譚海 卷之三 知恩院の風箏
○東山知恩院本堂の軒に、風箏(ふうさう)を掛られてあるといへり、此外に他所に風箏ある事をきかず。傘ある事は世人殊に口碑にする事なれども、風箏の事は沙汰なし。
[やぶちゃん注:「風箏」通常は風鈴を指す語であるが、これは京の知恩院の御影堂正面東側の高い軒裏にある「左甚五郎の忘れ傘」と呼ばれるものを指す。知恩院本堂は寛永一六(一六三九)年五月に家光の命によって再建され、現在の本堂がその時のものであるが、確かに知恩院の公式サイトのこちらを見ると、不思議な骨だけになった傘の柄のようなものが見える。一説に、これは「風箏」という風で音を出す一種の建築装飾物であるともされる。以上の公式サイトの解説には、『知恩院に伝わる七不思議の中で最も有名なものといえば、「忘れ傘」でしょう。見上げて、よく目をこらしていただければ、既に骨だけとなった一本の傘の先が目に入ります。何故こんな人の手の届かないところに傘が忘れられているのでしょうか。これには二通りの伝説があります』。『一つは、江戸初期の伝説の名工・左甚五郎(ひだりじんごろう)が御影堂を建てた際に、魔性をさえぎる力があるとされた傘を魔除けとして置いていったのだという説。この左甚五郎は、実在の人物とも、腕利きの彫刻職人の象徴化された存在だろうともいわれ、落語や講談などで多くとりあげられている人物です』。『もう一つ』、『興味深いのが、御影堂再建以前の地に住んでいた白狐が置いていったという説』で、『今の御影堂が当山第三十二世の霊巖(れいがん)上人によって再建され、その落慶法要という時、大雨の中に傘を持たない童子が』、『ずぶ濡れになってやってきました。この童子は実は白狐の化身で、住処を追われたことを恨みに思い、仕返ししようとやってきたのですが、霊巖上人の法話を聴いている内にすっかり改心してしまいました。そして、霊巖上人が貸してくれた傘を軒裏に置き、「これからは知恩院を守る」という証を立てたのでした。霊巖上人は白狐を濡髪童子(ぬれがみどうじ)と名づけ、山上に濡髪堂を建立し、篤くお祀りしたといいます。この濡髪堂は、その語感からか、今では縁結びをはじめ、さまざまな願い事をする若い人々の参詣が絶えません』とある。]