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2021/02/18

芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3) 四通

 

大正二(一九一三)年八月二十九日・井川恭宛(封筒欠)

 

廿二日に東京へかへつて來た

どこの海水浴場でも八月の廿日になると客がぐつとへる 江尻もさうだつた それから廿日海水浴場で一中にゐる知り人にあつた 其人が明日かへると云ふのをきいたら羨しくなつた

それから丸善から本が來たしらせがうちからあつた

そんなこんなで急にかへる氣になつた 東京へかへつたら大へんうれしかつた 露の多い夕がた新橋の停車場を出て大な CARPET-TRANK をさげたまゝ電燈の赤みがかつた黃色い灯 瓦斯の白けた黃色い灯が錯落とつゞくのをみた時の心もちは未にわすれられない 矢張〝東京の小供〟の一人なんだらう

それから今日迄例の通り漫然とくらしてゐる 本も少しよんだ 午睡は大分した

其後君の方はどうきまつたかね

こつちでは君のまた東京へくると云ふ事が大分評判らしい 昨日谷森君にあつたらさう云つてた へえさうかねと感心してきいて來た 谷森君の話しではもう來るときまつた樣な事だつたが愈さうなつたのだらうか

この間の歌は面白かつた 湖の歌の始の方の五首「DIAN に」[やぶちゃん注:欧文は明らかに右に寄っている。]の六つが殊によかつた「霧靑む」「もの狂」は少し明星すぎる あの六首の外に「さりとては」「國引きに」「追分の」「とほじろく」がいゝ「あきらめの」の賛成だ

どつちにしても九月の初旬には君にあへる事と思ふ

 

  追憶二章

   I 外

今日もまた黃なる雲ゆく桐の木の葉かげにひとりものを思へる

車前草のうす紫の花ふみてものを思へば雲の影ゆく

小使部屋の外バケツの中に植ゑられしダリアの花の赤きが悲し

   Ⅱ 内

敎科書のかげにかくれて歌つくるこの天才をさはなとがめそ

禿頭のユンケルこそはおかしけれわが歌を見て WAS? ととひける

首まげてもの云ふ時はシーモアもあかき鸚鵡の心ちこそすれ

   秋

埃及の靑き陶器の百合模樣秋はつめたくひかりそめける

秋たてばガラスのひゞのほの靑く心に來るかなしみのあり

額ぶちのすゝびし金をそことなくほの靑ませて秋は來にけり

銀座通馬車の金具のひゞきより何時しか秋はたちそめにけむ

仲助の撥のひゞきに蠟燭の白き火かげに秋はひろがる

秋風は淸國名產甘栗とかきたる紅き提灯にふく

 廿九日朝              龍

恭 君 案下

 

[やぶちゃん注:既注の清水の新定院(その近くの海水浴場「江尻」も既注)での静養から新宿の自宅へ帰っての一通。短歌は底本では前書を含めて全体が三字下げであるが、ブラウザの不具合を考えて、総て行頭まで引き上げた(以下の書簡でも同じ)。

「CARPET-TRANK」絨毯地を張ったトランク。龍之介(満二十一)、なかなかお洒落だ。

「谷森」谷森饒男(にぎお 明治(一八九一)年~大正九(一九二〇)年)は一高時代の同級生。一高への入学は芥川龍之介の入学の前年であるが、同期となった。非常な勉強家で卒業時の成績は官報によれば、井川・芥川に次いで三番で、東京帝大入学後は国史学を専攻し、大正五年七月に論文「検非違使を中心としたる平安時代の警察状態」を提出して東京帝国大学文科大学史学科を卒業、その後、東大史学会委員として編纂の任に当たり、優れた平安時代研究をもものしたが、惜しくも、結核のために満二十八で夭折した。芥川龍之介との交流を考証したものは、高重久美(くみ)氏の論文「歴史学者谷森饒男と芥川龍之介 ―第一高等学校時代の交友と文学(大阪市立大学国語国文学研究室文学史研究会『文学史研究』二〇一七年三月発行。PDFでこちらで読める)が恐らく唯一である。

「もう來るときまつた樣な事だつたが愈さうなつたのだらうか」これを読むに、井川はかなり進学に悩んだことが判り、龍之介は彼が戻ってくることに、内心、喜んでいたことが抑制しながらも、字背に読める。ここで後に掲げる同年九月十三日附の井川宛書簡で、それが空喜びに終ることを知らずに。

「湖」宍道湖であろう。

「DIAN」不詳。

「ユンケル」既出既注。一高のドイツ語のドイツ人講師。

「WAS?」ヴァス。ドイツ語で「何?」。

「シーモア」既出既注。一高の英語のイギリス人講師。

「仲助」不詳。「なかすけ」で歌舞伎役者三代目中村仲助か。]

 

 

大正二(一九一三)年九月五日・新宿発信・藤岡藏六宛

 

君の手紙をもらつたのは四日の夜遲くであつた投函の日附は二日になつてゐるこれから返事を出したのでは間にあはないかなと思つたが兎に角出してみる半切をかひにゆくのもLETTERPAPER[やぶちゃん注:縦書。]をかひにゆくのも兩方共きらした今は億劫だから一帖一錢五厘の紙で間に合はせる

東京へかへつてから何と云ふ事なくくらした罪と罰をよんだ四百五十何頁が悉心理描寫で持きつてゐる一木一草も hero の心理と沒交涉にかゝれてゐるのは一もない從つて plastic な所がない(これが僕には聊物足りなく感ずる所なのだが)其代りラスコルニコフと云ふ hero のカラクタアは凄い程强く出てゐるこのラスコルニコフと云ふ人殺しとソニアと云ふ淫責婦とが黃色くくすぶりながら燃えるランプの下で聖書(ラザロの復活の節―ヨハネ)をよむ scene は中でも殊に touching だと覺えてゐる始めてドストイエフスキーをよんで大へんに感心させられたが英譯が少ないので外のをつゞけてよむ訣には行かないで困る ブランドはよんだかね

僕はブランドにそんなに動かされなかつた今よんだらどうだかしらないが イブセンでは僕は「人形の家」と「ガブリエルボルクマン」が一番すきだ夏休の始にヴイリエ リイル アダンの「反逆」をよんだ「『人形の家』に先つた『人形の家』」と云はれる程この戲曲は人形の家と同じ樣な題材を取扱つてゐるのが面白い一八七〇年に出たのだから「人形の家」より餘程先に(人形の家は一八七九年)性の關係の問題を捉へてゐる事になる この間近郊をあるいたもうどこにも「秋」が來てゐる玉川の河原へ來たら白い磯の間に細い草がひよろひよろとはえて黃色くくれかゝつた空に流れてゐる雲までがしみじみ旅でもしてゐるやうな心もちをよびおこさせる日野 立川 豐田――玉川の沿岸の村々は獨步のむさし野をよんでから以來秋每に何度となく行つた事がある村である柿の肌が白く秋の日に光る頃になると茅葺の庇につもる落葉の數が一日一日と多くなる村の理髮店の鏡の反射にうす赤い窓の空ではけたゝましく百舌がなき跛[やぶちゃん注:「びつこ」。]の黑犬も氣安くあるいてゆく街道の日なたには紺の手甲をかけた行商人の悠々とした呼聲がきこえる村役場の栅にさく赤いコスモスの花にも小さな墓地にさく枯梗や女郞花にもやさしい「秋」の眼づかひがみえるではないか

秋が來るのが待遠い

   秋の歌

金箔に靑める夕のうすあかりはやくも秋はふるへそめぬる

秋たてばガラスのひゞのほの靑く心に來るかなしみのあり

秋風よユダヤ生れの年老いし寳石商もなみだするらむ

秋風は淸國名產甘栗とかきたる紅き提灯にふく

額緣のすゝびし金もそことなくほのかに靑む秋のつめたさ

銀座通馬車の金具ひゞきよりいつしか秋はたちそめにけむ

鳶色の牝鷄に似るペツツオルド夫人の帽を秋の風ふく

仲助の撥のひゞきに蠟燭の白き火かげに秋はひろがる

夕雨は DOME の上の十字架の金にそゝげり秋きたるらし(ニコライ)

すゞかけの鬱金の落葉ちりしける鋪石道の霧のあけ方

やはらかき光の中にゆらめきて金の一葉のおつるひとゝき

わくら葉の黃より焦茶にうつりゆくうらさびしさにたへぬ心か

 九月五日朝             龍

藤岡君 案下

 

[やぶちゃん注:「plastic」この場合は「人工的な・不自然な・創作的な」の意か。

「カラクタア」character。

「touching」感動的。

「ブランド」ヘンリク・イプセンの一八六五年作の詩劇「ブラン」(Brand )。ノルウェーの劇作家イプセンの五幕の詩劇。主人公の牧師ブランは、あらゆる妥協を排し、「一切か無か」を信条として、ノルウェー西海岸のフィヨルドの村で、理想社会の建設に精魂を傾ける。ただ、聖書だけを心の拠り所として、自分の幸福を少しも顧みない。浅薄な村長の人道主義、財産作りに余念のない母親、さては断崖の上で踊り狂っている恋人たち、総てに彼は不満で、次第に、堕落した時代全体に戦いを挑む形となる。それでも、最後に念願の新しい教会が完成するが、その時は、既に最愛の母も妻子も総て失っていた。彼は不思議な寂しさを感じ、教会を去って、雪に覆われた山へ登ってゆくが、雷鳴と雪崩のなかに倒れて死ぬ。この作は、当時の作者の戦闘的理想主義を遺憾なく発揮した奇作として、世界を驚かし、それまで殆んど無名だったイプセンを、一夜にして世界文学の第一線に押し出した作品とされる。「ブランは最上の瞬間の私自身だ」と作者は述べている(梗概その他は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

はよんだかね

「ヴイリエ リイル アダン」サンボリスムを代表するフランスの作家・劇作家ジャン=マリ=マティアス=フィリップ=オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン(Jean-Marie-Mathias-Philippe-Auguste Villiers de l'Isle-Adam 一八三八年~一八八九年)。「反逆」は一八七〇年初演の一幕物の戯曲‘La Révolte ’。好利を手に入れた夫に対して妻が去ることを宣言する反ブルジョア劇。

「豐田」現在の東京都日野市豊田附近(グーグル・マップ・データ)。

「ペツツオルド夫人」筑摩全集類聚版脚注によれば、『ハンカ・ペスツオルド夫人。東京音楽学校教師として声楽の指導をした』とある。ノルウェーのピアニスト・声楽家(ソプラノ)ハンカ・シェルデルップ・ペツォルト(Hanka Schjelderup Petzold 一八六二年~一九三七年)。当該ウィキによれば、『パリでフランシス・トメ』『とエリ=ミリアム・ドラボルド』『とマリー・ジャエルに、ヴァイマルでフランツ・リストにピアノを学んだ。パリに戻ると』、『同地でマチルデ・マルケージに、さらにドレスデンでアグラヤ・オルゲニ』『に声楽を学んだ。バイロイトではコジマ・ワーグナーにリヒャルト・ワーグナーのオペラについて学』び、『その後、ドイツでオペラ』「タンホイザー」の『エリーザベト役が好評を博』した。明治四二(一九〇九)年に来日、大正一三(一九二四)年まで『東京音楽学校で声楽とピアノの指導に携わった。夫はドイツの仏教研究者ブルーノ・ペツォルト』。多くの日本人声楽家が彼女の薫陶を受けた。昭和一二(一九三七)年に『心臓病のために聖路加国際病院に入院し、同年』八月に亡くなった。『死後、夫と共に比叡山に葬られた』とある。或いは、芥川龍之介は音楽会で彼女を見知っていたのであろう。

「夕雨」私は「ゆふだち」と読みたい。

「DOME」「ニコライ」東京都千代田区神田駿河台にある正教会の大聖堂ニコライ堂(グーグル・マップ・データ)。「ニコライ堂」は通称であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライに由来し、正式名称は「東京復活大聖堂」で「イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する大聖堂」の意である。]

 

 

大正二(一九一三)年九月十三日・京都府京都市京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣 至急・十三日 龍之介

 

敬啓

君の所から御禮狀が來たと云つて母が持つてきたからあけてみたら京都大學への轉學願と其理由書がはいつてる

多分間違だらうと思ふから早速送る いくら二度轉學するからと云つてかう迄あはてるには當るまい

序にかくが、僕のおやぢの名は道章で道昭ぢやあない 道昭では道鏡の甥のやうな氣がする

十五日からいろんな講義が始まる 英語を齋藤勇さんに敎はる 獨乙は大津さん 一體にあんまり面白くなささうだ 大學生におぢいさんの多いには驚く

時間の都合(五時迄一週中三日心理槪論がある)で曉星へも外語へも行かれない フランス語は來年迄延期しやうかとも思つてゐる

今日八木君や藤岡君にあつた

 

   そことなくさうびの香こそかよひくれうらわかき日のもののかなしみ

 

    十三日夕           龍

  井川君

 

[やぶちゃん注:「さうび」(薔薇)の〈愛人〉の喪失の苛立ちと哀しみが行間からいよよ燻ってくる。

「齋藤勇」(たけし 明治二〇(一八八七)年~昭和五七(一九八二)年)は英文学者・東京帝国大学名誉教授・国際基督教大学名誉教授・文学博士。日本に於ける英語・英米文学研究の生みの親であり、牧師植村正久に師事した敬虔なクリスチャンで日本のキリスト教界でも重鎮として信望を集めた。この当時は東京帝国大学文科大学講師嘱託に就任したばかりであった。彼は悲惨な事件で亡くなられたことを記憶している。

「大津」筑摩全集類聚版脚注は大津康とし、新全集「人名解説索引」では同人で『東大のドイツ語講師』とする。この名では大津康(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)しかいない。山梨県中巨摩郡三川村生まれで東京帝大独文科卒。日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」では『学習院、第一高等学校で教鞭を執った。大正』八(一九一九)年に『ドイツに留学を命じられるが、病気になり』、『研学の中途で帰国した』とする。ところが、筑摩の脚注では卒業を『明治四十』(一九〇七)『年東大法文科卒』としている。講師であれば、履歴に出ないのは別におかしくはないが、筑摩の「法文科」は不審。当時の東京帝国大学は文科大学と法科大学に別れていたからである。

「曉星」筑摩全集類聚版脚注は、『九段にあるフランス系カトリックの学校』とする。現在の私立暁星小学校の前身であろう。現在の地番は千代田区富士見一丁目であるが、この附近は九段の旧地名との錯雑が激しい。

「外語」旧制の公立専門学校である東京外国語学校(東京外語大学の前身)。明治三二(一八九九)年に高等商業学校(一橋大学の前身)附属外国語学校が東京外国語学校と改称して分離・独立していた。

「八木」一高時代の同級生八木実道(理三)。既出既注

「藤岡」一高以来の友人。藤岡蔵六。既出既注。]

 

 

大正二(一九一三)年九月十七日(年月推定)・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

大學の講義はつまらなけれど名だけきくと面白さうに思はるべく候今きいてゐるのを下にあぐれば 美學槪論、希臘羅馬文藝史、言語學槪論 支那戲曲講義 德川時代小說史 メレヂスのコミカル フイロソフイー、ゴールドスミスよりバアナアド シヨウに至る英文學上の HUMOUR、沙翁の後年期の戲曲に現れたる PLOT と性格、英文及英詩の FORM& DICTION 等に候堂々たるにあてらるゝ事と存候一笑大學程しかつめらしき顏したる馬鹿者の多き所はなかる可く候退屈なればなる可く出ずにうちでぶらぶらしてゐる事に致候

この頃ゴーチエをよみ候ゴーチエの著作は三十册に餘り候へど

CAPITAIN FRACASSE, M’D’LLE DE MAUPIN, ROMACE OF THE MUMMY の三卷のみ有名にて他は殆忘れられ居候三册共この緋天鴛絨のチヨツキを着た髮の長いロマンチシストの特色を現し居り一讀の値有之候へど殊に木乃伊のロマンスは君にすゝめたく候 三册のうちにて僕の最愛するはこれに候 短かけれどモーゼの埃及を去るに關係ある愛すべき LOVE-STORY に候

西鶴は持つて參つてもとりに御出下さつてもよろしく候

今日 YEATS SECRET ROSE を買つてまゐり一日をCELTIC LEGEND のうす明りに費し候

秋になり候

額緣のすゝびし金もそことなくほのかに靑む秋のつめたさ

秋たてば硝子のひゞのほの靑く心に來るかなしみのあり

「秋」はいま泣きじやくりつゝほの白き素足にひとり町をあゆむや

銀座通馬車の金具ひゞきよりいつしか秋はたちそめにけむ

埃及の靑き陶器の百合模樣つめたく秋はひかりそめける

秋風は中華名產甘栗とかきたる紅き提灯にふく

秋風よユダヤうまれの年老いし寶石商もなみだするらむ

鳶色の牝鷄に似るペツツオルド夫人の帽を秋の風ふく

わくら葉の黃より焦茶にうつりゆくうらさびしさに堪へぬ心か

そことなく秋たちしより蓼科の山むらさきにくれむとするらむ

みすゞかる科野(シナヌ)に入りぬつかのまもこのさびしさのわすれましさに (上二首信濃なる人に)

原がまゐり候 明日露西亞女帝號にて渡米 コロンビア大學に三年其後二年を歐大陸に費す由に候 仕立おろしの背廣か何かにて半日繪の話や音樂の話をしてかへり候 紐育でゴーガンのタヒチの女の復製があつたら早速送る由申居り難有お受けを致置候へど餘りあてにはならざる可く候

西洋へゆきたくなり候 誰か金でも出してくれないかなと思ひ候

一高へはいつた人から手紙をもらひ候 三年間の追憶がなつかしくない事もなく候もう一度岩本さんに叱られてみたい樣な氣にもなり候

禿頭のユンケルこそはおかしけれわが歌をみて WAS? ととひける

敎科書のかげにかくれてうたつくるこの天才をさはなとがめそ

首まげてもの云ときはシイモアもあかき鸚鵡のこゝちこそすれ

昔がなつかしいやうにやがて今をなつかしむ時がくるのかと思ふとさびしく候

そことなくさうびの香こそかよひくれうらわかき日のもののかなしみ

 十七日夜           ANTONIO

DON JUAN の息子ヘ

 

[やぶちゃん注:「メレヂス」イギリスの小説家ジョージ・メレディス(George Meredith 一八二八年~一九〇九年)。絢爛たるヴィクトリア朝式の文体を駆使し、ウィット溢れる心理喜劇風の作品を多く残した。代表作は「エゴイスト」(The Egoist :一八七九年)。早くに、坪内逍遙や夏目漱石が本邦に紹介し、特にその思想は「虞美人草」などの初期漱石作品に影響を与えていることが知られている。されば、この「コミカル フイロソフイー」とは、「メレディスの小説に於ける喜劇原理」という講義名であろう。

「ゴールドスミス」アイルランド生まれの詩人・小説家・劇作家オリヴァー・ゴールドスミス(Oliver Goldsmith 一七三〇年?~一七七四年)。主著に小説「ウェイクフィールドの牧師」(The Vicar of Wakefield:一七六六年:ドイツ文豪ゲーテは本作を「小説の鑑」と絶賛した)・喜劇「お人好し」(The Good-Natur'd Man:一七六八年初演)・喜劇「負けるが勝ち」(She Stoops to Conquer:「彼女は屈服して征服する」:一七七三年初演)。

「バアナアド シヨウ」アイルランドの文学者・脚本家・劇作家にして教育家・評論家ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw 一八五六年~一九五〇年)。英語圏に於けるマルチプルな業績で知られ、社会主義者・ジャーナリストでもあった。まさにこの龍之介の書簡が書かれた同じ年、彼はイギリス階級社会への辛辣な風刺を込めた芝居「ピグマリオン」(Pygmalion)が初演(ウィーン)されている(完成は前年)。同作は後の舞台ミュージカル「マイ・フェア・レディ」(My Fair Lady:一九五六年ブロードウェイ初演)及びその映画化作品の原作である。

「DICTION」語法。

「ゴーチエ」フランスの詩人・小説家・劇作家ピエール・ジュール・テオフィル・ゴーティエ(Pierre Jules Théophile Gautier 一八一一年~一八七二年)。かのシャルル・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)が名詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal:一八五七年初版)を彼に献辞しており(ボードレールの死後にゴーティエは追悼文と作家論を書き、それは後の新版「悪の華」の序文ともなっている)、若き日のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が愛読して英訳も行っている作家である。以下の彼の著作は、「CAPITAIN FRACASSE」が「キャピテン・フラカス」(Le Capitaine Fracasse:「フランカッセ隊長」:一八六三年)で冒険活劇小説、「M’D’LLE DE MAUPIN」は「モーパン嬢」(Mademoiselle de Maupin:「マドモアゼール・モーパン」:一八三五年)で耽美的な書簡体恋愛小説、「ROMACE OF THE MUMMY」は「木乃伊(ミイラ)の物語」(Le Roman de la momie:一八五八年)で、彼の「死霊の恋」(La Morte amoureuse:一八三六年)ともに私の大好きな幻想小説である。

「緋天鴛絨」「ひビロード」。

「YEATS の SECRET ROSE」アイルランドの詩人・劇作家で民族演劇運動から「アイルランド文芸復興」の担い手となり、モダニズム詩の新境地を拓き、二十世紀英語文学に於ける最も重要な詩人の一人と評されるウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年)の幻想作品集「神秘の薔薇」(The Secret Rose:一八九七年)。芥川龍之介は、この翌年の大正三(一九一四)年六月発行の『新思潮』(第五号。署名は目次が「柳川隆之介」、本文は「押川隆之介」)に、当該作品集中の一編である「The Heart Of The Spring」を『春の心臟』として翻訳して公開している。新字正仮名であるが、「青空文庫」のこちらで読める。これは翻訳であるが、その《老い》というモチーフに於いて、芥川龍之介の処女小説である「老年」(リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)や、初期習作である「風狂人」(リンク先は私の「《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)」で注釈附き)との強い連関が認められる。しかし、龍之介にとっては、《老い》が、常に《死》への願望傾斜と、その反発への振り子の釣り合い点を示すテーマとして、終生、纏わりつき続けたのであり、このテーマは初期の彼の文学のみでなく、芥川龍之介文学という一体全身を精緻に銀のピンセットで解剖する際の重大なマーカーの一つであると私は思っている。

「CELTIC LEGEND」ケルトの伝説。

「うす明り」芥川龍之介は別に、やはりイエーツの「The Celtic Twilight」の抄訳(芥川龍之介によるコメント附き)翻訳『「ケルトの薄明」より』(大正三年四月『新思潮』第三号。署名は「柳川隆之介」)がある(リンク先は新字正仮名の「青空文庫」版)。

秋になり候

「みすゞかる科野(シナヌ)」「水篶〔みすず〕かる信濃」「水篶〔みすず〕かる」は信濃の枕詞(但し、近世以降)。「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 いはな」の私の注の冒頭の太字部分を参照されたい。「信濃」の原型「科野」の表記は「古事記」に現われ、その初期の読みも「しなぬ」である。

「信濃なる人」不詳。二人の可能性までは考えたが、特に示す必要はなかろう。

「原」原善一郎(明治二五(一八九二)年~昭和一二(一九三七)年)三中の一年後輩。神奈川県生まれ。横浜の大生糸商・貿易商であった原富太郎(号・三渓)の長男として生まれた。三中から早稲田高等学院に進み、そこを卒業したこの年、アメリカのコロンビア大学に留学した。祖父の原善三郎の養子となり、原合名会社副社長となり、家業を継ぐ一方、横浜興信銀行・「帝国蚕糸」の重役を務めた。他にも美術・文学の後援者としても知られ、岸田劉生・阿部次郎・和辻哲郎・安倍能成とも親交があった。ここでは龍之介が彼に羨望の眼を向けつつも、かすかにその軽薄な感じを蔑視している雰囲気が感じられる。「西洋へゆきたくなり候 誰か金でも出してくれないかなと思ひ候」とは、龍之介が実は生涯感じ続けたならぬ夢だったのである。せめても彼に舞い込んだのは、「毎日新聞社特派員」としての中国への旅だけであった。

「露西亞女帝號」不詳。エカテリーナが一番しっくりくるが。当時の日米航路の船名には見当たらない。

「岩本」一高のドイツ語及び哲学担当の教授岩本禎。既出既注

「ANTONIO」何となく「AKUTAGAWA」のアナグラムっぽい感じはする。

「DON JUAN の息子」ドン・ファン(スペイン語:Don Juan:十七世紀のスペインの伝説上の人物で、ティルソ・デ・モリーナ(Tirso de Molina 一五七九年~一六四八年)の戯曲「セビリアの色事師と石の客」(El burlador de Sevilla y convidado de piedra:英訳 The Trickster of Seville and the Stone Guest )が最も完成した基原作。美男で好色な放蕩的な人物として多くの文学作品に描かれ、「プレイボーイ」「女たらし」の代名詞としても使われる(「ドン」はスペイン語圏等における男性の尊称))。]

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