もしい。
「駿河臺」現在の東京都千代田区神田駿河台(グーグル・マップ・データ)。江戸城の東北で「お茶の水」駅周辺。
「茶の間」「茶の間女」。武家で、主に家族が食事や団欒などをする茶の間の雑用を担当した下女。
「はした」「端女」。広く召使いの女。
「自陀落」「自堕落」。
「かの中間、その屋敷を暇出(いとまだ)されて、此家へありつきけるを、此女、殊の外にしたひて、あくる年の出(で)がはりより、同じ家に勤め、小身なる家なれば、人目も少く、心のまゝに逢ふ事を樂しみに、女のはかなさは、うさ・つらさもなぐさみて勤(はたらき)ける」折角のリアリズムだったが、医官の家では屋敷内の風紀が厳しく、話が展開し難いと考えたものか、勤め先を小身の武家の家に二人とも転出させている。やや唐突であり、かえって不自然な感じは拭えず、現実感が殺がれるのは瑕疵と言わざるを得ない。
「柳はら」柳原土手。現在の東京都千代田区北東部の神田川南岸の万世橋から浅草橋に至る地域。江戸時代は古着屋が並んでいた。この中央東西(グーグル・マップ・データ)。現在、右岸に「柳原通り」の名が残る。
「おろし藥」怪しげな違法な堕胎薬。
「やどへ下げられ」この場合は、勤め替えに関わった斡旋業者が「蛸部屋」として借りている長屋であろう。最初に佐田玉川の家へ彼女を斡旋した人物のところも考えたが、それでは、親元に知らせが行かないのがおかしくなる。
「命をはりけんさま」「命を張りけん樣」。これ、哀れさ、いや、増す言辞である。
「用人」その小身の武家の用人。用人とは、家臣中の有能者を選び、これに任じて、財政・庶務万端を取り扱わせた職。
「駒込」嘗ての豊島郡駒込村は文京区本駒込・千駄木などを含んだ広域であった。「今昔マップ」のこの辺り。
「白石・黑石、かずをかへして、關助にあたへ、尋させけるに、亡靈、それは返答せざりける故」ここではその禅僧があらかじめ白黒の碁石の数を変えたものを紙に包み、緘封して、関助には開き見ることを禁じさせたのである。
「是、汝がしりたる事は、死靈も知り、汝が知らぬことは死靈も知らず。是を以てしるべし。元來、その方が心想中(しんさうちゆう)に靈はあり。外よりは、來らず」お見事! 座布団二枚!
「ずいぶん」「隨分」。出来る限りのことをして。
「いかにしても。」「如何にしても出でざるべからず」の略として、句点を打った。
「大坂の御番衆」各藩や旗本に割り当てられた大坂城の交替警備勤番衆のこと。
「幽靈の事なれば、いづ方へ行たりとて、いかで、あとを慕はざるべき、東海道のとまり、とまり、大坂の御城内までも、つきあるきて、終(つひ)に大坂にて、是を氣やみに、終りけり」これ、惜しい! 道中逐一、最後の大坂城内までを一大ロケーションを敢行して、「怪談東海道中膝栗毛」式にすれば、もっと面白くなったろうに!
「かの用人、直(ぢき)のもの語り也」又聞きの噂話ではないというダメ押しのリアリズムである。しかし、やはり、奉公替えをしていて、無名化してしまっているのが残念である。]