譚海 卷之三 京都職人精工
京都職人精工
○京都の職人は何れも精工也。西陣の織物やなど皆諸大名の着料(ちやくれう)を織出(おりいだ)す、他邦に及ぶ者非ず、諸(もろもろの)染物(そめもの)色あひ殊に勝れたり。但(ただし)黑く染(そめ)たるものはつやなくして、江戶にて染たるには劣(おとり)たり。近來(ちかごろ)は西陣にて古代の切れ古金襴(こきんらん)をはじめ、竹屋町(たけやまち)の類(たぐひ)に至るまで織出す事甚(はなはだ)妙手を得たり。時代の切れに引くらべ見るに少しもたがへる所なし。是は其時代のふるき箔を調へいだし、それにて其切を織(おる)事故、たがへる所なき道理なり。筆工(ふでこう)なども京都にて製するは殊に勝れたり。そのゆゑは筆に作る所の毛、鹿(しか)兎(うさぎ)の毛の内にても毛先よく文字をかくにこゝろよく手にまかする所は、一つのけものの皮にて多分はなし。大かた脇毛の處などよろし、それを京都にてまづよき所を拔取て、そのよの皮を江戶或は他方へ下し遣(つかは)す故、他所にてこしらふる筆は、京都の製に劣れる事ことはりなり。すべて筆に作る毛は、皮を二寸四方程宛(づつ)にたちきりて、十枚づつを一からげにして下(おろ)すもの也。針の類も京都製すぐれたり。練(ねり)をとほすめの所、別に大きくて遣ひよし、扇子も御影堂(みえいだう)名物也。火打刄(ひうちは)がねは淸水坂より製し出(いだ)すを上品とす。又鍛冶の細工も他所の鍛冶は物壹つ作り出すにも目形(めかた)の論なし、たゞひたうちにこしらへ出(いで)て、出來あがりたる上にて目形何程なりと云事なるを、京都の鍛冶は左にはあらず、たとへば藥鑵(やくわん)壹つ製するにも、大さ何ほどなれば目かたなにほどにて出來る事と、こしらへかゝらぬはじめに定め置て、扨其銅をめかたの如くはかり置て、其後(そののち)うち出す事也。是は江戶地打(えどぢうち)などといへる職人のわざにはたえてならぬ事のよし。江戶の細工はこしらへあげて後(のち)めかたをはかるゆゑ、はじめより出來次第にこしらゆるまゝ、銅もあつく出來(いでく)るゆゑ、地うちをば丈夫なりといへるはこの理(ことわり)なり。京都にて遣ふ鋼(はがね)は皆まろがせにして取あつかふなり。百目の丸・五十めの丸・二十め・十匁めとまろがせにて、目かた定まりてある事也。
[やぶちゃん注:「竹屋町」竹屋町通(たけやまちどおり)は京都市内の東西の通りの一つで、東は平安神宮西端の桜馬場通から西は千本通まで。平安京の大炊御門大路(おおいのみかどおおじ)に当たり、江戸時代には職人の町として知られた。サイト「平安京条坊図」の北から五本目の大路。
「一つのけものの皮」の毛。
「練をとほすめ」練り絹の細い糸を通す目。
「御影堂」五条大橋の西詰南の御影堂町(みえいどうちょう)にあった新善光寺御影堂で、昔、寺僧が折った扇を言う。平敦盛の未亡人が始めたと伝え、近世には俗人も製造販売に従事して名物となった。現在の「扇塚」をポイントしておく(グーグル・マップ・データ)。
「火打刄(ひうちは)がね」「火打ち金・燧鐡」。火打ち石と打ち合わせて発火させるための鋼鉄片。「火打ち鎌 (がま)」「火口金 (ほくちがね)」とも。
「目形」重量。
「江戶地打」江戸の地金(じがね)打ち(鍛冶屋)か。
「百目……」「目」(め)は「匁」「文目」と同じで、重量単位。一貫の千分の一、分(ふん)の十倍。唐の開元通宝銭一文の重さを「もんめ」と称し、中世末期以降に用いられたが、斤両制と入りまじって複雑となって変動があったが、江戸中期以降に規格が統一され、約三・七五グラムとなった。]