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2021/02/10

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 6

 

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。] 

 「ペドロソ」の葡萄牙里談、第二十四頗る之れに似たり、云く、鰥夫[やぶちゃん注:「やもめ」。]あり、三女を有せるが長女次女は衣裳飾りのみし、季女[やぶちゃん注:「すゑむすめ」。]は好んで厨事を務めけるを、兩姉嘲て竈猫[やぶちゃん注:「かまどねこ」。]と呼り[やぶちゃん注:「よべり」。]、一日、其父一魚を獲、季女に料理を命ぜしに、季女其魚の色黃に美なるを愛し、父に乞て之を自分の室に置き、水中に養ふ、夜に及び、魚女に向ひ、吾を井に放てと言しかば、起て之を井に投ず、翌日季女魚見んとて井に近くに[やぶちゃん注:「ちかづくに」。]、魚「娘子井に來れ」と連呼す、女大に惧れて去る、次日、二姉宴會に趣ける不在中、季女復た井に近けば、魚呼ぶ事昨日の如し、因て進で井に入しに、魚女の手を牽て[やぶちゃん注:「ひきて」。]、金玉の殿に導き、無比の美服を着、一雙の金履を踏せ[やぶちゃん注:「はかせ」。]、輅車[やぶちゃん注:「ろしや」。大きな車。]に乘て宴會に趨かしむ[やぶちゃん注:「おもむかしむ」。]、戒めて曰く、必ず二姉に先つて退き、此所に來て衣飾を脫せよと、宴會に趣くに及び、滿堂季女の美を驚嘆せざる無し、宴竟り[やぶちゃん注:「をはり」。]急ぎ去らんとせしに、履一を落し王に拾はる、王廼ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]國中に令し、此履の本主を娶ん[やぶちゃん注:「めとらん」。]といふ、季女家に還つて、井中の王殿に上り、衣を脫せる時、魚來て問ふ可き事有れば、今宵又來れと云ふ、二姉還りて、季女の厨事に急がしきを見、其日宴會で、無上の美人、金履を落し、王其持主を娶んと熱望する由を語る、又言く、吾等是より王宮に詣り、彼履を試みんに、一人の足必ず之を合ふ可ければ、后と爲し事必定也、爾時[やぶちゃん注:「そのとき」。]厨猫に一新衣を遣さんと、二姉出行くを見て、季女井に到るに、魚忽ち、「汝吾妻たるべし」と勸むる事甚だ力めければ[やぶちゃん注:「つとめければ」。]、遂に從ひぬ、其時魚即ち化して人となり言く、吾は當國王の子、久しく呪封されて此井に在り、吾れ今日、汝が履を落せるより、吾父令して履主を娶らんと望むを知る、汝直ちに王宮に趣き、妾既に婚を君の子に約せりと言へり、季女、井を出で家に入れば、二姉還りて、二人の足如何にするも彼履に適せざりしと嘆き、季女吾も行て試んと言ふを聞き、大に之を嘲る、季女王宮に詣り、履を試るに、合ふて寸分を差え[やぶちゃん注:ママ。「たがえ」。]ざりければ、王之を娶んと言ふ、季女因て王子の告げし儘に答て、之を辭せしに、王驚喜措く所を知ず、百官を遣して井より王子を迎へ、竈猫女を娶らしめければ、兩姉羨み嫉み、恐言[やぶちゃん注:ママ。「怨言」の誤りではないか?]を放て罰せらる、其後、王子父に嗣で立ち、竈猫は后たりと、按ずるに、古今魚類を崇め神とせる民族多し(F. Schultze, ‘Fetichism,’ trans., New York, 1885, p.79; Frazer, ‘The Golden Bough,’ 1890, vol.ii, pp.118-122; Leo Frobenius, ‘The Childhood of Man,’ 1909, p.243  Seqq.) 例せば、鯉神變有り、山湖を飛越え、鱧[やぶちゃん注:「やつめうなぎ」。]夜北斗に朝し、之を殺さば罪を益す[やぶちゃん注:「ます」。増す。]等、支那に靈魚の談多し(淵鑑類凾卷四四一[やぶちゃん注:底本は「四四二」であるが、「選集」は「四四一」とし、原本を確かめたところ、後者が正しいので、特異的に訂した。])、本邦で魚を崇めし遺俗に就ては、本誌二八八及び二九一號を見よ[やぶちゃん注:これは既に既に電子化したもので、前者が山中笑の「本邦に於ける動物崇拜」であり、後者がそれを受けて熊楠が書いた「本邦に於ける動物崇拜」である。]、又古え鮪、鰹、目黑[やぶちゃん注:「めぐろ」。ウルメイワシの異名。節分に魔除けとして鰯を掲げることを想起せよ。]、鯛、鮒、「ヲコゼ」、「コノシロ」、鯖(玄同放言卷三)、鎌足(カマス)房前(ハゼ)(石野廣通著繪そら言)等、魚に資れる[やぶちゃん注:「よれる」。]人名多く、神佛が特種の魚を好惡する傳說頗[やぶちゃん注:「すこぶる」。]少なからざるは、今日迄蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]、愛爾蘭[やぶちゃん注:「アイルランド」。]に、地方に隨て魚を食ふに好惡ある(Gomme, op.cit., p. 290)に同く、古え「トテミズム」盛んなりし遺風と見ゆ、古歐州及び印度の諸神、魚形なりし例多く Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ p.329 seqq. に出づ、古埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]に、魚神「レミ」あり、又鰻鱺[やぶちゃん注:「うなぎ」。]等諸魚を神とし、(Budge, ‘The Gods of the Egyptians,’ 1904, vol. i, p.303; vol.ii, p.382)、日神「ラア」は二魚「アブツ」「アント」を使ふ、(‘The Book of the Dead,’ trans. Budge, 1898, p. 4)、古カルデア人、無智にて禽獸と別無かりしを、智神「エア」、晝間のみ海を出で、上陸して、言語、農工、書畫萬般を敎えたり、此神は魚形也、其前後にも、斯る魚形神出で、民を開導せる事、佛敎に一佛・二佛有るが如し(Maspero, ‘The Dawn of civilization,’ London, 1894, p. 565, &c; Boscawen, ‘The First of Empires,’ 1903, pp. 67―68)而して、魚屬其他動物の骨を尊敬する民族屢ば有るは Frazaer, op.cit., pp.118―20, 122.  seqq. に其論有り、去ば雜俎、葉限、魚骨に祈て福を得し話は、支那南部に、舊く斯る崇拜迷信行れたる痕跡ならん歟、履を手懸りとして美女を求むる話は、「ストラボン」(耶蘇と殆ど同時)の書に出づ、西曆紀元前六百年頃の名妓「ロドペ」浴する間に、鷲其履を捉み去り、メムフヰスの王の前に落せしを、王拾つて、其履の美にして小さきに惚込み、履主を搜索して、遂にロドペを娶れりとなり。

[やぶちゃん注:『「ペドロソ」の葡萄牙里談』「5」で既出既注。

「第二十四」「Internet archive」の英訳版(ロンドン・一八八二年)の「XXIV. THE MAIDEN AND THE FISH.」

「F.Schultze, ‘Fetichism,’ trans., New York, 1885, p.79」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(23:鮫)」で既出既注であるが、再掲すると、ドイツの哲学者フリッツ・シュッエ(Fritz Schultze 一八四六年~一九〇八年)の書いた「呪物崇拝」の一節。「Internet archive」で原本が見られる。ここ(右ページ左の中央)。直ぐ後にはミクロネシアでのウナギ崇拝の記事も続いている。

「Frazer, ‘The Golden Bough,’」イギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一八九〇年から一九三六年の四十年以上、まさに半生を費やした全十三巻から成る大著で、原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した「金枝篇」(The Golden Bough)。私の愛読書の一つである。

「Leo Frobenius, ‘The Childhood of Man,’ 1909, p.243  Seqq.」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(23:鮫)」で既出既注。

「鱧」漢籍のそれであるから、これはハモではなく、脊椎動物亜門無顎上綱(円口類=無顎類) 頭甲綱ヤツメウナギ目ヤツメウナギ科 Petromyzontidaeに属する生物であるヤツメウナギ類である。体制が似ているために「ウナギ」の呼称がつくものの、生物学的には、タクソン上、魚上綱に含まれないため、魚ではないという見解があるが、では、その習性から、魚に付着して体液を吸引する魚類寄生虫とするのも、私には馴染まない気がする。複数種が知られるが、本邦の場合は食用有益種としては同科ヤツメウナギ目 Petromyzontiforme のカワヤツメ(ヤツメウナギ)Lampetra japonica 及びスナヤツメ Lethenteron reissneri である。両者はともに中国北部にも分布するので、これらに比定しても構わないだろうが、ヤツメウナギ類は実に世界で三科十属三十八種がいる(中国・日本に分布しない種も含む)ので、中国のそれは、他の種も含まれると考えた方が無難である。ヤツメウナギ類はウナギ類のレプトセファロス(Leptocephalus)同様に、幼生が成魚と大きく異なった形態をしており、アンモシーテス(Ammocoetes)と呼ばれる。幼生は目が皮下に埋没していて、無眼に見え(但し、負の走光性を示すので感覚器としては機能していると思われる)、口吻もロート状又は頭巾状(成魚は吸着吸引に特化した吸盤状)で、川床の泥中に四年間程(ある記載では一~七年と幅が広い)、底棲している。変態後(変態後は開眼する)は海に下り、魚類に吸着して体液を吸う(ヤツメウナギ目には降河しない種がおり、彼等は産卵まで餌を全くとらないという)、二~三年後(スナヤツメではこの期間が短く半年程度であるらしい)に産卵のために、再び、川に遡上する。その際にはもう摂餌をせず、目も消化管とともに退化してしまい、体長もアンモシーテス期より逆に小さくなるとも言う。再び盲(めし)い、飲まず食わずで身を細らせての皮つるみ、そして死――ドラキュラのごとく忌み嫌われる彼等も確かな生物の厳粛な営みの中にいる(後半のアンモシーテス幼生とライフ・サイクルについては幾つかの記載を総合的に参照した)。私の古い電子化注である寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の「鱧 やつめうなき」の項を参照されたいが、そこで李時珍の「本草綱目」を引いて、

   *

頭の斑點、七つ有り、北斗の象(かたち)を作(な)す。夜は、則ち、首を仰(あをむ)け、北に向ひて、北斗に朝す自然の禮、有る故、字、「禮」の省(はぶ)くに从(したが)ふ。蛇と氣を通じて、色、黑く、北方の魚なる故、「玄」・「黑」・「烏」の諸名有り。

   *

という、辛気臭い載道的生態行動解釈が載る。ヤツメウナギは体側の目のやや後方に七つの鰓孔を持つところから命名されているが、鰓孔は後部に向って体に平行に等間隔で開いており、北斗星の形などにはなっていないから、数の相同を牽強付会したに過ぎない。私は八目鰻を親しく観察したことはないから、確証を持っては言えないが、このような実際の生態行動はないであろう。北斗星は中国では古来より時刻・季節の推移を予兆する星として重要視され、後に道教の北斗神君などとして神格化され、寿命・禍福を司るものとして信仰された。また、この「朝す」とは「拜む・礼拝する」の意である。則ち、「八目鰻は夜になると、首を仰向けにして、常に北に向け、神聖な北斗神君のシンボルであるところの北斗星を『禮』拝し、自然の『礼』をとり行うが故に、その漢字は『禮』を省略して(「示」を「魚」に換えて)『鱧』という字に造るのである」というトンデモない意味なのである。なお、中国語では「大鰻(おおうなぎ)」の意が第一義にある。

「淵鑑類凾卷四四一」同書は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「中國哲學書電子化計劃」の四百四十一巻の「魚一」にごっそり書いてあるが、よく見ると、「鯉最爲魚中之主形既可愛又能神變乃至飛越山湖所以琴髙乘之」とあり、「雅俗稽言曰鱧俗呼烏魚又名火柴頭頭戴七星夜禮北斗道家謂之水厭忌食之養生家亦忌其膽臘月收取隂乾遇喉急痺少許㸃之卽愈白小銀魚也小於麵條鰣魚初夏有餘月無故謂之」とあるのが、熊楠のネタ元であることが判る。

「古え鮪、鰹、目黑、鯛、鮒、「ヲコゼ」、「コノシロ」、鯖(玄同放言卷三)」曲亭馬琴の随筆で琴嶺(馬琴の長男)・渡辺崋山画。文政元(一八一八)年から同三(一八二〇)年刊。天然・人事・動植物について和漢の書から引用して考証を加えたもの。「玄同」は「無差別」の意。当該部は巻三上の「第廿九」の「人事」にある「姓名稱奈謂」の一節。「KuroNetくずし字認識ビューア」のここの左頁二行目の「鯨」から始まる魚名を名前に持つ〈人名魚尽くし〉の箇所。以上を視認して訓読し、電子化する。表題は底本では囲み罫であるが、[ ]で挟み、目立つように太字にし、且つ、改行した。【 】は割注。一部に句読点・記号を添え、また、変更もした。なお、本来ならば、「鯖」までの引用で十分なのだが、今少し、魚類関連のものが続くので、このパートの最後まで電子化しておいた。

   *

[鯨【クジラ】]には、同名多かり。大伴の連(むらじ)鯨、【「書紀」廿三。舒明紀。】河内の直(きみ)鯨、【同廿七。天智紀。】民の直(きみ)鯨、【同廿八。天武紀。】廬(いほ)井の連(むらじ)鯨、【同紀。】粟田の朝臣鯨、【「續日本後紀」。十六。】大伴の宿祢鯨、【同―一一。】刑部造眞鯨(をさかべのみやつこまくじら)、【「三代實錄」七。淸和紀。】。

[鮪【シビ】]も亦三人あり。八口(やく)の采女鮪女(しびめ)、【「書紀」廿三。舒明紀。】物部の朴(えの)井の連鮪、【同廿五。齊明紀。】」吉士小鮪(きしこしび)、【同廿七。天智紀。】この他、「萬葉集」第十六に、土師(はじ)の宿祢水通(みゆき)、字(あさな)は志婢(しひ)麻呂、といふ者(ひと)見えたり、この志婢(しひ)も、鮪(しび)の假名にはあらぬか。考べし。

[堅魚【カツヲ】]をもて、名とせしは、石上(いそのかみ)の朝臣勝雄(かつを)、【「續紀」十一。聖武紀。】河原の毗登(ひと)堅魚、【同卅。孝謙後紀。】縣犬養(あがたいぬかい)の宿祢堅魚麻呂、【同卅七。桓武紀。】安倍の朝臣堅魚、【「殘缺後紀」廿二。嵯峨天皇紀。】大伴の宿祢雄(を)堅魚、【又、小堅魚に作る。「殘缺後紀」廿二。】伴(とも)の宿祢眞(ま)堅魚、【「類聚國史」九十九。天長中の人なり。】」この他、豐岡の宿祢眞黑(まくろ)麻呂、【「續後紀」二。】この眞黑麻呂の眞黑も、目黑(まくろ)堅魚の事ならんか。目黑堅魚の名目は、「東鑑」に見えたり。

[鯛]をもて、名とせしものは、凡(おほち)の直(きみ)鯛、【續紀廿九。孝謙後紀。】大中臣の朝臣鯛取、【「殘缺後紀」十七。平城天皇紀。】安倍の朝臣鯛繼(つぐ)、【「續後紀」七。】髙道の宿祢鯛釣、【同八。】この他、鯛身の命(みこと)、【「姓氏錄」十八。】小鯛王、【「萬葉集」十六。】又、仁明天皇嘉祥二年、十一月廿日、賣買家地の劵書(けんしよ)に、秦(はだ)の忌寸(いみき)鯛女【「好古目錄」上卷。】あり。

[鯽魚【フナ】]にも、亦、同名あり、吉備の品遲部(ひちべ)の雄鯽(をふな)、【「書紀」十。應神紀。】難波玉造部(つくりべ)の鯽魚女、【同十五。欽明紀。】鴨の朝臣子鯽(こふな)。【「續紀」十八。孝謙紀。】

[鰧【をこし】[やぶちゃん注:オコゼのこと。]]にも、亦。同名あり。物部尾輿(をこし)、【「書紀」十九。欽明紀。】蘇我の臣(おみ)興志(をこし)、【同廿五。孝德紀。】尾張の宿祢乎己志(をこし)、【「續紀」四。元明紀。】大神(おほみわ)の朝臣興志(をこし)、【同六、同紀。】凡(おほち)の連(むらじ)男事志(をこし)、【同九。元正紀。】これらの名すべて「䲍(をこし)」の假字(かな)なり。

[鯯魚【このしろ】]にも、亦、同名あり。鹽屋の鯯魚(このしろ)、【「書紀」廿五。孝德紀。分注に云はく、「鯯魚(このしろ)は、此に云ふ「挙能之盧(このしろ)」[やぶちゃん注:実際に魚の「コノシロ」にこの漢字四字を当てる。]。】堺部の宿祢鯯魚(このしろ)。【同廿九、天武紀。】」

[鯖【さば】]にも、亦、二人あり。紀の朝臣鯖(さば)麻呂、【「續紀」卅八。桓武紀。】田口の朝臣佐波主(さはぬし)、【「續後紀」四。】この他、林の宿禰娑婆(さば)【「殘缺後紀」五。桓武紀。】あり、こは娑婆國の娑婆なるべし。

 この餘(よ)、魚をもて名とせしもの、衆夥(あまた)なり。枚挙(かぞへあぐる)に遑(いとま)あらず。按ずるに、魚は陰中(いんちう)の陽(やう)なり。こゝをもて、むかし、百官の名に、多く取れるなるべし。

 「蠡海集(れいかいしふ)」[やぶちゃん注:宋の王逵(おうき)著。天文・地理・人身・庶物・暦数・気候・鬼神・事義類に分類した雑考。]に【庶物類。】曰はく、『水族(すいぞく)は、乃ち、陰中の陽なり。何を以つて其の然を[やぶちゃん注:「しかるを」。]知るか』云々(しかしか)、『魚、乃ち、陰物にして、陽氣を得ること多し。故に腹内、脬(はく)[やぶちゃん注:浮袋。]を生ず。是れを以つて、能く浮き躍(おど)る[やぶちゃん注:ママ。]。魚の目は、晝夜、瞑(ねふ)らず。因りて、其の、陰物、爲(たれ)ども、陽を得ること、多き者なるを知るなり』といへり。この「小」をもて「大」に譬(たとへ)ば、人主(みかど)は陽なり、庶民(たみ)は陰なり、百官(もゝのつかさ)は陰中の陽なり、之加(くはふるに)、諸魚、天神御子(あまつかみのみこ)に仕(つかへ)奉りし故事(ふること)あり。「古事記」【上卷。】に、天津日髙日子番能迩迩藝命(あまつひたかひこほのににぎのみこと)、天降(あまくだり)まして、竺紫(つくし)の日向之髙千穗(たかちほ)之久布流多氣(くふるのため)に座(ゐま)せしとき、底度久御魂(そことくみたま)、都夫多都御魂(つづたつみたま)、沫佐久御魂(あはさくみたま)等(たち)、猨田毗古古命(さるたひこのみこと)を送(おくり)て、還(かへ)り到(いた)る條下(くだり)に云はく、『乃(すなは)ち、悉(ことごと)く鰭廣物(はたのひろもの)・鰭挾物(はたのさもの)を追聚(よびつど)へて、以(も)て問へらく、「汝(いまし)は天神御子(あまつかみのみこ)に仕(つか)へ奉(まつ)らんや」と言ふ時に、諸(もろもろ)の魚(うを)、皆、「仕へ奉らん」と白(まう)すの中(なか)に』云々(しかしか)、後生(のち)の人臣、名(な)を鱗介(いろくづ)に取るものゝ多かりしも、これらに緣(より)ての事なるべし。

 又、按ずるに、同書【上卷。】に、大穴牟遲神(おほなむちのかみ)、欺(あざむか)れて、八十神(やそのかみ)に燒(やか)れ給ふ段に云はく、『神産巢日(かむみむすひ)之命(みこと)、時に乃ち、黑貝(いかひ)と蛤貝比賣命(おほかひひめのみこと)とに告(の)り訓(をし)て[やぶちゃん注:ママ。]作活(いけらしたまふ)』云云(しかしか)といへり。鱗介(いろくづ)をもて、名とすること、はやく、こゝに見えたり。

 又、按ずるに、都の宿祢腹赤【「類聚國史」九十九。弘仁十四年正月叙位。】と、粟(あは)の宿祢鱒(ます)麻呂【「三代實錄」六。】とは、その名を等類(とうるい)とせんか。一説に『「腹赤(はらか)」は「鱒(ます)」なり』と、いへり。今、俗は、「鮏(さけ)」の子を「腹赤子(はらゝこ)」といふなり。又、一説に、『「腹赤(はらか)」は地の名なり。肥後の國玉名の郡、長渚(ながはま)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。]に、「腹赤濱(はらかはま)」あり。この海濱にて漁取(すなと)る魚を、「久尓倍(くにべ)」[やぶちゃん注:ニベのことではないか?。]といふ。「腹赤」は、卽(すなは)ち、「久尓倍(くにべ)」の事なり。その濱によりて、名を得たり』と、いへり。いまだ孰(いづれ)か是(よき)を、しらず。「江家次第」、【卷之一。元日節會。】腹赤の奏の條下(くだり)を考ふべし。

   *

「鎌足(カマス)房前(ハゼ)(石野廣通著繪そら言)」石野廣通(ひろみち 享保三(一七一八)年~寛政一二(一八〇〇)年)は旗本で歌人・国学者。本姓は中原。家禄三百石。従五位下・遠江守。「繪(ゑ)そら言(ごと)」寛政九(一七九七)年頃に成ったかなりくだけた調子の考証随筆。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読め、当該部はここ(左ページ八行目から。直前で藤原鎌足を出しておいて、

   *

「御存の通り愚臣が名はかますにて、むかし魚の名を付事がはやり物のやうににて、君の御骨折らせ打亡されし入鹿なども海豚といふ魚の名を付、鮪の大臣なども魚の名、蘇我の赤兄なども赤鱝といふ魚の名、鹽屋の連鯯(齊明御宇の頃の人)そのゝち廬井造(天武の御宇の人)、又愚臣が孫の房前などもふさゝきにてはなく、房はほう前はぜんにてはぜといふが實の義、すなはち鯊の名なるをとなへ誤れり、此外にも魚の名付たる人あまた也、もろこしにても伯魚といひ鯉といひ玄孫を禮鮒といふ、祝鮀といふも魚の名也、魚の名付侍る事大䳡鷯尊(仁德天皇)[やぶちゃん注:「䳡鷯」はミソサザイを指す。]木兎宿禰(武内)隼別王子(人德の弟)飯豐も(人德の曾孫)鳥の名也、其外、數々こゝにいひたつるに及ばず、臣が名をかますと申證據は足の字はそくともすうとも兩音にて、論語にも足恭をすうきやうとよむがが如く、足はすうの音にて鎌足と書ても鎌子と書てもかますなるを、子の字もつねに申金子などのすといふには心付ずして、鎌足一名は鎌子とぼへ大系圖などには大職冠鎌たり一名鎌子としるせり、入鹿退治の時かまをもつて打たるゆゑ名付て淨瑠璃にも大津眞島を宿禰兼道が鎌をもつては向ふ思ひ入、これは百姓すがたにやつして居れば相應によく取合せてつくりたれど、それがし何故帶劒を用ひずにも子麿等と同時劒をもつて入鹿をきることたしかにしるせり、其鎌をおさめた所を鎌倉山といふなふなどとよひかげんなうそを取つけいひなす義に候と申さるれば、しへいの大臣尊公にはしかなれども、後代までおろそかにはいはず、名武峰にある所の御像が明應七年にやぶれたる時も、國家に變ある時はいにしへより御廟鳴動し、御像やぶれさくるなどゝあがめ申さるゝ、誠に御本望の至り也、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

てな感じで、何となくこの人、博識なんだろうが、どうも好きになれない文章だ。

「Gomme, op.cit., p. 290」前に出たイギリスの民俗学者ジョージ・ローレンス・ゴム(George Laurence Gomme 一八五三年~一九一六年)の一九〇八年の著作「歴史科学としての民間伝承」。ずっと後の版だが、「Internet archive」の原本のここで読める(左ページ)。

「Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ p.329 seqq.」「Gubernatis」はイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)で、著作の中には神話上の動植物の研究などが含まれる。この「動物に関する神話学」は「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が読める

『魚神「レミ」』「Budge, ‘The Gods of the Egyptians,’ 1904, vol. i, p.303; vol.ii, p.382」イギリスの考古学者エルネスト・アルフレッド・トンプソン・ウォーリス・バッジ(Ernest Alfred Thompson Wallis Budge 一八五七年~一九三四年:古代エジプト・アッシリア研究者として大英博物館の責任者を長く務めた)の原本の当該部は「Internet archive」で見られ、第一巻がこちらの右ページで、英文の「レミ」の綴りは「Remi」で、舌から六行目の頭にヒエログリフ(hieroglyph)が記され、そこにスズキ目ベラ亜目カワスズメ科 Cichlidae カワスズメ(ティラピア:Tilapia)を表わすそれが記されてあり、英文では「the Fish-god」とある。後者の第二巻のそれは同書の最後の部分で、「382」ではなく、「383」ページの一行目末から三行目にかけてに、

   *

The Phagrus, or eel, was worshipped in Upper Egypt, and mummied eels have been found in small, sepulchral boxes.

   *

と書かれてある。「Phagrus」とはスズキ目タイ科マダイ亜科マダイ属ヨーロッパマダイ Pagrus pagrus である。しかし、この英文には、正直、ちょっと驚いた。ミイラ化されたウナギが墓の中の箱から発見されているとあるのである。これはもう、確かに神さまだわ!

「‘The Book of the Dead,’ trans. Budge, 1898, p. 4」Internet archive」の原本のここ。太陽神ラー(英文綴りは「Rā」)が使役する魚として「Ȧbțu」及び「Ȧnt」が記されてある。

「古カルデア人」ウィキの「カルデア」によれば、カルデア(Chaldea・Chaldæa)はメソポタミア南東部に広がる沼沢地域の歴史的呼称で、紀元前十世紀以降に『この地に移り住んだセム系遊牧民の諸部族はカルデア人と呼ばれるようになった。カルデア人は紀元前』七『世紀に新バビロニア王国を建国した』。『短命に終わったバビロン第』十一『王朝』(紀元前六世紀)『を、歴史家は慣習的にカルデア王朝、カルデア帝国、あるいは新バビロニア王国と呼ぶ。と言っても、この王朝の歴代の支配者のうち、カルデア人であると分かっているのは最初の』四『人だけである。最後の支配者ナボニドゥス(そしてその息子であった摂政ベルシャザル)の出自ははっきりしていないが、一説にはアッシリア出身とも言われる』。『カルデア人が定住した地域はバビロニア南部にあり、主にユーフラテス川の東岸沿いにあった。カルデアという名は一般にメソポタミア南部全域を指す言葉として使われるようになったが、本来のカルデアは実のところ、ユーフラテス川とチグリス川の堆積物によってメソポタミア南東端に形成された、この』二『つの川の流れに沿った長さ約』六百四十四キロメートル、幅およそ百六十一キロメートルに『広がる広大な平原であった』。『ヘブライ聖書ではカルデア人を指して』「カスディム」『という言葉が用いられており、七十人訳聖書ではこれをカルデア人と翻訳している。アブラハムの出身地もカスディムのウルと書かれている』。『古代ギリシア人がカルデア人』(カルダイオス)『と呼んだのは、バビロニアがアケメネス朝ペルシアの支配を受ける前のバビロニアの支配階級であった。現在ではカルデア人がバビロニアの最初の定住民であったとは考えられていないが、ヘレニズム期の歴史家シケリアのディオドロスは、カルデア人を最古のバビロニア人とした。古代世界においてカルデア人は天文学・占星術を発達させていたことで高名であり、「カルデア人の知恵」とは天文学・占星術のことであった』。『占星術を司るバビロニアの知識階級『乃至、『祭司階級を』単に『カルデア人と呼ぶようにもなった』。『カルデア人が使用した言語はアッカド語のバビロニア方言であった。これはアッシリア・アッカド語と同じセム語であるが、発音と文字に若干』、『変わったところがある。後期にはアッカド語のバビロニア方言もアッシリア方言も話されなくなり、メソポタミア中でアラム語がこれに取って代わった。アラム語は今日までイラクとその周辺国のアッシリア人と呼ばれるキリスト教徒(アッシリア東方教会やカルデア・カトリック教会』『の信徒)の母語であり続けている(アッシリア現代アラム語、カルデア現代アラム語)』とある。

「一佛・二佛」通常は釈迦如来と弥勒菩薩を指す。千仏という謂いもあり、これは過去・現在・未来の三劫 にそれぞれ現れるという千人の仏で、特に現在の賢劫の千人の仏を指し、釈迦はその四番目の仏とされる。

「Maspero, ‘The Dawn of civilization,’ London, 1894, p. 565」フランスの考古学者ガストン・カミーユ・シャルル・マスペロ(Gaston Camile Charles Maspero 一八四六年~一九一六年)。一八六九年から高等研究実習院でエジプト語を講義し、一八七四年にはコレージュ・ド・フランス(Collège de France:国立フランス教授機関)で、ロゼッタ・ストーン解読やヒエログリフ解明で知られる「古代エジプト学の父」ジャン=フランソワ・シャンポリオン(Jean-François Champollion 一七九〇年~一八三二年)の後継の地位に就いた。一八八〇年にエジプトへ派遣され、オギュスト・マリエット(Auguste-Ferdinand-François Mariette 一八二一年~一八八一年)の後を継いで、エジプト考古学庁最高責任者となった。また、政府の委託でカイロ考古学研究所を設立したことでも知られる。カイロ博物館の第二代館長でもあった(以上は彼のウィキに拠った)。当外原本は刊行年が異なるが(1897年)、ここでよかろう。カルデア人の記載が続き、尾鰭を持った半人半魚の二体の神像画が示されており、次の「566の十行目に「Ea」の神名を確認出来る。

「Boscawen, ‘The First of Empires,’ 1903, pp. 67―68)」筆者はアッシリア学者ウィリアム・セイント・チャド・ボスコーウェン(William Saint Chad Boscawen 一八五四年~一九一三年)。Internet archive」で原本が見られ、当該箇所はここ。左ページ下方から「Ea」の記載が始まる。

『「ストラボン」(耶蘇と殆ど同時)の書』古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者ストラボン(ラテン語文字転写:Strabo 紀元前六四か六三年~紀元後二四年頃の書いた全十七巻から成るギリシャ語で書かれた「地理誌」(同前:Geōgraphik:ゲオグラフィカ)であろう。この大著は当時の古代ローマ人の地理観・歴史観を知る上で重要な書物となっている。

『西曆紀元前六百年頃の名妓「ロドペ」浴する間に、鷲其履を捉み去り、メムフヰスの王の前に落せしを、王拾つて、其履の美にして小さきに惚込み、履主を搜索して、遂にロドペを娶れりとなり』「履物」の「履物と文化」の「西洋」の項に以下のようにある。「ロドペ」の伝承もさること乍ら、全体に本篇との親和性の高い内容なので、前の部分も含めて引く(コンマは読点に代えた)。

   《引用開始》

 片方の履物にまつわる多くの伝承がギリシア文化圏にはある。トゥキュディデスは、プラタイアイの兵士の一隊が片方のみはだしで城塞(じようさい)から脱出したことを伝え(《戦史》第3巻22章)、女怪ゴルゴンを退治したペルセウスはサンダルを片方しかはいておらず、片方のサンダルの男に注意せよとの神託を受けていたイオルコス王ペリアスの前に現れたイアソンはそのままの格好であったために、金羊皮を求めて旅に出ることになる。J. G.フレーザーは《金枝篇》で、はだしの右足を犠牲獣の皮の上に置いて行われるギリシアの宗教儀礼に言及しているが、履物の片方だけをはいたいわば異形の姿と、神の加護あるいは神意の顕現という観念には強い関連のあることが予想される。なお、ヘロドトスによれば、ペルセウス崇拝はエジプトにも及んでおり、ケンミスなる町にはその神殿があるが、ペルセウスはしばしばここを訪れ片方のサンダルを残していくという。そして、このサンダルの出現はエジプトの繁栄を約する吉兆であると信じられている(《歴史》第2巻91節)。

 またヒュギヌスによれば、ヘルメスには次のような伝説がある。すなわちヘルメスは美神アフロディテに恋したが拒まれ、これを哀れんだゼウスが鷲に変じてアフロディテのサンダルの片方を盗んで彼に与えたため愛はかなえられた。同趣向の伝説はストラボンも伝えており、鷲に盗まれたロドペ Rhodopē のサンダルの片方がエジプト王プサンメティコスの胸の上に落ち、王はその持主を国中に捜し求めたという。いずれも履物と愛の成就、後者はさらに身元確認の主題が結びついている点で、シンデレラの〈ガラスの靴〉などとの共通性や、履物の性的な象徴性を示唆しており興味深い。なお、履物が身元の証明の手だてとなる例はテセウスの伝説にも見られ、上記ペルセウス、ヘルメスはともに有翼のサンダルの持主として知られる。

   《引用終了》

熊楠の表記する「メムフヰスの王」は、この引用によれば、エジプト第二十六王朝初代ファラオ(在位:紀元前六六四年~紀元前六一〇年)のプサメティコス(「プサムテク」とも表記)Ⅰ世のことであろう。]

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