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2021/02/21

譚海 卷之三 惺窩先生

惺窩先生

○惺窩(せいか)先生は下冷泉家の嫡流也。亂世に生れて世中を倦(うま)れければ、隱者に成(なり)て世を送られ、甥の爲景(ためかげ)朝臣に家をば讓り傳られたり。性質文學を好み、京洛の間に遊れしゆゑ、其門に參じて業をうけたる人おほし。那波道圓(なばだうゑん)・林道春など、皆先生の門人にて名を顯したる人々也。殊に道春は國初草創の時に用られて、國家の制度をも上意をうけて走られけるゆゑ、終(つひ)に家を興し時の儒宗(じゆそう)と仰がれける事も、皆惺窩の餘德の及ぶ所也といへり。惺窩先生は名を肅(しゆく)と稱し、字を斂夫(れんぷ)といはれたり。大かた儒者の字(あざな)つくる事も昔よりなかりし事なりしに、此後みな字を稱する事に成たり。先生常に嵯峨の大井河に遊て勝景を愛し、其山水の地名をも風流に改め名付られたり、叫猿峽・群書巖・石門關・烏舶灘(うはくたん)・觀瀾石・浪花瀧などといふ所、皆鳴瀧(なるたき)の川上に有。先生の和歌は萬葉の古風を好(このみ)て詠ぜられたり、當時萬葉の風を好み詠ずる者多(おほき)も、惺窩その俑を作たりと云べし。木下長嘯子(ちやうしやうし)など常に和歌の友にて往來の贈答おぼし。先生の居所をば夕顏庵と號せられしが、後に此號を道春に屬せられたり。

[やぶちゃん注:「惺窩先生」藤原惺窩(永禄四(一五六一)年~元和五(一六一九)年)は江戸初期の儒者で近世儒学の祖とされる。播磨生まれで、藤原定家第十二世の子孫で、冷泉為純(ためずみ)の子であったが、庶子であったため、下冷泉本家を継がず、幼時に出家し、京都相国寺で修行し、五山や博士家の儒学を学び、徳川家康にも進講したが、出仕しなかった。文禄五・慶長元(一五九六)年には明に渡航を試みて薩摩まで行ったものの、失敗し、後の「文禄・慶長の役」の捕虜であった朝鮮の朱子学者姜沆(きょうこう)と交わって学問を深めた。その後、還俗して儒者となった。門下として林羅山ら多数の学者を出した。惺窩の学風は単に朱子学(宋学)というよりも、陸・王(南宋の儒学者陸象山(りくしょうざん)と明代の儒学者王陽明)の学も排せず、老荘・仏教をも採り入れた包容力ある学風で、寧ろ、明の心学の流れの上にあったとされる。著書に「惺窩文集」・「寸鉄録」など。

「爲景」惺窩の長男冷泉為景(慶長一七(一六一二)年~慶安五(一六五二)年)。下冷泉家第八代当主。惺窩は弟の為将に下冷泉家を継がせたが、正保四(一六四七)年、為将が死去し、勅命により、下冷泉家を相続した。父の影響もあり、幼い頃より、歌を能くしたという。後光明天皇の侍講として活躍し、松永貞徳ら当時の一流の文人達とも交流があった。水戸藩第二代藩主徳川光圀とも交流を持ち、慶安四(一六五一)年の朝廷使節団の江戸下向の折りに対面を果たしている。しかし、結核のため、辞世の句も読めぬまま、享年四十一で亡くなった。

「那波道圓」儒学者活那波所(なばかっしょ 文禄四(一五九五)年~正保五(一六四八)年)の字(あざな)。名は信吉・方など。通称は平八。播磨生まれ。初め、熊本藩の俸禄を受けたが、後、紀州藩主徳川頼宣に仕えて思想的ブレーンとなった。惺窩の高弟で、林羅山らとともに「藤門四天王」と称された。活所の儒学思想は朱子学から次第に陽明学に接近し、法と諫言を重視した。著書に「人君明暗図説」・「活所備忘録」など。

「林道春」幕府儒官林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)の法号。京都出身。名は忠・信勝。朱子学を惺窩に学び、徳川家康から家綱まで四代の将軍に侍講として仕えた。上野忍岡の家塾は、後の昌平坂学問所の元となった。

「浪花瀧」音読みで「らうくはらう(ろうかろう)」と読んでおく。

「鳴瀧」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「俑を作たり」この場合、「悪しき例の最初を作った」の意となる。ここで突然、批判するのはちょっと不審だが、津村は「万葉集」嫌いだったものか?

「木下長嘯子」(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年は織豊時代から江戸前期の大名で歌人。木下家定の長男で、豊臣秀吉に仕え、文禄三(一五九四)年に若狭小浜城主、慶長一三(一六〇八)年に備中足守(あしもり)藩主となったが、翌年、徳川家康の怒りに触れ、所領没収となり、京都東山に隠棲した。和歌を細川幽斎に学び、清新にして自由な歌風で知られた。歌集に「挙白集」がある。

「夕顏庵」羅山の号の一つにあり、彼の庵名にも用いている。しかし、これは羅山の江戸の邸宅に夕顔の花があったことによるもので、惺窩のそれを貰ったという記事はない。]

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