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2021/02/02

只野真葛 むかしばなし 電子化注始動 / 序・(1)

 

[やぶちゃん注:只野眞葛の「むかしばなし」の電子化注を始動する。彼女については、私の「只野眞葛 いそづたひ」のブログ版、或いは、同縦書ルビ附PDF版の私の冒頭注、及びウィキの「只野真葛」を参照されたい(長男早逝の脱落以外はよく書けている)。

 本書は所持する現在の最新の校合テクスト(但し、新字体)である一九九四年国書刊行会刊の「江戸文庫 只野真葛集」(鈴木よね子校訂)所収の東北大学附属図書館医科分館蔵底本ものを用いたが、恣意的に漢字を概ね正字化し、読み易さを考え、句読点や記号を補い、適宜、段落を成形した。また、殆ど読みがないので、底本の読みは《 》示し、甚だ難読或いは誤読し易しと判断した部分は、私が( )で読みを添えた踊り字「〱」は正字化した。【 】は原本の傍注・頭注・割注である(その違いはそこで示した)。ストイックに注を附した(纏めて段落の後に附したものの後は一行空けた)。標題などはないので、通し番号でソリッドな部分と判断した箇所で切って分割して示す。なお、疑問の箇所は、所持する底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の中山栄子氏校訂(正字版)と校合した(正字正仮名のこちらを底本としなかったのは、本篇には漢字の使用が少ないこと、大形本であるため、OCR読み込みに少し面倒であったからに過ぎない。また、個人サイト「伝承之蔵」で画像化されている「仙臺叢書」第九巻(仙台叢書刊行会編大正一四(一九二五)年九月刊)の「昔ばなし」(正字正仮名。底本明記がないが、底本と同一(以下に示した)と鈴木氏は推定されておられる)も参考にした。

 底本解説によれば、底本の親本は文化九(一八一二)年序で、文政二(一八一九)年筆写になる六巻三冊本の佐々城直知編「朴庵叢書」所収で東北大学附属図書館医科分館所蔵のものが使用されている。なお、標題は冒頭で「昔ばなし」と出るが、底本の総表題に従った。

 同じ鈴木氏の解説に従うと、本篇の執筆は真葛(本名あや子)が『仙台へ移ってから』(寛政九(一七九七)年あや子三十五歳の時に仙台藩上級家臣只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称、只野伊賀)と再婚することとなったが、その頃、行義の江戸定詰が終わっていた)『十四年後の文化八年辛未』(かのとひつじ)『(一八一一)、四十九歳の冬から書き始められ、翌年春』に『完成した』とされ、『当時』は、仙台藩江戸詰の医師であった父平助も、父が工藤家の将来を託した弟源四郎も亡くなっており、『工藤家は母方桑原』(くわはら)『家のいとこが養子になって相続していた』。当初の『執筆の動機は、母の思い出を妹のために書き残すためであった』『が、しだいに父の実家長井家や養家工藤家の先祖のこと、また工藤家と桑原家の紛争や、その原因として〆(しめ)という』『母方の』『叔父の乳母の怨念が書かれるようにな』り、『そして自分自身の江戸での思い出や聞き書き、さらに巻五・六で奥州での聞き書きも加わり、膨大な内容になっていく。そのうち』の『奥州での聞き書きは、後年『奥州ばなし』に発展する。なお、どうしたわけか系譜と相違し、母方祖父が孤児であったという話を書いている』とある。ここに出る実録怪奇談集「奥州ばなし」はこの前に本カテゴリ「只野真葛」で既に電子化注を終えている。]

 

 

昔ばなし 壱

 

 此「むかしばなし」を書し故は、おてる、其地に有し時、そなた樣として、

「故御母樣の御氣質、いかなるや、少しもしらず。」

とて、なげきあはれしと聞し故、

『實(げに)。我ならでしる人もなし。おもひいづるまにまに、書つらねて、みせ參らせん。』

とは思ひしかど、とかく、まぎれて有しが、去(さる)冬の頃より、おもへたちて[やぶちゃん注:ママ。「仙台叢書」では「おもひたちて」とある。]、かたはしを、物に書付おきしを、この春、書あつめて奉るなり。

 桑原家のことより書出(かきいだ)しは、もはら、故母樣のことを、いはんためなり。

○御樣などの事、わづらはしければ、おほくは略す。私には「ワ」を印とす。

 さて、萩君のために「むかしばなし」をあやなして、有し世のことをおもひまわせば、人の代のみじかきをなげき、我代のながきにあまり、あや子寶曆十三年癸未(みづのとひつじ)に生(うまれ)て、この文化九年申にいたりて、五十のよわひをたもてり。母は今年をへて世をさり給ひし。ワは、今いく年をか、へぬらん、末遠くぞおもはるゝ。

 工藤家の、たえはてたるを、「〆《シメ》があく念なり」といふは、この文をあやなすによりて、おのづから、世がたりに聞(きき)ふれしあく念の、あだをなすかたちに似たる故、しか、おもひよれり。

「人の念ほど、おそろしきもの、なし。佛者はことにおそるゝもの。」

と、父君の被ㇾ仰(おほせられ)しをおもひ出られたり。

 

[やぶちゃん注:「おてる」長女であった真葛の末の妹(五女)照子(撫子:彼女の兄弟姉妹は両親によって「秋の七草」の草花に喩えた別称を持っていた)。中目家に嫁した。真葛より二十三も年下であった。

「故母」父平助の妻は同じく仙台藩医であった桑原隆朝の長女遊(ゆう 元文六/寛保元(一七四一)年?~寛政四(一七九二)年:名は不明ともされる)。彼女の死後、平助は奥野氏の娘を後妻に迎えている。

「桑原家」ウィキの「只野真葛」によれば、『母方の祖父は、仙台藩医桑原隆朝』(りゅうちょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年)で、元文五(一七四〇)年に二〇〇石で『仙台藩に召し抱えられ、第』六『代藩主伊達宗村(吉村四男)の』時、四百『石に加増された』。彼の『妻桑原やよ子(生没年不詳)は『うつほ物語』の紀年(年立)を考察し、安永年間』(一七七二年~一七八〇年)『に研究書』「宇津保物語考」を著わすほどの『高い教養の持ち主であり、両親に厳しい家庭教育を施されたあや子の母』もまた、「古今和歌集」「新古今和歌集」「伊勢物語」などを暗唱し、「大和物語」を『繰り返し読むなど』、『古典文学に造詣の深い女性であった』。『なお、母の弟』『純の娘で、あや子からは従妹にあたる桑原信(のぶ)は伊能忠敬の後妻となっている』とある。

「萩君」平助四女の拷子(たえこ)のこと。未婚で通した。真葛とは年齢が近かったようである。「日本庶民生活史料集成」の中山氏の注によれば、当初は』『田安家』の娘の侍女として『仕えたが、姫君が松平定信に輿入されたのでその御付人となって松平家に仕え』、侍女筆頭職である『御老女となった。その姫君が死去されたため』、文化九(一八一二)年に剃髪し、『「離性院」と号して引続き同家に仕えた』(底本の鈴木氏は「萩尼」と号したとするが、これは出家前の通称を用いたものであろう)。曲亭馬琴に特異な論考「独考(ひとりかんがへ)」(文化一四(一八一七)年完成)や「奥州ばなし」・「磯づたひ」(孰れも電子化注済み)を姉から頼まれて届けたのは彼女である。中山氏の注では最後に、『筆蹟の巧さは姉よりもすぐれていると馬琴も批評し』、『世にも稀な姉妹であると才能をたゝえている』とある。序のこの部分から、本書の執筆動機が彼女に母遊の思い出を語り伝えるためであったことが、ここで判る。ただ、ここにはテクスト上の問題点がある。底本は「萩君のたあめに」なのだが、「日本庶民生活史料集成」では『萩君失のために』で、中山氏は注で『萩のお仕え申し上げていた奥方の君が亡くなられたためにの意である』とされ、「仙台叢書」では、『萩君失のために』となっているのである。中山氏の解釈は、まあ、親しく侍したお方の死を前に失意の底にある彼女のために懐かしい母の思い出話をという気持ちは判らぬではない。しかし、それを『萩君失のために』と記すかというと、私にはやや書き方が省略に過ぎて不審に思われるのである。しかも、「君」と「失」は崩し方によっては、酷似して見える。ここは私は底本通りでよいと考えている。

『私には「ワ」を印とす』「私」と書くのが煩わしい(漢字表記の「私」を好まなかったか)示すのに省略した「ワ」を用いるとしたもの。「日本庶民生活史料集成」では、ひらがなで「わ」となっている。しかしこれは読み難い。こちらを選ばなかったのもそのためである。

「〆《シメ》」冒頭注の鈴木よね子氏の引用を参照されたい。以下の冒頭から、ガッツリ語られてゆく示準化石の如き因業婆である。]

 

 

むかしばなし

 

 桑原のぢゞ樣・ばゞ樣は、ぎやうぎ、あくまで、よく、めぐみふかく、召使はるゝ人をも、末々まで、よく御せわ被ㇾ成(なされ)り。かゝ樣には、乳母ありしや、手そだてに被ㇾ成(なされられ)しや、しらず。をぢ樣のうばは「〆」にて、御ぞんじなるベし。

 末に妹子壱人有しが、五ツの時、「ほうそう」おもく、ぢゞ樣は仙臺御供にて留守の時、なくなられしとなり。

 此妹、分(わき)て「はつめい」なる生(うまれ)にて、四(よつ)のとし、百人首を、一ペんよめば、せんべい一枚、御ほうびいづるを、一度(ひとたび)よみしまひて、

「今一ぺん、よみませう。」

といひしを、かか樣、ふびんにおぼしめされしと、御はなしなり。

 其妹のうば、しごく孝子にて、わづかいたゞく小づかひの内を、半(なかば)分(わき)て、母におくりしとなり。其こゝろざしを御哀みありて、妹子なくなりて後も、御せわ被ㇾ成て、御やしき内のやどもりに被ㇾ成しとなり。

 はじめは、隨分、實ていなりしが、不仕合(ふしあはせ)には、夫(をつと)をなくし、後ぞひを入(いれ)しに、其夫、わるものにて、母をあしく仕出(しいだ)せしに、

「夫の心にしたがふは、習ひ。」

といひ、つひつひ[やぶちゃん注:ママ。]、おなじ心に、母をつらくあたりて、末後【終時。】[やぶちゃん注:傍注。]などには、ろくに介抱もせずして終らせたり。

 さやうのあく夫(ふ)、やど守をも、自欲にしくじりて、御やしきをも、おひはらはれ、其後、おともせで有しが、五、六年過て、誠に袖ごひ・こぢきのごとくのていとなりて、御やしきに來り、

「今更、御はづかしく候へども、夫もなくし、いたし方なし。何卒御じひに御めぐみ戴(いただき)たし。」

と、ねがひしとぞ。さすがふびんにおぼしめし、錢二百文、被ㇾ下しを、よきことゝおもひ、度々、願(ねがひ)に來りしが、

「餘り、人目もいかゞし。」

とて、御門をとゞめて、いれぬやうにしたりしが、ほど有て、

「是が一生の願おさめなり。こぢき尼に成て、人にものもらふ爲、衣の奉加。」

と願しとぞ。「此後たしかに御ねだりごと申上まじく」といふ證文とりて、金百疋被ㇾ下しが、其後のこと、しらず。

 この、なりさがりたるていたらくを御覽有し故、

『こぢきになりさがる程の人は、其所業(しよぎやう)、さぞ、あらん。』

と察しられて[やぶちゃん注:ママ。「日本庶民生活史料集成」も「仙台叢書」も同じ。]、ものとらすること、御きらひにならせられしと、母樣、つねに被ㇾ仰(おほせられ)し。

 〆は、あのごとくの氣かさもの、仕こなしよく、上々の首尾なりし内、中元淸兵衞と、不義有て、身重(みおも)になりしを、右淸兵衞も不事なるもの故、〆が爲に御とりたてとなりて、だんぼうに被仰付、夫婦、つとめに、いやまし、いきほひ、よかりしなり。

 桑原御二方(おふたかた)は女の子御好(おこのみ)にて有しうへ、母樣は、はじめの御子(おこ)にて、殊に御ひぞう、をぢ樣は男にて、

「いふことを、きかぬ。」

とて、不首尾にて有しとぞ。一(ひとつ)家内のこと、一(ひとつ)として、〆が心にまかさぬことはなけれど、只、是ばかり、あかぬことゝや、おもひけん、工藤・桑原、何となく不快のもとは、〆が、せしことなり。

[やぶちゃん注:「桑原のぢゞ樣・ばゞ樣」真葛の母の父である仙台藩医桑原隆朝(りゅうとう)と、その妻やよ子(生没年不詳)。

「をぢ樣」遊の実弟の純。その乳母が「〆」である。

「〆」「日本庶民生活史料集成」の中山氏の注に、『桑原家に仕えた乳母の名前。しめとよぶ悪女で、工藤家―真葛の生家――と桑原家の不仲の原因をつくり、工藤家を滅』ぼ『したのもこの女の悪念によるものであると、文中各所に〆の名が見える』とある。

『末に妹子壱人有しが、五ツの時、「ほうそう」おもく、ぢゞ樣は仙臺御供にて留守の時、なくなられしとなり』誤読し易いが、ここは遊には末の妹が一人あったけれども、五歳の時に疱瘡(天然痘)が重くなり、爺様(桑原隆朝)はこの時、丁度、仙台へ藩主様のお供を成されて留守であったが、その間にその妹は亡くなったということである、の謂いである。

「百人首」[やぶちゃん注:ママ。]「を、一ペんよめば、せんべい一枚、御ほうびいづるを、一度よみしまひて」『「小倉百人一首」の百首を総て間違えることなく、落とすことなく、一遍でそらで詠んだら、煎餅一枚を褒美に出しましょう』と言われて、見事に百首をすらすらと詠み終えた後に。

「やどもり」桑原家の屋敷の下女としての留守番役。

「自欲にしくじりて」「自(おのづ)と、欲(よく)にしくじりて」(自然に、我欲のために大きな失敗をしてしまい)であろう。

「衣の奉加」「ころものほうが」で、「せめても襤褸ならざる着衣を求めんがために、どうか、御寄附を」の謂いであろう。ここまで堕ちて行くこの妹の乳母も、以下、語られてゆく弟の乳母「〆」とともに、ある意味、凄絶ではある。

「いかゞし」は「いかがしならん」の後略として、強意の副助詞「し」ととっておく。「日本庶民生活史料集成」では「し」はない。

「中元淸兵衞」不詳。

「不事」思いがけない出来事。しかし、妊娠をかく言うかね?

「だんぼう」正しい歴史的仮名遣は「だんばう」で「なんばう」とも称し、「男房」と書く。「女房」に対する語で、本来は局 (つぼね) を与えられて宮中に仕えた男子、特に蔵人 (くろうど) を指した。ここは「貴人に仕える男子」の意で、藩方の藩主家系の側役となったのであろう。]

 

○おぢ樣、五、六ばかりのことゝぞ。母樣と、ほうせん花の苗を、鉢植にて手々(てんで)に御持(おもち)、日ごとのなぐさみに、

「どちらが、そだち。」

と、御あらそひ被ㇾ成しに、をぢ樣のかた、かくべつに、葉色こくて、莖、ふとくそだち、母樣のかたは、色うすく、やせやせとして有しとぞ。

 然るに、母樣のかた、丈(たけ)ひくゝて、つぼみ、いでしに、をぢ樣のは、木づくろひばかりして、花、さかず、

「おれがのは、花が、さかぬ、さかぬ。」

と被ㇾ仰しを、〆、はらだちて、引ぬきて、すて、外より、おほきなほうせん花の、おほく咲たるをもらひて、うゑたりしとなり。〆が、たしかに、かくして、やしない[やぶちゃん注:ママ。「仙台叢書」も同じ。]をせし故のことなるべし。かやうに、かりそめごとにも、いどましき心有しとなり。

[やぶちゃん注:「そだち」ママ。「日本庶民生活史料集成」・「仙台叢書」は「そだつ」。

「やしない」ママ。「日本庶民生活史料集成」・「仙台叢書」も同じ。ここは叔父の養全般の意で通る。

「いどましき心有し」「挑ましき」で、叔父(ひいてはその乳母たる〆)は何事にも異様な競争心を持っていた、の意。]

 

○桑原の家ふうは、あくまで行儀高(ぎやうぎだか)にて、朝夕の膳の時も御子たちは、きらいの物有ても、やわり、膳に付たるまゝにて、くはず、他の菜《さい》も、たとめぬことなり。をぢ樣には、とふふなす・さゝげなど、きらいにて、常に菜なしに上りしこと、おほし。

 〆、内心に、是を『にくし』とや、おもひつらん、夜食には香の物か、さなくば、ひしほ・醬油のみなど、二方(ふたかた)とも、御齒(おんは)、あしければ、なめものにて上(あが)るなり。其なめ物の皿に、折々、とうがらしの粉《こ》、いりて、母樣へばかり、上(のぼ)りしこと有しを、母樣、

「ひしほが、からい。」

と被ㇾ仰(おほせらるれ)ば、御二方は、

「何、からいことが有ものだ。やかましく、いはぬもの。」

と、御しかり有れば、〆は、罷出(まかりいで)て、

「私が、あらつて、つけて上(あげ)ましたもの。どうして、からい、はづが、ない。」

と、申上れば、母樣の「からい」と被ㇾ仰しが「わるい」になる故、後には、『からき』と思へば、あがらずに、只、おかせられし、となり。一しなの菜が、からければ、素(す)めしを上(あげ)んきわめ故、をぢ樣、常々、菜なしにて、意趣に、〆が入て上しを、其ほどは、『何故にからき』といふ御心付(おこころづき)もなかりしが、後(のち)、御考(おかんがへ)被ㇾ遊(あそばさる)るに、

「〆が惡事に、たがひなし。」

と被ㇾ仰し。

 かりそめのことにも、『をぢ樣、よかれ、母樣、あしかれ』と、のろふ心たらざりし故、工藤家へいらせられし初(はじめ)より、『墨付のあしきやう、家ものするやうに』とおもふ、惡、心底に有て、喧嘩づらにてかゝりし故、便(たより)の有(ある)度(たび)に、母樣、氣の毒におぼしめすやうなこと有しと被ㇾ仰し。されど、桑原御二方も、其通(とほり)、ぎやうぎたかく、人がら、よし。工藤のばゞ樣、たぐひなく、さばけたる御人なりし故、ことなく、すみしなり。

 〆がために、母樣、御くろう被ㇾ遊しこと、おほし。

 父樣・をぢ樣の、何となく、『けち付(つけ)たし』とおもはれしも、〆が懷(ふところ)に、そだてられし故なり。

[やぶちゃん注:「行儀高」日常の行儀に厳しいこと。

「やわり」「日本庶民生活史料集成」・「仙台叢書」は「やはり」。

「たとめぬ」ママ。「日本庶民生活史料集成」・「仙台叢書」は「もとめぬ」。

「とふふ」ママ。豆腐。

「きらい」ママ。

「のろふ心たらざりし故」「日本庶民生活史料集成」・「仙台叢書」は「たえざりし故」。但し、「足らざりし」でも、呪う心に際限がなく、満足することがなくて、でもおかしくはない。]

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