譚海 卷之四 大坂に加賀屋某が事
○同年四月、大坂に加賀屋某と云もの有。此もの前年(さきのとし)は豪家にて、五十年前西國うんかの付(つき)たる年も、金子を出(いだ)し飢饉をすくひたるもののよしにて、此ものの先祖金子貳百兩指出(さしいだ)せし事有、すべて此うんかの救ひを出せし時の金主(かねぬし)の名をば、公儀の帳面にとめられ、御勘定所に納めあり。又別に右の名目を書(かき)しるされ、諸國の大社へ奉納遊されしとぞ。かゝるほどのものの跡なれども、漸(やうやう)微祿に成(なり)、身上(しんしやう)立(たち)がたく、其上右主人も近來(ちかごろ)死去致し、後家ぐらしにて、すでに借金七百兩に及び、借金のものより公訴に及び、家内離散の次第に至りし時、再應御吟味ありし所、右うんかの節(せつ)救(すくひ)を出せしものの内なる故、容易にも潰させられがたきよしにて、公裁(こうさい)日をへたる所、なをまた委しく御しらべありしに、此加賀屋先祖うんかのすくひ上納せし後(のち)、外に金子五百兩公儀へ指上置(さしあげおき)、私事當時金子不足無二御座一候得共、町人の事に有ㇾ之候へば、子孫いかやうなる儀あるべきも計りがたく奉ㇾ存候ゆゑ指上置度よし願にて上候金子有ㇾ之、其節右の金子大坂御奉行所にて御借付金に被ㇾ成被二指置一たる所、すでに今年まで五百兩の金子元利二千兩餘に成たる事御吟味相濟、右の金子此度かゞや後家へ御返し被ㇾ下、身上相立候やうに被二仰付一候まゝ七百兩の借金の所へ二千兩の金子頂戴致し、暴富に成たりとて大坂中御慈悲をよろこび、上裁(じやうさい)の直(ちよく)なる事を嘆美せしと聞侍りし。
[やぶちゃん注:「関西・大阪21世紀協会」公式サイトの「なにわ大坂をつくった100人」の「第84話 加賀屋甚兵衛」(延宝八(一六八〇)年〜宝暦一二(一七六二)年)が『西大坂最大の新田を開発した一族の祖』とあるから、これはこの後裔の誰彼の話であろう。『加賀屋甚兵衛は』『河内国石川郡喜志村(現在の大阪府富田林市喜志町)で生まれ』、十一『歳のとき、大坂淡路町の両替商加賀屋嘉右衛門の店に奉公人として入った。加賀屋は天王寺屋、鍵屋、鴻池など十人両替と呼ばれる大店に次ぐランクの店であった。甚兵衛は』三十五『歳で暖簾分けを許され、加賀屋甚兵衛として新たに自分の店を持つ』。『甚兵衛は商用で堺に行く途次、紀州街道の西に広がる大和川の浅瀬が新田開発に適していることを知り、新たな事業に投資すべく』、四十五『歳の年に初めて新田開発に手を染めた。宝永元年』(一七〇四年)『に付け替え工事が完成した新しい大和川は、上流から運ばれる大量の土砂で河口に砂の堆積が進み、その結果、堺の港が機能を衰退させていった。そのような中、大坂の豪商が相次いで進出した北河内の旧大和川跡での新田開発は、木綿栽培を中心に概ね順調に推移していた。とくに大坂最大の両替商の鴻池は、新田開発でも成功を収めた豪商の一つである。同業者である甚兵衛もその流れに乗ることを決断する』。『大和川付替え後、最も早く開発されたのは摂津住吉郡(現在の大阪府堺市)の南島(みなみじま)新田である。享保』一三(一七二八年)『に計画され、河内国川辺村(現在の大阪市平野区)の惣左衛門ら』四『人が請け負ったものを甚兵衛ら』二『名が権利を譲り受けたもので、甚兵衛は新大和川を挟んで南北に二分した北側(後の北島新田)の開発を請け負った』。『甚兵衛は開発工事の進捗に応じて検地を受け』、延享三(一七四六)年には『「会所幷(ならびに)借家」を建て、ほとんど常駐のかたちで同地に詰めた。翌年、家業を任せたものの』、『不行跡を繰り返す婿養子を離縁、大坂淡路町にあった店をたたんで北島新田に居を移した。そのようなことがあっても、甚兵衛は前年の』延享二(一七四五)年、『北島新田の北西地続きの砂州を選定して後の加賀屋新田となる新規の開発事業に着手していた。その一方、北島新田は着工以来』、実に二十三『年を経て、宝暦元年』(一七五一年)『に完成』した。『北島新田に転居後、甚兵衛はすでに工事を手掛けていた(加賀屋)新田開発に注力するも、資金が底をついたため、やむなく完成して間もない』、『北島新田を堺の小山屋久兵衛に売却』している。『そうした苦労の末、ようやく』宝暦五(一七五五)年に六町歩余り(約6六ヘクタール)の『(加賀屋)新田が完成した。その前年には「加賀屋新田会所」(現在の大阪市住之江区南加賀屋)を建てており、甚兵衛はここを終(つい)の棲家(すみか)としたのである。大坂代官角倉与一の検地を受け』、『「加賀屋新田」の村名を与えられた。苗字帯刀が許された甚兵衛は、出身地に因み櫻井姓を名乗ることとした』。宝暦七(一七五七)年、『甚兵衛は二人目の婿養子の利兵衛に家督を譲った。翌年剃髪して圓信と改名、会所での静かな隠居生活を送』り、宝暦一二(一七六二)年に八十三歳で没した。この『初代甚兵衛没後、二代目の櫻井利兵衛、三代・四代目の櫻井甚兵衛らによって次々と新田開発が行われ』、天保一四(一八四三)年には『加賀屋新田は』一〇五町歩余り(約百四ヘクタール)の『大新田となった。その後の拡張も含め、幕末には櫻井家(旧加賀屋)一族による新田開発総面積は住吉浦の過半を占め、西大坂随一の規模となった』。『二代目は利兵衛と称し甚兵衛の名を継いでいない。三代目以降は櫻井甚兵衛』と称したとあるから、或いはこの分家ででもあったのかも知れない。
「同年」前条を受けるので、天明元(一八七一)年。徳川家治の治世。知られた「天明の大飢饉」はこの翌年の天明二年から八年(一七八二年~一七八八年)まで続いた。
「此加賀屋先祖うんかのすくひ上納せし後(のち)、外に……」以下、一部が準公文書の書付を写したものなので、やや硬いから、多少の手を加えて訓読しておく。
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此れ、加賀屋先祖、浮塵子(うんか)の救ひ、上納せし後(のち)、外(ほか)に金子(きんす)五百兩、公儀へ指し上げ置き、
私(わたくし)事、當時、金子、不足御座無く候得(さふらえ)ども、町人の事に之れ有り候へば、子孫、如何やうなる儀あるべきも計(はか)りがたく存じ奉り候ふ故(ゆゑ)、指し上げ置き度(た)き
よし願ひにて、上げ候ふ金子之れ、有り。其の節、右の金子、大坂御奉行所にて、御借付金(おかしつけきん)に成され、指し置かれたる所、すでに今年まで、五百兩の金子元利、二千兩餘りに成りたる事、御吟味、相ひ濟み、右の金子、此の度(たび)、加賀屋後家(ごけ)へ御返し下され、身上(しんしやう)相ひ立ち候ふやうに仰せ付けられ候ふまま、七百兩の借金の所へ、二千兩の金子、頂戴致し、暴富(ぼうふ)[やぶちゃん注:急に金持ちになること。]に成りたり。
「直(ちよく)なる事」正しいこと。]