怪談登志男卷第四 十九、白晝の幽靈
十九、白晝の幽靈
ちかき頃、上州安中のかたはらに、善次といふ者あり。
享保元年の冬、暮の市に立て、
「己(おの)が身程の正月もふけに。」
とて、錢四、五百を腰にまとひ、鶴に乘(のり)て揚州(やうしう)に至る心地して、嗚呼(おこ)がましく、疾(とく)、出けるが、寒氣、忍びがたく、
「今年も、最早、暮にけり。無事なるこそ、物種(たね)なれ。」
と、
「かくと、心を勞して、年をよらせて、何かせん。身後(しんこ)の風流(ふうりう)、陌上(はくしやう)の花、生前(せうせん)一盃の酒には、しかじ。」
と、無分別、きざし、吞倒(のみたほ)れねば、腹、ふくれぬ、持病、せんかたなく、酒店(さかや)に長居して、思ふほど、吞潰(のみつぶ)れ、今は、快[やぶちゃん注:「こころよく」。]、覺え、宿[やぶちゃん注:自分の家。]に歸るベき心もなく、其日の七ツ時[やぶちゃん注:定時法では午後四時頃。不定時法では三時半過ぎ。]、松井田の、少、此方[やぶちゃん注:「すこし、こなた」。]、不動寺とかやいふ寺にまよひ行、所こそおほきに、卵塔に倒れ臥(ふし)て、日の暮るゝも知らず、寺中の僧徒も墓守迄も、何となく心せはしき大晦日なれば、かゝる者ありとも心づかで、捨置しに、手習に通ふ童ども、何となく心せはしき大晦日なれば、かゝる者ありとも心づかで、捨置しに、手習に通ふ童ども、文庫(ふんこ)仕廻(しまひ)て歸るさに見付て、はじめの程は、あやしみて詠居しが[やぶちゃん注:「ながめをりしが」。]、石を打、垣(かき)など、ゆすりて、驚かしみれども、酒の匂ひ、鼻を衝(つき)て、高鼾(たかいびき)に前後も知らぬ躰(てい)、
「よき慰(なぐさみ)なり。」
と、一同に擧(こそ)り寄て、なぶりける中に、八百屋の長太郞・たばこやの石まつ、納所部屋[やぶちゃん注:「なつしよべや」。]の剃刀(かみそり)、求め來り、善次が髮を剃(そり)落し、白紙を三角に折て、片かなの「シ」[やぶちゃん注:底本(右頁上段八行目)は「三」であるが、原本で訂した(右頁最終行の上から二字目)。「死」の意であろう。またしても底本の判読の杜撰さを思い知った。]の字を書付、額(ひたひ)に張(はり)付、麻殼(あさがら)の杖迄、側(そは)に添(そへ)て、
「どつ」
と、笑て、歸りける。
されば、見咎むる人もなく、猶、寬々(くわんくわん)と寐(ね)入程に、夜の八ツ頃[やぶちゃん注:午前二時頃。]に至り、漸(やうやう)、醉(ゑい)も覺(さめ)、咽(のとの)、乾(かはき)ければ、あたりを見るに、闇々(あんあん)として、燈(ともしひ)も、なし。
茫然として、いかなる故とも知りがたく、頭(かしら)に手をやりて見れば、
「こは、いかに。」
額(ひたひ)には、紙をあて、髮はそりこぼちて、あり。
何と、案じても、心得ず。
「我市に出て、酒吞し事は覺えしが、其後をしらず。扨は、頓死(とんし)して、冥途に至りしにや。」
と、大に驚き、
「まづ、道ある方へ、行てみん。」
と、麻殼の杖にすがりたどり行に、一つの川有。
『こゝや、聞およびし「三途(さんづ)のわたり川」なるべし、娑婆にて、我、住し所の、「琵琶(びは)の窪(くぼ)」にかはる事なし。』
と、思ふぞ、おかしけれ。
「されど、罪は淺かりけり。膝(ひざ)ぶし迄も、とゞかぬ川なり。」
と、たやすく、向に越ぬ[やぶちゃん注:「むかふにこえぬ」。]。
「人の衣をはぐ婆(ばゝ)も、おはせず。仕合なり[やぶちゃん注:「しあはせなり」。]。」
と、よろこびぬ。
向をみれば、閻魔王宮(えんまわうぐう)と覺しきあり。
肌、ふるひ、堪がたく、恐しけれど、門に立寄、さしのぞき見れば、大王、鐡札(てつさつ)を繰(くり)ひろげ、頭を傾(かたぶ)け給ふが、
『地獄も、次第に風流を好み、冠の物、堅きを和らげ、「ほうろく頭巾」。まづ、きつゐ、しやれ樣かな。』
と、おもへば、其傍(かたはら)に、筆を取、算を敷(しく)官人、皆、羽織(はおり)着(き)て、當世風の卷(まき)鬢も、あり。
これなん、倶生神(ぐせうじん)にてやあるべき。
かたへを見れば、獄卒、並居(なみい)て、猛(めう)火を燒(やく)有さま、善次、身の毛も彌立(よたち)、背を屈。[やぶちゃん注:原本(左頁四行目下から三字目)は「屈」に「かゝめ」とルビするが、私はシチュエーションから、「かがむ」で切ることとした。]
上州松井田町に隱(かくれ)なき、神津某(かうづなにがし)が濳戶(くゝりと)を覗(のそ)き入て、唯(たゝ)一筋に、地獄とのみ思居(おのひい)けるぞ、愚(おろか)なれ。
内には、亭主・手代、ならび居て、歲暮の請勘定、米商賣(しやうはい)、造(つくり)酒・味噌・醬油の帳面の仕切(しきり)等、居並び記る躰(てい)、蠟燭の光に、何とやらん、常に替れる賑(にぎはひ)なり。
走り𢌞る下男が、門の戶、明て[やぶちゃん注:「あけて」。]、出ん[やぶちゃん注:「いでん」。]としたるに、幽㚑、壱人、凄(すご)々と立たり。
肝を消して、轉び倒れ、内へ入て、
「斯(かく)。」
と告(つげ)たり。
主(あるし)をはじめ、驚入て[やぶちゃん注:「おどろきいりて」。]、火をともし、大勢、立出て見れば、日每(こと)に、此町へも來る、善次なり。
いよいよ、あきれて、
「善次。何とて、其ごとくには、出立て來るぞ。」
と尋ければ、ふるひふるひ、
「私、娑婆にて盜(ぬすみ)仕りし事も、さふらはず、御法度(はつと)のちよぼいち・長半[やぶちゃん注:ママ。「丁半」賭博。]は、扨置[やぶちゃん注:「さておき」。]、『よみがるた』さへ、手にふれず候。其外、惡事と申事、一切、覺[やぶちゃん注:「おぼえ」。]、無二御座一候。あはれ、御慈悲に、極樂へは、おごりにて候、地獄の門番に成とも、被二仰付一被ㇾ下べし。」
と眞實(しんじつ)の云分(いゝわけ)。
手代共、おかしく、
「扨は。狂氣したるならん。」
と、
「いかに。善次。汝、いまだ、ぢやう業(こう)の者ならず。娑婆へ、歸れ。」
と、いふを聞て、善次、手を合、拜禮して立さり、夜のあくる比(ころ)、安中町に立戾り、我家の窻(まど)より、覗きて、妻子を起しければ、
「きのふより、氣遣ひせしに、いかゞし給ふぞ。」
と、立出、亭主が姿を見て、大に驚き、裏口より、迯(にけ)出、常に心安き尼の所へ行て、
「かく。」
と、告ければ、近隣の人、皆々、駈(かけ)[やぶちゃん注:原本は「欠」の字で表記してある。]來りて、
「是は。いかなる姿ぞ。心をしづめ、能[やぶちゃん注:「よく」。]、前後の事を思ひ出して見給へ。まさしく、狐狸(こり)のわざなるべし。」
と、取かこみて、額(ひたひ)の紙を取捨(すて)、衣類を改(あらため)かへんとすれば、
「皆々、御不審は尤ながら、娑婆と冥途は、生(しやう)を隔(へた)つれば、恐るゝも理(ことわり)なれども、我は、ゑんま王のゆるしにて、再(ふたゝひ)、娑婆へ歸り來れば、かならず、『おそろし』と、ばし、思ひ給ひそ。」
と、まがまがしき顏色(かんしよく)、人々、氣のどくがり、
「其方、死にはせず。酒に醉倒(ゑひたをれ)しを、人のわるさに、かくの躰(てい)になりたるならん。十方(ほう)もなき醉(ゑひ)やうかな。」
と、叱りければ、漸(やうやう)、心付て、
「扨は。左樣にありしか。先、此あたまにて、正月は遠慮なもの。」
と、思ひがけず、閉籠(とぢこも)りしが、此事、世上、次第に流布(るふ)し、「晝(ひる)中の幽㚑」と仇名(あだな)立て[やぶちゃん注:「たちて」。]、
「地獄の案内、聞べし。」
など、惡口(わるくち)いふて、耳かしましく、恥かしめ通る者のみ多かりければ、此所に住がたく成り、武州忍領の在鄕(ざいこう)へ移り住て、道心者となり、近國を修行しける。
おもへば、酒が出離(しゆつり)の媒(なかた[やぶちゃん注:原本のママ。「なかだち」。])となりぬ。
[やぶちゃん注:疑似怪談だが、面白い。映像がリアルに想起出来る。
「上州安中」群馬県安中市(グーグル・マップ・データ)。
「享保元年の冬、暮の市に立て」享保元年の十二月はグレゴリオ暦では一日が既に一七一七年一月十三日で、大晦日(この年の十二月は小の月で十二月二十九日)一七一七年二月十日であった。ズレが大きいのはこの年は閏二月があったせいである。本書は寛延三(一七五〇)年板行であるから、三十三年前の設定となる。
「鶴に乘(のり)て揚州(やうしう)に至る心地」李白の名七絶「黃鶴樓送孟浩然之廣陵」(黃鶴樓にて孟浩然の廣陵へ之(ゆ)くを送る)で知られる、武漢市武昌区にかつて存在した江南三大名楼の一つである黄鶴楼(こうかくろう)の伝承に洒落掛けたもの。李白のそれ、
故人西辭黃鶴樓
煙花三月下揚州
孤帆遠影碧空盡
唯見長江天際流
故人 西のかた 黃鶴樓を辭し
煙花 三月 揚州に下る
孤帆の遠影 碧空に盡き
惟だ見る 長江の天際に流るるを
の承句を効かしつつ、先行する崔顥(さいこう)の私の好きな七律「黃鶴樓」、
昔人已乘黃鶴去
此地空餘黃鶴樓
黃鶴一去不復返
白雲千載空悠悠
晴川歷歷漢陽樹
芳草萋萋鸚鵡洲
日暮鄕關何処是
煙波江上使人愁
昔人(せきじん) 已に黃鶴に乗りて去り
此の地 空しく餘(のこ)す 黃鶴樓
黃鶴 一たび去りて 復た返らず
白雲千載 空しく悠悠
晴川(せいせん) 歷歷たり 漢陽樹
芳草(はうさう) 萋萋(せいせい)たり 鸚鵡洲(えいぶしふ)
日暮 鄕關 何(いづ)れの處か是れなる
煙波 江上 人をして愁へしむ
を想起させるもの。黄鶴楼の酒絡みの仙人伝承は、ウィキの「黄鶴楼」から引くと、『昔、辛氏という人の酒屋があった。そこにみすぼらしい身なりをした仙人がやってきて、酒を飲ませて欲しいという。辛氏は嫌な顔一つせず、ただで酒を飲ませ、それが半年くらい続いた。 ある日、道士は辛氏に向かって「酒代が溜まっているが、金がない」と言い、代わりに店の壁にみかんの皮で黄色い鶴を描き、去っていった。客が手拍子を打ち歌うと、それに合わせて壁の鶴が舞った。そのことが評判となって店が繁盛し、辛氏は巨万の富を築いた』。『その後、再び店に仙人が現れ、笛を吹くと黄色い鶴が壁を抜け出してきた。仙人はその背にまたがり、白雲に乗って飛び去った』。『辛氏はこれを記念して楼閣を築き、黄鶴楼と名付けたという』とある。私は高校時代にいたく感動し、教師になってからも、これらを皆、授業するのが大好きだった。懐かしい。
「今年も、最早、暮にけり」先に示した崔顥の「日暮 鄕關 何(いづ)れの處か是れなる」を遠くかがせている。
「身後(しんこ)」死後。伏線である。
「陌上(はくしやう)の花」畦道或いは路上に美しく咲き乱れる花。現世の儚い栄華の象徴。しかし、先の黄鶴楼といい(それは筆者の装飾としても)、安中の酒飲みの善次がかく確かに諦観の比喩に思いに至るというのは、伏線としても大いに無理があり、作話性が露呈してしまうのは少し残念だ。
「不動寺」群馬県安中市松井田町にある真言宗龍本山松井田院不動寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は千手観音であるが、通称「松井田不動尊」で知られる通り、不動堂には鎌倉初期の中央仏師の作と推定される不動尊像が有名。当該ウィキによれば、寛元元(一二四三)年に下野国国司にして「留興長老」の号を賜った慈猛上人によって開山された。戦国時代の元亀・天正年間には、武田信玄より寺領を賜り、徳川氏の治世となってからも三代将軍家光の帰依が篤かったため、栄え、往時は成就院・正法寺など脇寺九ヶ寺・末寺八ヶ寺の計十七ヶ寺を有する大寺であった。不動の像は元禄一五(一七〇二)年に奈良唐招提寺塔頭蔵松院より寄付されたものという銘があり、総高二十六センチメートルほどの小さい座像であるが、優秀精巧な技法のため、その小ささを感じさせない迫真力を持っているとある。
「所こそおほきに」前注で示した通り、非常に大きな寺院であったにも拘わらず、よりによって墓場に入り込み、ということであろう。
「文庫(ふんこ)」 習字の手本や紙筆など、手回り品を入れておく文匣(ぶんこう)。手文庫。
「納所」狭義には、禅宗寺院に於いて、金銭などの収支を扱うところや、その役を受持つ僧を指すが、広義に寺院の庶務を司るところや、その役の者をも言う。
「麻殼(あさがら)の杖」皮をはいだ麻の茎。七月の盂蘭盆の精霊祭の箸や迎え火・送り火を焚くのに用いることで知られる(童子らが持たせた意図はそうした習俗に合わせた悪ふざけであろう)。大きく長いものがあり、東北地方では茅葺屋根の下地として使用される。白くて軽いが、折れやすい。亡者の霊魂なら、杖にもしようが。
「寬々(くわんくわん)と」実にゆったりと。
「我、住し」「われ、すみし」。
「琵琶(びは)の窪(くぼ)」アンドー氏のサイト「街道歩き旅どっとコム」の「中山道歩き旅」の「15 安中宿から松井田宿へ」に、「■国道18号~松井田駅」の項に『●琵琶窪』とあり、『ここの道は明治天皇道といって、天皇行幸のときに開通した道。本来の旧道はもっと手前を左に入る道で逢坂の道といっていたが、崩れて通れないそうだ。このあたり全然人の気配のない少々ぶっそうな道であった。すぐ県道33号線に合流して松井田宿へ向かう』とあるのを見出した。その「歩行地図」で凡その位置が特定出来た。ここは先の不動寺から南東に二キロメートル圏内で、ロケーションとして全く問題がない。
「膝(ひざ)ぶし迄も、とゞかぬ川なり」現在の不動寺の墓地のグーグル・マップ・データ航空写真はこれだが、国土地理院図(中央の「卍」が不動寺)を見ると、墓地の西に小流れが確認出来る。これは不動寺西にある松井田八幡宮の裏を流れるもので、ストリート・ビュー(同航空写真のこのカーブのそれ)のこの先の凹み部分がその流れと思われ、ここなら、まさ膝頭までも届かない浅い川である可能性が強いかと思われる。
「鐡札(てつさつ)」鉄製の罪人の亡者名簿。
「ほうろく頭巾」「焙烙頭巾」。歴史的仮名遣は「はうろくづきん」が正しい。焙烙の形をした丸い頭巾。僧や老人が多く用いた。「大黒頭巾」「丸頭巾」「錣(しころ)頭巾」とも呼ぶ。グーグル画像検索「焙烙頭巾」をリンクさせておく。
「きつゐ、しやれ樣かな」という感想に余裕があって面白い。まだ、酔ってるって感じ。
「算を敷(しく)」算木(さんぎ)を床に配して計算をしているのである。
「卷(まき)鬢」(まきびん)は江戸時代の男の髪の結い方の一種。鬢の毛を下から上へかきあげ、月代(さかやき)の際(きわ)で巻き込んで結んだもの。巻上鬢。ネットの小学館「精選版日本国語大辞典」のこちらの挿絵画像を見られたい。
「倶生神(ぐせうじん)」歴史的仮名遣は「ぐじやうじん」が正しい。人が生まれた時から、その左右の肩の上にあって、その人の善悪の所行を総て記録し続けるという「同名(どうみょう)と同生(どうしょう)の二神。一説にこの二神は男・女で「同名」が男で左肩にあってその人の善行を「同生」は女神で右肩にあって悪行を記しており、その人の死後に閻魔王の前でそれらを読み上げ、断罪の資料とするという。また、別に閻魔王の横で罪人を訊問し罪状を記録する書記神ともする(私は後者で認識している)。ただ、この男女云々というのは別に閻魔庁にある備品で私の好きな人頭杖(にんずじょう:女の首と男(憤怒の鬼形で示されることもある)が同じ分担で亡者の善行・悪行を語るという)のそれに外化してもいる。
「猛(めう)火を燒(やく)有さま」単に年押し詰まって決算の期限が迫っているから、皆、必死で夜を徹して煌々と灯台を灯して仕事をやっているのを見て、大いに勘違いしたのである。映像でおどろおどそろしく面白く撮りたいところだ。
「彌立(よたち)」原本のルビは二字への当て訓。「身の毛がよだち」の意であるが、「彌」が「いよいよ」の意味をダブらせるので効果的である。
「上州松井田町に隱(かくれ)なき、神津某(かうづなにがし)」不詳。但し、調べてみると、この松井田町には、この神津姓が今も多いようである。
「濳戶(くゝりと)」「くぐりど」。門の扉などに設けたくぐって出入りする小さい戸口。切り戸。
「請勘定」「請取勘定建(うけとりかんじょうだて)」に於ける換算の確認計算か。当該ウィキによれば、『江戸時代の三貨制度のもとで行われた金銀為替相場の表示方法』。『江戸時代には関東を中心とした金貨幣本位の金遣』(きんづかい)『地域と関西を中心とした銀貨幣本位の銀遣』(ぎんづかい)『地域が併存しており、両地域間において』、『取引の決済の行う際には為替相場を必要とした。その際、当時の政治的中心地であった江戸が金遣地域に属していたことや、銀貨幣が』十『進法のみであったために換算表示が分かりやすい(金貨幣は』四『進法と』十『進法の混合)ことから、金貨』一『両を基準とし』、一『両に対する銀貨の価値を表示するようになった』。『例えば、金』一『両=銀』六十『匁が相場であった場合、江戸などの金遣地域では銀遣地域からの入金においては、金』一『両あたり銀』六十『匁を受け取ることになったために、この為替相場を「請取勘定建」と称した。もっとも、大坂などの銀遣地域からみれば、支払勘定建に相当していた』とある。
「帳面の仕切(しきり)」帳簿の最終決算。
「ちよぼいち」「樗蒲一」中国渡来の賭博 の一種。一個の骰子(さいころ)で出る目を予測し、予測が当たれば、賭け金の四倍又は五倍を得る賭博。「樗蒲」は中国古代の賭博で後漢頃から唐まで流行った。骰子ではなく平たい楕円板を五枚投げて、その裏表によって双六のように駒を進めるゲームであったらしい。「一」は骰子を一個しか使用しないことに由来する。
「よみがるた」「百人一首かるた」や「いろはかるた」或いはそれに派生して有象無象に生じた各種かるた。狂歌物や妖怪物など多種の「物尽くし」のかるたが江戸時代には甚だ流行した。ここでは賭博ではない、そうした遊びの「かるた」にさえも手を出していないと弁解しているのである。
「あはれ、御慈悲に、極樂へは、おごりにて候、地獄の門番に成とも、被二仰付一被ㇾ下べし」という懇請は、まことに吹き出しものである。しかし、それが「眞實(しんじつ)の云分(いゝわけ)」であるところ、私は善次が憎めない。
「ぢやう業(こう)」「定業」で歴史的仮名遣は「ぢやうごふ」(現代仮名遣「じょうごう」)
が正しい。厳密には「前世から定まっている善悪の業報(ごうほう)。決定業(けつじょうごう)」を指すが、ここは単にそれによって予め決められた寿命のことを指している。
「『おそろし』と、ばし、思ひ給ひそ」「ばし」は体言及び格助詞「に」「を」「と」・接続助詞「て」に付く副助詞で「~なんど」「~なんか」といった強調を表わす中世以降の口語。係助詞「は」に副助詞「し」が付いたものが、意味の強調性から濁音化し、一語化したもの。実際に軍記物などの会話文に多く見られる。
「十方(ほう)もなき」「とほうもなき」。とんでもない。
「武州忍領」「忍領」は「おしりやう(おしりょう)」。武蔵国埼玉郡に存在した忍藩(おしはん)の領地。同藩庁は忍城(現在の埼玉県行田市本丸。グーグル・マップ・データ)に置かれた。安中からは直線で南東へ五十五キロメートル附近である。善次は町人であるようで
あるから、あるいは、先に出た神津のような商人に雇われて、商売絡みでまず、そちらに伝手を得て、雇われる形となったものか。妻子が気になるが、行脚僧になるのであってみれば、それを気にする必要はない。
「酒が出離(しゆつり)の媒」(なかだち)「となりぬ」これは、やはり、私は笑えない。江戸時代の国学の興隆によって、こうした行為を笑う者は知識人ほど多かったであろうが、中世までは、出家遁世・道心堅固なそれは、真っ向から真面目に讃えられたものだからである。きっかけが馬鹿げたことであっても、それが、自身の発心に繋がればよいのである。これは今でも同じである。自己の女性差別発言を一抹もおかしいと感じていない大悪業の誰かなんぞこそ、よほど、笑い飛ばしてやるが、よかろうぞ。]
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