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2021/02/22

譚海 卷之三 袞龍の御衣 祇園祭山鉾の切

袞龍の御衣 祇園祭山鉾の切

○京都の町人、袞龍衣(こんりようい)の切れを提物(さげもの)にして所持せし人有、紺地にて十二章の内の一つを織(おり)たる所を切はなちたる也。當時大嘗會に用ゐらるゝ御衣は皆赤地の十二章なるに、紺地成(なる)はめづらしき事也。古禮を考へたるもののいへるは、昔時の章服赤地を用ゐらるるは全く唐より以後の制度也。紺地を用る事は漢制にありといへり。然れば當時唐服を用ゐらるゝ故赤地なれども、紺地なるもののかく殘りて有は、殊に久遠の物にして、漢の時のものなれば、漢の時既に本朝へ冠服を贈りたる事あるにやといへり。祇園祭禮の山鉾の旗は、皆名物の織物にして、當時には稀なるきれなり。其町々に傳へとゞめて、今もかはらず年々飾り出すはめづらしき事也。又長刀鉾(なぎなたほこ)の長刀は、小鍛冶宗近がうちたるものにて、不思議の奇特あまたたびなるゆゑ、今はおそれつゝしみて、かへ長刀を作りて祭禮に用ひ、正眞の作は深く納め置(おき)て出(いだ)す事なしといへり。

[やぶちゃん注:標題の末の「の切」はママ。思うに、これは上が「袞龍の御衣の切」とあるべきところを誤記したものかと思われ、さらに下方を「の長刀」とするつもりを混同したものとも思われる。

「袞龍衣」「袞龍の御衣」(こんりょうのぎょい)。昔、天皇が着用した中国風の礼服。上衣と裳 (も) とからなり、上衣は赤地に、日・月・星・龍・山・火・雉子などの縫い取りをした綾織物。即位式・大嘗会・朝賀などの儀式に用いた。

「十二章」古代中国及び東アジア諸国の王・皇帝の礼服である袞衣(こんい)に用いられる模様。当該ウィキによれば、『十二の模様の名は』「書経」の「益稷篇」に『見えており』、『以下からなる。前』六『者は上衣に、後』六『者は裳に用いる模様であると』される(以下、番号を外し、「・」を入れて繋げた)。『日・月・星辰(星や星座の象徴。日、星と共に「明」を意味し、世の中を照らして人に福をもたらす、という意を持つ)・山(穏健に世の中を鎮める、という意)・龍(神意、変幻の意)・華虫(五色の羽毛を持つキジの雛。美しさ故からか古代の服飾の意匠に良く用いられた。鳳凰と見る説もある)』(ここまでが前六者)・『宗彝(宗廟で先祖をまつるための酒器。祭祀と孝行の意)・藻(水と清浄の意)・火(明かりの意。藻と対になる意匠)・粉米(米粒で花を象った模様。養うという意)・黼(ほ、斧の形をした模様』。『断ち切る、果断の意)・黻(ふつ、「亜」字形の模様』。『分別、明察、悪に背き善に向かうの意)・』。なお、「周礼の「春官」及び「司服」への『鄭玄』(じょうげん)の『注によると、この十二種類は古代の天子の冕服』(べんふく:唐風の天皇の衣装及び中国皇帝の専用漢服。礼服の一種で「天子御礼服」とも呼ぶ)『に用いられる模様であった。鄭玄によると』、『周の時代には目的によって異なる数の模様のついた服を着た』とある。

「長刀鉾」当該ウィキによれば、『祇園祭先祭の鉾。巡行の順番が決まっている「くじ取らず」で、山鉾の中で唯一』、実際の『稚児を乗せ』、『巡行の先頭に立つ。下京区四条烏丸(からすま)東入ル長刀鉾町(ちょう)に位置する』(ここ。グーグル・マップ・データ)『長刀鉾は名の通り、鉾頭に長刀を付け、疫病を払う役割を持つ』。『この鉾は』二〇二〇年現在も『女人禁制を取っている(一部の山鉾では女性が乗ることが許されている)』。「応仁の乱」『以前から名がある鉾で』、『山鉾の中で最も早く創建され、その時期は嘉吉元』(一四四一)年で『あるとも』、『それより古いともいう』。『八坂神社に最も近いところにあったことなどから』。『くじ取り式が始まった明応』九(一五〇〇)年から『現在に至るまで、常に巡行一番を勤めて』いる。長刀は『鉾頭に、謡曲「小鍛冶」で知られる平安時代の名工・三条小鍛冶宗近』(古来より一条天皇の治世、永延頃(十世紀末頃)の刀工と伝え、名は山城国京の三条に住んでいたことに由るとされる。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたと謡曲「小鍛冶」に謡われているものの、現存作刀に、この頃の年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、殆んど伝説的存在として扱われている。実年代については資料によって十世紀から十二世紀などと話にならない幅があり、現存する有銘作刀は極めて少なく、「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」である)『の作の長刀を立てたことから「長刀鉾」の名があるという』。『伝説によれば、宗近が娘の病気平癒を祈って祇園社に奉納した長刀(太刀)という』が、後の大永二(一五二二)年に『三条長吉が作った長刀に取り換えられ』、次いで延宝三(一六七五)年には『和泉守来金道』(らい きんみち)『の作ったものを用いるようになった』が、『真剣では重量があって危険であることなどから』、天保八(一八三七)年から『竹製に錫箔を押した模造』『が用いられている』『(長吉作の長刀は秘蔵されており』、『非公開』である)。『長刀の正面が八坂神社や御所に向かないよう、南向きに付けられている』。『天王座には、鎌倉時代初期の武士・和泉小次郎親衡』(ちかひら)『の人形が祀られている』。『和泉(泉)親衡は源頼家の遺児を奉じて北条氏打倒の兵を挙げた人物であるが(泉親衡の乱)』、『朝比奈義秀と並ぶ強力無双の勇士であったとする伝説が付与された。長刀鉾に伝わる伝承によれば、親衡は祇園社に宗近が納めた長刀(太刀)を懇望して愛用したが、さまざまに不思議なことがあったために、神仏を私』(わたくし)『することの非を悟って返納したという』とある。なお、ウィキの「祇園祭」の「山鉾巡行の成立」によれば、『祇園御霊会は、草創期から現代に至るまで、祇園社の神輿渡御を中心とするが、これに現在見られるような山鉾が伴うようになった時期は明確には分からない。鉾の古い形式は、現在も京都市東山区の粟田神社(感神院新宮・粟田天王宮)をはじめ、京都周辺から滋賀県にかけて分布する剣鉾に残っており、祇園御霊会の鉾もそれに類するものであったと推定される』。『現在の山鉾巡行の原形は、鎌倉時代末期の』「花園天皇宸記」の元亨元年七月二十四日(一三二一年八月十八日)の『条の記述から窺える。それによれば、鉾を取り巻く「鉾衆」の回りで「鼓打」たちが風流の舞曲を演じたというものである』。『南北朝時代には、富裕な町人層が』、『競って風流拍子物をくり出し、さらに室町将軍家が調進した「久世舞車」や西陣の大舎人座が出した「鷺舞」など、さまざまな形の付祭の芸能が盛んになった』。『室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。それまで単独で巡行していた竿状の鉾と、羯鼓舞を演ずる稚児を乗せた屋台が合体して、現在見られるような鉾車が成立し、さらに主に猿楽能の演目を写した作り物の「山」が加わることによって、室町時代中期には洛中洛外図に見られるような、今日につながる山鉾巡行が成立したものと見られる』「応仁の乱」による中断後の天文二(一五三三)年には、『延暦寺側の訴えにより、祇園社の祭礼が中止に追い込まれたが』(祭りの主宰たる現在の八坂神社の祇園社は、当時、感神院と号して比叡山延暦寺に属し、中世を通じて、祇園社は比叡山延暦寺の末寺とされ、山門の洛中支配の拠点となっており、比叡山鎮守たる日吉権現の山王祭が行われない時には祇園御霊会の祭りも連動して中止・延期されることが多かった)『町衆は「神事これ無くとも山鉾渡したし(神社の行事がなくても、山鉾巡行だけは行いたい)」という声明を出し、山鉾行事が既に町衆が主体の祭となっていたことを窺わせる』。天文二 (一五三三) 年、「天文法華一揆」(戦国時代の京都に於ける天文年間に起きた宗教一揆。当時の京では六条本圀寺などの日蓮宗(法華宗)寺院を中心として日蓮宗の信仰が多くの町衆に浸透し、強い勢力を誇るようになっていたが、この前年に浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)の入京の噂が広まり、日蓮宗徒の町衆(法華衆)は細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結み、本願寺教団の寺院を焼き討ちした。当時の京都市街から東山を隔てた山科盆地に土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた山科本願寺は、この焼き討ちで全焼。その後、法華衆は京都市中の警衛などに於ける自治権を得、約五年に亙って京で勢力を拡大した。こうした法華衆の勢力拡大を、ほかの宗派の立場からは「法華一揆」と呼んだ)『のさなか、延暦寺と結託した幕府の祇園会停止の命令に対し』、『町衆たちが「神事ナクトモ山鉾渡シタシ」と迫り、神事は中止されたものの』、『山鉾巡行は行われたという。町衆の自治的性格を象徴する話として特に有名である。これに先立って』、明応九(一五〇〇)年に「応仁の乱」による三十三年もの『中断を経て』、『祇園祭を復興するにあたり、室町幕臣(奉行衆)の松田豊前守頼亮』(よりすけ)『が過去の山鉾について「古老の者」より聞き取りを行い、応仁の乱以前の』六十『基(前祭』三十二『基、後祭』二十八『基)』『の山鉾を知る唯一の史料とされている「祇園会山鉾事」(八坂神社文書)として書きとめたほか』、『初めてのくじ取り式を頼亮私宅で行い』、『町人主体の祭りとなるよう』、『祇園執行に申し聞かせるなど、祇園祭の再興に尽力し、現在に続く山鉾の数と名称が固定した』。『頼亮も自身の在職中に祇園祭が再興されたことは冥加であると記している』とある。]

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