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2021/02/08

只野真葛 むかしばなし (7)

 

○母樣、御產は八度なり。はじめの出生は、よわく、七夜前になくなり、其後はワはじめ、皆、人となりしなり。兄弟の内、身體丈夫なるはワが一ばん、はつめいなる事は長庵におよぶ人、無(なし)。

 父樣、周防樣の女隱居樣にひさしき御出入(おでいり)にて有しが、木挽町御屋敷故、居宅はちかし。折ふし、初午(はつうま)なりしを、御隱居被辿ㇾ仰(おほせらるる)は、

「そこの子達、初午、見ながら、こされよ。」

と被ㇾ仰し故、其よし、父樣、被ㇾ仰て、

「長庵、お遊、のちがた、上(あげ)よ。」

と被仰付し故、二人の子共に、守女(もりをんな)兩人、男・女、付(つけ)て、つかはせしに、うすうす御ぞんじにや、飼殺しのばゞに、「さわ」といひしもの有しが、眞(まこと)のいなか人、いくとしを經ても、江戶氣(えどけ)うつらず、りちぎ一ペんの取得(とりえ)にて、夜中、めざとく、人がねしづまりて、一ペん、家内の火の元をみとゞけねば、寢(いね)ず。せいさなく、腹(はら)、立(たて)やすく、周防樣の御門(ごもん)へ行(ゆく)といなや、ゆかりもなく、

「仙臺屋敷から參りました。」

とて、通りしとなり。

 たいこの音をきいて、すぐに稻荷の立(たち)たる所へ行ても、

「是(これ)、子共衆、仙臺屋敷から、きました。此子たちに、ちと、太鼓うたせて被ㇾ下。」と、いひしとなり。

 周防樣の子供、中々、うけつけず、

「何、仙臺やしきのがきめらだ。」

とか、

「何しにうせた。」

などゝ、わる口して、以(もつて)の外(ほか)のやうすなり。

 さわ、大きに、はらだち、すぐに、つれてかへりたり。

 上(うへ)にては、

「周庵子共、上(あが)るや。」

と、御心まち被ㇾ成しに、あがらねば、のち、御さた有しとなり。

 さわは、家に入るやいなや、

「なぜ、あのやうな所へつかはされました。『仙臺やしきの、がきめらが、きたきた』とて、子共衆がわらひものにしました。」

とて、眞黑になりて、腹立(はらたて)し、となり。

 母樣にも、何の故といふことも御ぞんじなし。

 長庵、七ツばかりの頃なりしが、さわが退(しりぞ)きし跡にて申(まうす)やう、

「さわは、あのやうに腹をたちますが、あちらの子共の咎(とが)では、ござりません。はじめ、御門を入(いる)時から、『仙臺やしき』からといひました。木挽町の御手前、やしきと隣(となり)故、たしかに、子共が、ふだん、凧(たこ)の喧嘩のしませう、そこへ、いつて『仙臺やしきからきた』と申(まうし)たから、隣の子共とまちがへて、わる口致したものでござりませう。周庵方よりと申(まうし)たら、誰(たれ)もわるくは申(まうし)ますまい。」

と、いひし。

「心中のあきらかなること、小兒の了簡ならず。」

と、殊外(ことのほか)、御二方、御かんじ被ㇾ遊(あそばされ)しをおぼえたり。

[やぶちゃん注:「母樣、御產は八度なり。はじめの出生は、よわく、七夜前になくなり、其後はワはじめ、皆、人となりしなり。兄弟の内、身體丈夫なるはワが一ばん、はつめいなる事は長庵におよぶ人、無」最初の子は「お七夜」(子供が生まれてから七日目の夜にその日までに考えておいた名前を子供に命名し、家族・嫁の実家・親類・知人を招いて祝い膳を囲んだが、これは父方の祖父が主催して行うものであった)前に亡くなっているために、名がない。工藤周庵平助と遊の子を総て示すと、

   *

長女「あや子」。工藤家内での通ニック・ネームであった七草名は「葛」。

長男「長庵元保」。幼名は安太郎。「藤袴」。あや子より二歳下。二十二歳で早逝した。

次女「しず子」。「朝顔」。雨森家に嫁した。

三女「つね子」。「女郎花(おみなへし)」。加瀬家に嫁した。

次男「源四郎鞏卿」(きょうけい)。幼名は四郎・元輔・「尾花」。あや子より十一歳下。工藤家後継ぎとして期待されたが、既に述べた通り。文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで急死した。

四女「拷子」(たえこ)。瑞照院(これはウィキの「只野真葛」の記載。「日本庶民生活史料集成」の注で中山氏は『瑞性院』とする)。「萩」。婚せずに文化九(一八一二)年に剃髪して「萩尼」と号した。

五女「照子」。「撫子」。中目家に嫁した。あや子の二十三歳下。

   *

である。

「周防樣の女隱居樣」「木挽町御屋敷」から江戸切絵図で確認したところ、「松平周防守」があるのだが、ここ(現在の「国立がんセンター」附近)は江戸後期に棚倉藩(たなぐらはん:陸奥国(磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを領し、藩庁は白河郡棚倉城に置かれた。現在の福島県東白川郡棚倉町)上屋敷となる。ただ、ここで言う「松平周防守」のが誰なのか、同藩上屋敷となるのは、ずっと後年である。この木挽町の「松平周防守」に時代的に合うのは、岩見浜田藩藩主で周防守であった松平康定(延享四(一七四八)年~文化四(一八〇七)年)であろうか。彼の養子松平康任(やすとう)は密貿易(竹島事件)によって強制隠居・永蟄居処分となった後を継いだ松平康爵(やすたか)にも父のせいで懲罰的移封が天保七(一八三六)年に行われて陸奥棚倉へ移ったのである。因みにこの二人も「松平周防守」である。さてそうすると、この「周防樣の女隱居樣」というのは、康定の正室で、浜田藩主であった松平康福(やすよし)の娘(名前不詳・生没年未詳)が候補となろう。

「初午」旧暦二月に最初に来る「午の日」。稲荷社の本社である伏見稲荷神社の穀物神である宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)が伊奈利山へ降りた日が、和銅四(七一一)年二月の初午の日であったと伝えることに拠る。全国の稲荷神社でこの日に「初午祭」が行われ、お参りをして五穀豊穣を祈る。稲荷神社の「稲荷」は「稲生り」に由来するとされる。

「長庵、お遊、のちがた、上(あげ)よ」不審は「お遊」である。「日本庶民生活史料集成」も「仙台叢書」も同じなのだが、全く解せない。この「お遊」は、私は真葛が自称で「あや」と書くべきところを、母の思い出を綴っているためにうっかり誤ったのではないかと思うのである。以下、「二人の子共」と言っていること、「木挽町御屋敷」へ行った描写に臨場感があることなどから、私は長男で真葛(あや子)の弟である長男長庵と、話者である彼女が、一緒に行ったのだと考えるのが、自然だと思うからである。「のちがた」は「後方」で、「あとで」の意、「あげよ」は御隠居さまのところへ向かわせることを謙譲表現したものととる。或いは、「お」は「ワ」と書いたものを馬琴が読み違えたともとれる。本書では冒頭で真葛が自分のことを言う場合には「ワ」とすると述べていた。直接話法でも、それを自分の名を書くのの転用として用いたとするなら(そうする可能性は高いように私は思う)、「長庵ワ遊のちがた上よ」で「長庵とあや子を、遊び終わった後で、御隠居さまのところへ参らせよ。」と父が言ったともとれる。ともかくも、原本を見てみたくてしょうがない。

「うすうす御ぞんじにや」平助四女の拷子「萩」への語りかけ。「記憶の中にうっすらとあるのではありませんか? 「さわ」というひどく年老いた下女がいたことを。」の意でとった。

「飼殺しのばゞ」この場合は悪意はそれほど強くない言い方で、「役に立たなくなった家畜を死ぬまで飼っておくこと」を転じたものであろう。

「せいさなく」意味不明。「精査」で、怒る前に、その内容を「詳しく調べることをせずに」の意か。

「ゆかりもなく」自分は縁もないくせに。狭義には間違って正当な表現でないことを言う。仙台藩上屋敷は前に少し述べたが、父平助方の祖父で同じく江戸詰藩医であった工藤丈庵は宝暦元(一七五一)年の主君伊達吉村逝去の際に願い出て、藩邸外に屋敷を構えることを許され、伝馬町に借地して二間間口の広い玄関をもつ家を建てていた。父平助も、また、遊と結婚後に、築地に邸宅を構えていた。仙台藩上屋敷は現在の東京都港区東新橋一丁目(グーグル・マップ・データ)にあった。仮に最も近い現在の築地地区に居宅があったとすれば、五百メートル内外で、確かに隣りではあった。しかし「仙臺屋敷からきました」は、はっきり言ってまずい言い方とは言える。例えば、それを、たまたま門の前を通り過ぎた仙台藩士が聴いたら、咎めるに決まっている。

「たいこの音をきいて、すぐに稻荷の立(たち)たる所へ行ても」この日は初午祭であるから、江戸中の稲荷社で太鼓が打たれていたのである。

「何、仙臺やしきのがきめらだ」「何、仙臺屋敷の餓鬼めらだ」。「何? 仙台屋敷の餓鬼どもだぁ?!」。

「のち、御さた有しとなり」後から「初午の時に来なかったが、どうされた?」とわざわざのお言葉があったという、の意。

「仙臺やしきの、がきめらが、きたきた」「仙台屋敷の御子様でも御女中でもあるまいに、『仙臺屋敷からの』餓鬼め等(ら)が、來たぞ、來たぞう!」。注する必要もないと思うかも知れぬが、原本は「仙だいやしきのがきめらがきた」に踊り字「〱」で、これ、そうさらりとは読めないからである。但し、実際には、この周防守の家の子供たちが彼らをかくも嫌ったのは、その後で長庵が解き明かしているように、仙台屋敷内の或いはその近辺の子供らと、凧上げでしばしば喧嘩をし、中が非常に悪いから、かくも罵倒することが判明するのである。

「眞黑になりて」真っ赤になってのところを、色黒の婆さんであったのであろう。真葛って、けっこう、おちゃめ!

「母樣」お遊。

「何の故といふことも御ぞんじなし」何故、そんなひどい言い方がされるのか、よく判らないからである。だいたいが「仙臺屋敷の餓鬼」という呼称が意味不明で不審であったのである。

「長庵、七ツばかりの頃」彼は明和元(一七六四)年生まれであるから、この時制は「ばまり」を外すと、明和七(一七七〇)年二月十日戊午(つちのえうま)でグレゴリオ暦三月七日に限定出来る。

「木挽町の御手前」木挽町の松平周防守の屋敷の前が、広場(火除け地かも知れない)になっていたことを言っているのであろう。先の「周防守」の地図を見てもらえば、築地が隣りで仙台屋敷とも近いのがよく判るはずである。]

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