出口米吉「厠神」(南方熊楠「厠神」を触発させた原論考)
[やぶちゃん注:南方熊楠の「厠神」(かはやがみ)を電子化注するに際して、これは別の人物の論考に触発されたものである故に、その原論考を先にここで示すこととする。
その原論考は、熊楠が冒頭で述べるように、大正三(一九一四) 年一月二十日発行の『人類學會雜誌』(第二十九巻一号)に載った、出口米吉氏の「厠神」である。在野の民俗学研究者であった出口米吉については、私の『出口米吉「小兒と魔除」(南方熊楠「小兒と魔除」を触発させた原論考)』の冒頭注を参照されたい。
底本は「J-STAGE」のこちらの原本画像(PDF)を視認した。【 】は底本では二行割注。基本、ここでは極力、必要と思われた部分(難読と判断したもの及び別論文や一部の不審を持った書名や不審・意味不明箇所など)以外には注を附さないこととする。そうしないと、何時まで経っても、本来の目的である熊楠の論考に移れないからである。]
○厠 神
出 口 米 吉
故坪井博士の「陸前名取郡地方に於ける見聞」【本誌二六七號[やぶちゃん注:「本誌」と言っているが、先行する『東京人類學雜誌』である。明治四一(一九〇八)年六月二十日発行で、知られた筆者民俗学者坪井正五郎である。「J-STAGE」のこちらで原本画像(PDF)で見られる。以下の出口の引用は「三二五」ページ上段中央からの部分(PDFの3コマ目)。]】の中に「休息中(道祖神社にて)畑中の便所へ行きましたが、其所で妙な物を見ました。便所内の妙な物とは、片隅に釣つた棚に並べて有る數個の土人形で有ります。これは閑所神(かんじよがみ)と云ふものださうで、仙臺地方の古風の家では、皆閑所即便所に置くと云ふ事であります。土人形は玩具と同じ樣に見えますが、特別に作られたものとの事で、其形には座つたのや、立つたのや、子供を背負つたの等の種類が有りまして、何れも女の樣に見受けられます。人形が直に神を表すのか、人形を神に供へるのか、多く置くのは何の故か、其邊の事は一向分りませんが、要するに便所を護る意味を以て置かれる樣子で有ります」とあり。便所の片隅に棚を設け、每日朔竪[やぶちゃん注:「ついたち」と訓じておく。]に燈明を其上に點じて厠神を祀ることは、作州津山にて行はると聞けり。大阪附近にては、便所内にて線香を立て、燈明を奉る所もありと云ふ。
厠神を祀ることは、我國に於て古代より行はれたることありや否や明ならず。平田翁の玉手襁[やぶちゃん注:「たまだすき」。平田篤胤の主著の一つ「玉襷」。]八にては「厠を掌[やぶちゃん注:「つかさどり」]給ふ神の名は、古書に此者厠神と載傳たる文は無れど、世に卜家の神道また橘家の神道など傳ふる人々の說に、埴山毘賣神[やぶちゃん注:「はにやすひめのかみ」。]と水波能賣神[やぶちゃん注:「みづはのひめかみ」。]なりと云ふは、實に然も有べく覺ゆ。其は此二神は土神水神にて(世に井戸神とカウカ神と同じと云は水神の坐す故なるべし)伊弉那美神の御屎と御尿に成坐ればなり」と云へり。
酣中淸話[やぶちゃん注:「かんちゆうせいわ」。江戸後期の小島知足の随筆。]上に曰く「今ノ世ニ後架神(コウカカミ)ト云フハ、白氏六帖ニ續幽怪錄ヲ引テ、厠神每月六巡トアリ。又柳宗元が文ヲ引テ厠鬼ト出セリ。皆ソノ事ナリ。サレド委シク知レガタキニ、玉燭寳典ニ劉升ガ異苑ヲ引テ、紫女ハ本人家妾、爲二大婦(シウトメ)一所ㇾ妒、正月十五日感激而死、故世人作二其形於厠一、迎ㇾ之咒云、子胥【云是其夫】不在、曹夫以行【云是其姑】小姑可ㇾ出【南方多婦人爲ㇾ姑】トアリ。又俗云厠溷(カハヤ)之間、必須二淸淨一、然後能降二紫女一トモアリ。又白澤圖ヲ引テ厠神名停衣トアリ。雜五行書ヲ引タ後帝トアリテ、ソノ下ニ異苑ヲ引テ、陶偘如ㇾ厠、見ㇾ人自稱二後帝一、着二單衣平上幘、謂ㇾ偘曰、君莫ㇾ說貴不ㇾ可ㇾ言、將下後帝之靈馮二紫姑一見ㇾ女言上也。ナド云フコトモ見エタリ。西土ニテモ古昔ハ專云ヒシコトニゾ有ケル。」
靜軒痴談[やぶちゃん注:明治八(一八七五)年刊の寺門静軒の随筆。]二に曰く「佛家ニテ厠ノ神ヲ鳥瑟沙摩(ウスシヤマ)明王トイフ。不勤ノ化身ナリト云。佛說ニ修羅ト梵天帝釋ト戰ヒシ時、修羅ガ不動明王へ援ヲ乞フ。爾時帝釋ハカリ思フニ、佛ハ甚タ臭氣ヲキラヘバ、穢ヲ用テ防クベシト、糞ヲ以タ城ヲ築キイダセリ。明王少モ不潔ヲ忌ズ、其城ヲ一時ニ食ヒ盡シタリ。故ヲ以テ烏瑟沙摩明王ヲ厠ノ神トナスト云」と。玉手襁八には「俗には佛家の鳥芻瑟摩(ウスシマ)明王と云ふ物を厠の神なりと云ふは、密宗より出たる說なるが、谷川士淸も云る如く、謨りにて、信るに足らず。殊に此明王の穢をさけず功をなす由を記せる穢跡金剛法禁百變法門經、穢跡金剛說法術靈要門と云ふ物ありて、一切經に收めたれど、唐土の僧が玄家法術說をぬすみて僞作せること疑なき物なるをや。こは寂照堂谷響集[やぶちゃん注:運敞(うんしょう)著で元禄四(一六九一)年自序の仏教説話集。]にも早く其辯ありと所ㇾ思たり」と辨せり。
厠神に對する祈願につきては、玉手襁八には、俗に流行目病は厠神に治癒を祈り、常に厠の穴に唾すれば眼を病むと云ひ、亦女は日々に厠を掃き淨めて、晦日每に燈明を献れば、腰より下の病を憂ひずと云ふといヘり。大阪持明院の本堂のほとりに厠ありて、其内に入りて離緣を祈れば必らず緣切れると云ひ、洛東淸水寺の本堂と奧の院との間にも同樣の厠あり、是は厠二個所並び建て、其一方の内には離緣を祈り、又一方に緣結びを祈るに功驗ありと傳ふるよし浪華百事談七に見ゆ。獄屋に入る者が厠室を祭りたることは類聚名物考に云へり。アイヌは厠神(ミンダルカムイ)[やぶちゃん注:以上はルビではなく、本文。]に人知れず咒咀の言葉を捧げて、人を殺すと本志[やぶちゃん注:「誌」の誤植か誤字。]二八卷六號吉田氏の文に記されたり[やぶちゃん注:大正元(一九一二)年六月十日発行の『人類學會雜誌』の吉田巖の論考「アイヌの卜筮禁厭」。「J-STAGE」のこちらの原本画像(PDF)の「三二七」ページ(14コマ目)に現われる。]。
我國にて除夜燈を厠に點して厠神を祀ることは、支那より移りし風習なるべし。鹽尻十四に「世說故事苑[やぶちゃん注:江戸後期の大阪生玉真蔵院住職であった子登の類書。]云、異聞總錄云、京師風俗、每除夜、必明二燈於厨厠等所一、謂二之照虛㲞一[やぶちゃん注:「虛㲞」意味不明。]。趙林再といふもの。婢に命じて此燈を燃させけるが、此燈を見るに、麻油にして髮に塗に佳と思ひて、これを竊に陰し[やぶちゃん注:「かくし」。]、桐油を易て厠にともしけり。然して彼婢夜分に厠に行き、戶を排き見れば、長三尺五寸斗の婦人、披髮絳居[やぶちゃん注:後半、意味不明。]にして出で、小き箱に謳色所衣を盛て、携壁[やぶちゃん注:隔ての壁のことか。]の角にたゝずみ、衣を摺み[やぶちゃん注:「たたみ」か。「摑み」辺りでないと意味が判らぬ。]けるを、婢見て驚き叫ぶ。家内の人々往て見れば早失けり。此時油を易ふ者大に叫び、地に倒るゝ。衆人湯劑を以て扶還[やぶちゃん注:「たすけかへり」。]、甦即語曰、我輙桐膏易、以二鬼之爲一ㇾ所ㇾ擊甚苦と云々」と云へり。昔は轉宅の時にも之を祀りしと見え、類聚雜要抄二に「康平六年[やぶちゃん注:一〇六三年。]七月三日壬寅内大臣(師實)移二御花山院一。(略)同移徙作法、(略)入ㇾ宅、明旦祀二諸神一、(諸神者門、戸、井、竃、堂、庭、厠等也)以二甑内盛五穀一祀ㇾ之、三日亦祀、以二童女一擊水火一、炊二釜内五穀一祀ㇾ之、御移徙之後、三日之内(略)不ㇾ上ㇾ厠(下略)と云へり。