譚海 卷之四 信州須坂勝善寺の事
信州須坂勝善寺の事
○信州にもすざりの勝善寺(しやうぜんじ)とて、一向宗のある所一村みな他宗なし。此村の風俗は女子一度(ひとたび)嫁すれば再嫁する事成がたきならはしにて、能き掟なり。
[やぶちゃん注:「勝善寺」長野県須坂(すざか)市須坂にある真宗大谷派柳島山勝善寺(グーグル・マップ・データ)。通称「中俣勝善寺」。当該ウィキによれば、『開基は信濃源氏井上氏の井上頼重で、建久』四(一一九三)年に『比叡山で出家し、釈明空と名乗り、正治元』(一一九九)年、『信濃国水内郡中俣に勝善寺を創建した。その後、下総国磯部に移り、親鸞の弟子となり、再び信濃に戻り、当寺と普願寺(須坂市)、西厳寺、光蓮寺(長野市)、願生寺(新潟県妙高市)、本誓寺(同上越市)からなる』「磯部六か寺」『を形成した』。第九『世法印、権大僧都顕順は石山合戦で戦死し、門主により、水内郡浄興寺の鳥羽伝内』(第十世教了)『が跡目を相続した。本願寺が東西に分裂すると、伝内は東本願寺に随身し、東本願寺派全国寺院の』八『か寺に数えられ、巡讃の寺として、歴代の住職は本山に長期滞在した』。慶長三(一五九八)年の『海津城主・田丸直昌の時代に高井郡八町村に移った。江戸時代には須坂藩の庇護を受け、勝善寺文書の中に、堀直政や初代藩主堀直重から』『教了に充てられた書状が残る』。元和九(一六二三)年、第二代『藩主堀直升に迎えられ』、『現在地に遷移した』とある。この「すざり」は「すざか」の誤記・誤植かと思われる。
「一向宗」は現行では浄土真宗と同義に使用されることが多いが、狭義には、鎌倉時代の僧侶一向俊聖を祖とする浄土真宗の中の一宗派で、一向宗は自らを「一向衆」と称した。葬儀関連サイト「よりそうお葬式」のこちらによれば、一向宗は、『弥陀如来以外の仏を信仰する人々や神社に参詣する人などを排斥していきました。一応は踊り念仏を行事としますが、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出すことはなかったようです』。『一向宗の開祖は一向俊聖と言って良いでしょう。一向は現在の福岡県久留米市の草野永泰の第』二『子として生まれました』。寛元三(一二四五)年に『播磨国書写山圓教寺に入寺して天台教学を修め』、建長五(一二五三)年には『剃髪受戒して名を俊聖とします。しかし、翌年の夏には書写山を下り』、『南都興福寺などで修行しますが、悟りを得られませんでした』。『その後、鎌倉蓮華寺の然阿良忠の門弟となり』、文永一〇(一二七三)年から『各地を遊行回国します。そこで踊り念仏や天道念仏』(てんどうねんぶつ:念仏踊りの一種。天道とは太陽のことで、その名の通り、太陽を拝み、五穀豊穣を祈念する念仏踊りで、関東一円から福島県にかけての各地に分布している。福島県白河市関辺(せきべ)の八幡神社で旧六月一日に行われる天道念仏は、俗に「さんじもさ踊り」とよばれるが、「天祭り」「稲祭り」「いなご追い」「除蝗祭(じょこうさい)」とも呼ばれ、浴衣がけの男子が舞い庭の中央に組まれたお棚を回って踊る。同県郡山市内にも「てんとう念仏」の名で分布している。千葉県印西(いんざい)市武西(むざい)では「称念仏踊」と呼ばれ、二月十五日に行われるが、「江戸名所図会」に記されているように、船橋市を始め、習志野市・柏市などでも嘗ては盛んであった。他に茨城県新治(にいはり)郡や群馬県高崎市などに伝承する。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)『を修して道場を設け、近江国番場宿の蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えました』。『以後、この寺を本山として東北や関東、近江などに一向の法流を伝える寺院が分布し、教団を形成するようになりました』。『親鸞の教えを浄土真宗と言いますが、一向宗とも呼ぶこともあるようです。もともと親鸞が一向宗と言っていたのではなく、親鸞が「阿弥陀仏一仏に向け」と教えていたため、世間の人が「あれは一向宗ではないか」と勝手に呼ばれていったと伝えられています。しかも、親鸞の教えに「一向専念無量寿仏」というものがあることから、わざわざ一向宗と呼ばれていることに対して否定はしませんでした』とある。
「一向宗のある所一村みな他宗なし」少なくとも、現在の須坂地区には浄土宗・曹洞宗の寺院を確認出来た。
「此村の風俗は女子一度嫁すれば再嫁する事成がたきならはしにて」無論、このようなことは現在は確認出来ない。]
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