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2021/02/03

芥川龍之介書簡抄8 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(1) 八通

 

明治四五(一九一二)年一月一日・新宿発信(推定)・山本喜譽司宛(葉書)(転載)

 

春寒未開早梅枝  幽竹蕭々垂小池

新歲不來書幄下  焚香謝客推敲詩

 壬子元旦            芥川生

 

[やぶちゃん注:年賀状。同日附で井川恭(彼については後述する)に出したものでは、漢詩が、

 

春寒未發早梅枝  幽竹蕭々匝小池

新歲不來書幌下  焚香謝客獨敲詩

 

とある。私は既にブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で「芥川龍之介漢詩全集」を成し、サイト一括版「芥川龍之介漢詩全集」も公開してある(但し、九年前のもので漢字の正字化に不備がある)。そのブログ版の第一回でこの漢詩を挙げて訓読と注をしてあるので、そちらを参照されたい(今回、このブログの第一回分については一部の不全だった漢字を正字化しておいた)。なお、芥川龍之介はこの年の三月一日で満二十歳となった。]

 

 

明治四五(一九一二)年一月六日・消印内藤新宿局・神田區猿樂町一丁目二番地永井樣方 小野八重三郞樣(転載)

 

昨夜は失禮致候

「あつたつた」が「あつたんだ」にひとしきや否やまだはつきりわからず候へども若しひとしとすれば「んだ」=「のだ」=「なり」故完了ならずして決定の助動詞なるべく候 又ひとしからずとするも「あつたつた」が獨立して働く場合―例へば「本があつたつた」―があるかどうか どうもないやうな氣が致し候へども如何にや 所詮「あつたつた」は過去の完了として充分なる資格を備へないやうに思はれ候へどもこれも如何にやに候

「ませ」及「ましか」は矢張感じの上よりも形式の上よりも區別することは出來ないやうに思はれ候 形式の上より云ふ時は共に下にて「まし」に應じ稀に「べかり」に應ずべく感じの上より云ふ時は下の二文に於て

 1 げにかうならませしかばいかに心細からまし

 2 松立てる門ならませば訪ひてまし

考ふるも殆何等の差別も感ぜざるべく候(もとより一は「ませば」と云ひ一は「ましかば」と云ふことばの差異より來る微細な感じの相違を除きて)或は感じの上よりと云ふより意味の上よりと云ふ方適當とも存じ電車の中にて考へた事をだらしなく書き候 これも暇にまかせてのいたづらがきなるべく笑はれてもよろしく候 匆々

 

[やぶちゃん注:「小野八重三郞」(明治二六(一八九三)年~昭和二五(一九五〇)年)は東京生まれ。府立三中時代の一つ下の後輩で、後、東京帝国大学理科を中退、県立千葉中学校などの教諭を勤めた。龍之介はこの後輩を可愛がり、期待をかけていたという。彼の三中卒業時には自身が河合栄治郎(三中の龍之介の二年先輩で後に経済学者となった)から贈られたドイツ語独習書を贈っている(以上は新全集の関口安義氏の「人名解説索引」に拠った)。

「あつたつた」不明。私は使ったことがない(「やってやったぞ!」というのを「やったった!」と言ったことは幾らもある。考えてみると、これはまさに自己意志の決定の完了の意である)。調べてみると、「あったんだ」の意で東北弁としてある。私が発見したのは岩手釜石の事例で、「発信!方言の魅力―語(かだ)るびゃ・語(かだ)るべし青森県の方言 2018―」(平成三一(二〇一九)年二月・弘前学院大学文学部・「今村かほる研究室」作成の資料(報告書)・PDF)の五話目の「五徳と犬」北村弘子氏の語りの中に『ッさあァ~その夜ゥ、弘法様ァ旅籠さ泊まっだど』。『でェ、囲炉裏端っこさァ、へでねまって〈座って〉みだっけェ、その傍さしとぐ(四徳)あったったど』である。

「げにかうならませしかばいかに心細からまし」これは「源氏物語」(例えば「若紫」の、光の君が「おはせざらましかば、いかに心細からまし」等)っぽい例文である。

「松立てる門ならませば訪ひてまし」これは書信の時期から龍之介が作文したものであろう。]

 

 

明治四五(一九一二)年三月二十八日・消印内藤新宿局・神田區猿樂町永井方 小野八重三郞樣・(葉書)(転載)

 

   春かなし靑く濁れる朝の空に白木蓮の强き香をはく

 

試驗は三十日迄 今日歷史 Arabia Bgadad 王朝の學術を敍述せよと云ふ問題に大になやまされ候 明日岩本さんの獨乙語 明後日英語 木蓮は僕のみないうちにちつてしまふかもしれないと思ひ候

先生によろしく願ひ候 不悉

    二十八日午後         龍生

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の自作短歌所収の書信として特に引いた(以下の二通も同じ)。歌の後を一行空けた。

「岩本」岩元禎(てい 明治二(一八六九)年~昭和一六(一九四一)年)の誤記。一高のドイツ語及び哲学担当の教授。士族の長男として鹿児島県に生まれ、明治二二(一八八九)年に鹿児島高等中学造士館を卒業後、明治二十四年に第一高等中学校(第一高等学校の前身)本科を卒業し、明治二十七年の東京帝国大学文科大学哲学科(ラファエル・フォン・ケーベルに師事)卒業後は、大学院に在籍しつつ、浄土宗高等学院(現在の大正大学)でドイツ語と哲学を、高等師範学校で哲学を教えた。明治三二(一八九九)年から第一高等学校でドイツ語を教えたが、極めて採点が厳しい名物教授として知られ、安倍能成や山本有三らは、岩元の採点によって落第の憂き目を見た学生であった。学習院高等科時代の志賀直哉に家庭教師としてドイツ語を教えていたこともあったという。一高では、哲学の授業も担当し、授業の冒頭で述べ、且つ、教科書の表紙に書かれていた自身の言葉に「哲學は吾人の有限を以て宇宙を包括せんとする企圖なり」がある。著書に「哲学概論」(没後の編)がある。以上は彼のウィキに拠った。そこでも一説としてあるが、岩波新全集の関口氏の「人名解説索引」にも、かの夏目『漱石の「三四郎」の広田先生のモデルとされる』とある。]

 

 

明治四五(一九一二)年四月一日・消印二日・東京區牛込赤城元町加賀樣方 山本喜譽司樣 (葉書)

 

   旅人よいづくにゆくやはてしなく道はつゞけり大空の下

 

今日朝八時東京發大月下車七里の道を下吉田に參り候 空晴れて不二の雪さはやかに白く其處此處の山畑には桑の枯枝の下に菜の花の黃なるを見うけ候 宿の名は小菊 寒氣つよく炭火をあかく起したるをかこみて之をかき候

   四月一日            龍

 

[やぶちゃん注:龍之介はこの試験明けの翌日四月一日、午前八時に西川英次郎とともに、大月・静岡大宮方面の旅行に出かけ、ここにある通り、この日は下吉田に旅宿した。次の書信で判る通り、三日には富士の裾野を廻って静岡大宮に滞在している。本当に芥川龍之介は旅好きだ。]

 

 

明治四五(一九一二)年四月三日・消印「靜岡大宮局」・神田猿樂町永井方 小野八重三郞樣(転載)

 

   一しきり花白蘭の風にほふ木挽の小屋に鶯をきく

   うす靑き初春の空やほの白う雪の山見え野は花菜さく

   鶯の聲の流るゝ水色の空にけむれり樺の若芽は

 

裾野を半周して大宮に至る

   四月三日            龍

 

 

明治四五(一九一二)年四月十三日(推定)・山本喜譽司宛(封筒欠)

 

君が此手紙を見る時はもう僕が芝についてる頃だらうと思ふ

あれから家へ歸つて君にあつた事を話したら「御前とは違つて感心だ」と云つた「御前とは違つて」には驚いた

僕も家中つれて御花見に行かうかと思ふ 君をもつた御祖母さんが羨ましい

石崎が農科へ行くさうだ 農科流行だね 僕の方は依然として僕一人だ

殊に三中開闢以來未だ一人も通つたものがないのだからな

歸つて見たらヒヤシンスの花が細々と紫と白に咲いてゐた さびしい花だ

マアテルリンクの Blue bird をよむだ 二百四十頁を二日で讀ンだのだから NO よむ氣になつたンだから面白さがしれると思ふ 芝居も見たくなつちやつた 歌舞伎の番附を見たのも動機の一かもしれない

此頃は大分荷風の享樂主義にかぶれちやつた

最後に御願がある 一昨年の九月にあげた手紙は破るか火にくべるかしてくれ給へ どンな事を書いたか今になつて考へると殆取留めがない さぞ馬鹿々々しい事が書いてあつたらうと思ふ

何となく氣まりが惡いからどうかしちやつてくれ給へ 切に御願する

    十三日夜  芝へかへる十分前  龍

   喜君

 

[やぶちゃん注:この手紙の最後の部分の前年の書簡とは、或いは「明治四四(一九一二)年 十一日(年次推定)・山本喜譽司宛(写し)」を指すのではないか? と私が推理したものである。

「マアテルリンクの Blue bird をよむだ」龍之介は二年前の明治四三(一九一〇)年四月二十三日の同じ山本宛でも、メーテルリンク(そこではかく表記している)の中の「光」の精の台詞英文引用を記し、「青い鳥」を読むことを彼に強く勧めているのがちょっと不審だが、或いは、その時のものは抄訳の英訳本だったのかも知れない。]

 

 

明治四五(一九一二)年六月二十八日・井川恭宛(封筒欠)

 

井川君   六月廿八日午後 東京にて 龍

新聞を送つて下すつて難有う 幾日か君の歸鄕の道すぢをよむことが出來るのを樂みにしてゐる、

讀書三昧所か 每日半日は何かしら用が出來てつぶされてしまふ せめて七月にでもはいつたら少しは落つける事だらうと思ふ

廿六日の晚 OPERA をみに行つた 僕の行つた晚は Tanner と云ふ人の THE QUAKER GIRL と云ふ出し物だつた

每日曲がかはるので 廿九日にはあの Musume をやるんださうだ 見物には西洋人が可成澤山きてゐた 三等にさへ夫婦づれが二組來て居たと云へば BOX ORCHESTRA STALL に澤山きてゐたのはしれるだらう

藤岡君と一緖になる 豫想してゐたより割合に下品でその上豫想してゐたより遙に話す言葉がわからない、笑はせる事は隨分笑はせる 僕のうしろにゐた米國人らしい女なんぞは、黃色い薔薇の造花をつけたパナマの大きな帽子が落ちはしないかと心配するほど笑ふ PINK の襟飾をつけた品のいゝその亭主も時々笑ひ聲を何段にも鼻からきつて出す、唯不快だつたのはupper circle や gallery にゐる三等四等の日本人が偶[やぶちゃん注:「たまたま」。]、拍手さへ長くつゞけてゐれば必俳優はその技を何度でもくりかへすべき義務があるものと盲信して ENCORE の拍手を長々と何時までもやつてゐる事であつた

はねて明い灯のついた玄關を外へ出るときに 淺黃繻子の地へ雲と龍と騏麟との刺繡をした支那めいた上衣の女を見た その下から長くひいた淡黃色の JUPON も美しい、つれのもつとぢみななりをした年よりの女と自動車まで話しながら步いてゆくのである 話は英語のやうだつた、――OPERA よりもこの女に一人あつたので 餘程西洋らしい心もちがした、

廿四日か三日に寮へ行つた 敎室では札幌農大の試驗をやつてゐた あの廊下の練瓦の壁に貼つてある數學の問題をみると大槪やさしい 寮には鈴木と八木と黑田と根本がのこつてゐた 藤岡はときくと西寮の三階に獨りで住んでゐるのだと云ふ anchorite みたいだなと思ふ

今はもう皆國へかへつてしまつた 藤岡君だけは卅日頃かへると云つてまだのこつてゐる あの白い壁へ殆半年ばかりぶらさがつてゐた新島先生も もう鈴木の行李の底へはいつて仕舞つたらう Adieu

 

[やぶちゃん注:この六月下旬に学年末休暇に入り、龍之介は自宅に帰っている。

「井川恭」(いがは(いがわ)きょう 後に婚姻後に「恒藤」(つねとう)と改姓 明治二一(一八八八)年~昭和四二(一九六七)年)は島根県松江市で次男として生まれた。芥川龍之介とは一高時代の同級生で、後に京都大学法科に進学し、法哲学者として同志社大教授・京大教授(昭和八(一九三三)年の「京大事件」で自ら退官。戦後に復帰)・大阪商科大学長を務めた(彼は内臓疾患と思われる病気で中学卒業後三年間の療養生活を送ったため、龍之介よりも四歳年長である)。芥川生涯の盟友となり、彼の失恋の傷心を慰め、自死に向かう彼の晩年にも種々の気遣いをした、龍之介を語る上で非常に重要な人物である。先の年賀状を除くと、旧全集では彼への書簡の最初は本篇である。先に出した「學校友だち」(大正一四(一九二五)年二月発行『中央公論』)で、龍之介は以下のように記している。

   *

 恒藤恭 これは高等學校以來の友だちなり。舊姓は井川。冷靜なる感情家と言ふものあらば、恆藤は正にその一人なり。京都の法科大學を出、其處の助敎授か何かになり、今はパリに留學中。僕の議論好きになりたるは全然この辛辣なる論理的天才の薰陶による。句も作り、歌も作り、小說も作り、詩も作り、畫も作る才人なり。尤も今はそんなことは知らぬ顏をしてゐるのに相違なし。僕は大學に在學中、雲州松江の恆藤の家にひと夏居候になりしことあり。その頃恒藤に煽動せられ、松江紀行一篇を作り、松陽新報と言ふ新聞に寄す。僕の恬然と本名を署して文章を公にせる最初なり。細君の名は雅子、君子の好逑[やぶちゃん注:「かうきう(こうきゅう)」。良き連れ合い。]と稱するは斯る細君のことなるべし。

   *

この「松江紀行一篇を作り、松陽新報と言ふ新聞に寄す。僕の恬然と本名を署して文章を公にせる最初なり」は二〇〇六年に私が公開した『芥川龍之介「松江印象記」初出形』がそれである。他に、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で、それを含む井川恭自身の著になる「翡翠記」の全電子化オリジナル注(二十六回分割)も完遂している。

「OPERA」正確には「オペレッタ」(イタリア語:operetta)。通常の台詞と歌の交った軽い内容のオペラ。十九世紀後半以降にパリやウィーンを中心に流行した。「軽歌劇」「喜歌劇」などとも訳された。次の次の注参照。

「Tanner」筑摩全集類聚版脚注では『不詳』とするが、これはイギリスの舞台監督・劇作家 James Tolman Tanner(一八五八年~一九一五年)でミュージカルを多く手掛けている。彼の英文ウィキがあるが、そこの彼のプロデュースした演目の中にまさに、龍之介が見た前年一九一〇年作とする「The Quaker Girl」がある。以下も参照。

「THE QUAKER GIRL」筑摩全集類聚版脚注は「Tanner」ではしくじったが、ここには『バンドマン一座の喜歌劇の演目。たびたび来朝しているが、二十六、二十九日に「クェーカー娘」「日本娘」を出しているのは、明治四十五年の六月』と、以下の述べる通り、かなりいい線まで調べ上げている。さて、和歌山県立図書館刊の『南葵音楽文庫紀要』第二号(「南葵」は「なんき」と読む。後述する)PDF)の「資料紹介」の「オペレッタの楽譜」(79コマ目)の楽譜書誌に「クエーカー教徒の娘」とあり(太字は私は附した)

   《引用開始》

The Quaker girl : a new musical play in three acts / By James T. Tanner ; lyrics by Adrian Ross and Percy Greenbank ; music by Lionel Monckton.

London : Chappell & Co., c1910, 1911.

vocal score (225 p.) ; 28 cm.

Pl. no. 24514.

作曲者印(t. p.)

南葵文庫印

製本(775.4/MO)

* 日本初演 1911(明治 44)年 6 26日 バンドマン喜歌劇団 帝国劇場

   《引用終了》

まさにこの初演こそが芥川龍之介見たそれなのである(ここで英文に「クェーカーの少女」を「ニュー・ミュージカル・プレイ」と称しているのにも着目されたい)。因みに帝国劇場はまさに、この明治四十四年年三月一日に竣工したばかりであった。当該ページの解説の一部引く。

   《引用開始》

 南葵音楽文庫にオペレッタ、ミュージカルの楽譜がある。オペラと共存しつつ展開されてきたオペレッタは、20 世紀初頭アメリカ型娯楽演劇としてのミュージカルにとって代られる。オペレッタからミュージカルへ。文庫蔵書は丁度その時期に刊行された楽譜が多く、当時のオペレッタ、ミュージカルの傾向を反映した興味深い資料群となっている。

 明治 40 年代の東京に登場した純西洋式劇場の有楽座(1908年)や帝国劇場(1911年)は日本の舞台芸術に新たな場を提供したが、この2つの劇場の開場以降、東京でもバンドマン喜歌劇団 The Bandmann Opera Company(1906年初来日)や横浜在住の外国人たちによるオペレッタ(当時オペラと呼ばれていた)公演がしばしば行なわれるようになった。徳川頼貞が観劇を許されるようになったのもその頃からで、学習院の学友たちや4歳違いの弟・治と連れだってよく出掛けていったようである。著書『薈庭樂話』[やぶちゃん注:「わいていがくわ」。「薈庭」は徳川頼貞の雅号。]にはその時のエピソードが幾つか記されている。最初に観たのは有楽座のバンドマン公演「バルカンの王女」というから、1911(明治44)年6月のことで頼貞 18 歳、英語の勉強になるからと父を説得したという。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

先に言っておくと、「南葵音楽文庫」は政治家・実業家で紀州徳川家第十五代当主徳川頼倫(よりみち)が設立した私設の図書館「南葵文庫」の音楽部門に端を発するもので、関東大震災の直後に頼倫が「南葵文庫」の音楽部門を除いて東京帝国大学に寄贈した。頼倫の子息で音楽学者・政治家・実業家であった徳川頼貞(明治二五(一八九二)年~昭和二九(一九五四)年)は、その残った音楽部門を継承するとともに、蒐集を大幅に拡大し、音楽及び音楽学の専門図書館に向けて拡充したが、財務危機とその後の第二次大戦によって一時期は膨大な資料の所在も不明となっていたが、昭和四二(一九六七)年になってコレクションが再びに日の目を見、一九七七年以降は読売日本交響楽団が所蔵している。而して二〇一七年に和歌山県及び読売日本交響楽団の寄託契約に依って、紀州徳川家所縁の地である和歌山(県立図書館)で一般公開されたものである(以上は公式サイトの歴史の記載その他を参照した)。さても、以上によって、この「OPERA」の実態は十全に解明されたと言ってよかろう。また、引用した雑誌『南葵音楽文庫』のそれからは、今一つの意味を我々は知ることが出来る。則ち、このオペレッタ・喜歌劇を、芥川龍之介が、何故に好き好んで見に行ったのかという疑問である(「豫想してゐた」以上に内容が「下品」だとさえ言っている)。則ち、これは全てが英語で行われたそれで、龍之介としてはネィティヴがネィティヴに味わう英語を聴いてやろうという思いがあったからに他ならない。しかしそれは「豫想してゐたより遙に話す言葉がわからない」という軽いショックも受けているのも見逃してはならない。

Musume 」筑摩全集類聚版脚注に、内容が『外人の見た日本であるため』、『遠慮して上演の予定に入れていなかったのが、突然』、『変更されて』演目に加えられ、『評判になっていた』とあるから、これは日本語の「娘」の意であろう。

「BOX」ボックス・シート。劇場の一般席から隔てられた特別席。

「ORCHESTRA STALL」オーケストラ・ストール。劇場の一階席の舞台前のオーケストラ席直前の、一階前方にある一等席。

「藤岡君」藤岡蔵六(ぞうろく 明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)は愛媛県生まれで、一高以来の友人。哲学者。東京帝大哲学科を卒業後、ドイツに留学し、帰国後、甲南高等学校教授となった。先に出した「學校友だち」(大正一四(一九二五)年二月発行『中央公論』)で、以下のように記している。

   *

藤岡藏六 學校以來の友だちなり。東京の文科大學を出いで、今は法政大學か何かに在り。僕の友だちも多けれども、藤岡位損をした男はまづ外ほかにあらざるべし。藤岡の常に損をするは藤岡の惡き訣にあらず。只藤岡の理想主義者たる爲なり。それも藤岡の祖父に當る人は川ばたに蹲まれる乞食を見、さぞ寒からうと思ひし餘り、自分も襦袢一枚になりて嚴冬の緣側に坐り込みし爲、とうとう風を引いて死にたりと言へば、先祖代々猛烈なる理想主義者と心得べし。この理想主義を理解せざる世間は藤岡を目して辣腕家と做す。滑稽を通り越して氣の毒なり。天下の人は何と言ふとも、藤岡は斷じて辣腕家にあらず。欺かし易く、欺かされ易き正直一圖[やぶちゃん注:ママ。]の學者なり。僕の言を疑ふものは、試みにかう考へて見るべし。――芥川龍之介は才人なり。藤岡藏六は芥川龍之介の舊友なり、その舊友に十五年來欺されてゐる才人ありや否や。(藤岡藏六の先輩知己は大抵哲學者や何かなるべければ、三段論法を用ふること斯くの如し。)

   *

「upper circle」三階棧敷席。

「gallery」中二階席。これらの意味は構造によって相互に入れ替わることがあるが、通常は以上で、劇場の特別席は「dress circle」と呼ばれ、概ね視聴に最も適した二階正面席を指す。

「ENCORE」「アンコール」。フランス語で「もう一度」の意。但し、音写は「オンコゥ」に近い)。恐らくは後期ラテン語「in hanc hōra」(「この時間まで」)が語源とされる。しかし、現行、これを再演の要請に用いるのは英語圏やそれにかぶれた日本人が殆んどで、フランスでは専ら「Une autre !」(「ウノォトレゥ!」:「今もう一度」の意)或は「bis !」(「ビス!」:「再び!」ラテン語の「bi-」(「二度・二倍」)由来)が用いられる。

「繻子」「しゆす(しゅす)」と読む。布面(ぬのおもて)が滑らかで、つやがあり、縦糸又は横糸を浮かして織った織物。

「JUPON」フランス語「ジュポン」はスカートの下に着用する女性用の長い下着である英語の「ペティコート」(petticoat)のことだが、ここで龍之介はそれを裾を引きそうなほどに長井スカートの意で用いている。

「札幌農大の試瞼をやつてゐた」「札幌農大」現在の北海道大学の前身で、札幌農学校が明治四〇(一九〇七)年九月一日に改称した「東北帝國大學農科大學」が正式名である。東北帝国大学農科大学が東北帝国大学から分離されたのは大正七(一九一八)年四月一日のことである。一高が、この時、その遠隔地受験会場になっていたということである。

「鈴木」鈴木智一郎であろう。新全集の「人名解説索引」に(ピリオド・コンマを句読点に代えた。以下同じ)、『一高時代の同級生。兵庫県の生まれ。大兵肥満』で、二十『貫』(七十五キログラム)『を超え、柔道の名手であったとされる。のち北樺太セキュウに勤務』したとある。

「八木」八木実道(理三)であろう。同前で、『一高時代の同級生。愛知県の生まれ』。東京帝大『哲学科卒。宇都宮高等農林学校教授を経て、第三高等学校』(現在の京都大学総合人間学部及び岡山大学医学部の前身)『生徒主事兼教授』とある。

「黑田」黒田照清(?~昭和三九(一九六四)年)であろう。同前で、『一高時代の同級生。石川県の生まれ。太平小学校長・東京聾学校長を歴任』とある。

「根本」根本剛(明治二五(一八九二)年~昭和六二(一九八七)年)であろう。同前で、『一高時代の同級生。茨城県の生まれ。旧制新潟中学校教諭を経て、中央大学教授。ホーソンの『ワンダーブック』の翻訳がある』とある。

「藤岡」先の藤岡蔵六。

「anchorite」アンカレット。英語で「隠者・世捨て人」の意。

「新島先生」かのキリスト教伝道者で教育家の新島襄(にいじまじょう 明治二三(一八九〇)年~天保一四(一八四三)年)の肖像画であろう。鈴木君は彼の信奉者であったようだ。

「Adieu」「アディユ」。フランス語で「さようなら」。]

 

 

明治四五(一九一二)年七月十六日・出雲國松江市田中原町 井川恭樣・親展・「十六日朝 芥川龍之介」

 

御無沙汰をしてすまない

此間成蹟[やぶちゃん注:ママ。]をみに學校へ行つた 石田君だの大江君だの何だのに遭ふ前の日の午前に出る筈のがやつと翌日の午後になつて出たのである 其上大へん暑い日であのアスフアルトのやうに空までが白く爛れてゐた 折角暑い思をして見て來たものだから君の所へもしらせやうと思つたが 石田君が何でも大ぜいの人に通知をしなければならないと吹聽してゐた中に君の名もあつたから二度の手數をかけるのでもないとやめにした 鈴木は氣の毒な事をした 後藤さんは仕方がないにしても

休み前に思つた通りになる事は一つもない 本もそんなに早くよめない 旅行にも出かける氣にならない 每日ぼんやり硝子戶の外にふる雨の音をきいてゐるばかりだ 人も滅多に來ない 人の所へも更に滅多に行かない 胃が少し惡くなりかゝつてゐるのが閉口だが其外は格別苦になる事もない 布で大きな茶袋のやうなものを二つ拵へてその口に眞田紐[やぶちゃん注:「さなだひも」。]をつけてその中へ足をつゝこんで紐を膝の上でしめて蚊に食はれない豫防をして 本をよんだり晝寐をしたりしてゐる 何時までも休みがつゞくといゝなと思ふ

入學試驗がすんだ KANIPAN[やぶちゃん注:縦書。]は多分いけなからうと思ふ 問題は大へんやさしい 殊に國漢なんぞは御話しにならん 槪してやさしすぎる あれでは採点[やぶちゃん注:ママ。]の時先生の氣分の働く余地[やぶちゃん注:ママ。]が多からうと思ふ 漢文を例の爲に御覽に入れる

豐太閤磊々落々氣象。似石勒。而其膽畧過之。其代織田氏興。雖未免欺其孤兒寡婦。蕩掃海内。濟二百年塗炭之民。惜乎能治亂而不能成治也。

其上豐太閤と石勒にUNDERLINE[やぶちゃん注:縦書。]をして個有名詞たるを示してゐる 中學の二年生でもよめるにちがひない、

紫紅氏の戀の洞を帝劇へ見に行つた 大へんつまらないのでシアロツクホルムスと喜劇とは見てゐる氣になれなくつて早く電車にゆられながら家へかへつた 唯眼にのこるのは中幕辨慶上使の幸四郞の辨慶とかく子のおわさばかりである 蚊帳の中に橫になる時何時までも舊劇を翫賞する――舊劇以外に翫賞し得るものを見出し得ないのを心細く思つた、しかしこれは作劇が文藝に興味を有する若旦那の手に委ねらるゝ限り續くのに相違ない

MYSTERIOUS[やぶちゃん注:縦書。]な話しがあつたら敎へてくれ給へ あの八百萬の神々の軍馬の蹄のひゞく社の名もその時序にかいてよこしてくれ給へ ろせつちの詩集の序に彼は超自然な事のかいてある本は何でも耽讀したとかいてある 大に我意を得たと思ふ一笑 時々ろせちをよむ 願くは此詩人のやうに純なる詩の三昧境に生きたいと思ふ

ADIEU

   御盆の十五日         龍

  井川君

 

[やぶちゃん注:「此間成蹟をみに學校へ行つた 石田君だの大江君だの何だのに遭ふ前の日の午前に出る筈のがやつと翌日の午後になつて出たのである」この言い方から、成績発表が予定よりかなり遅れて発表された(七月上旬)ことが判る。岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注によれば、この時、総合成績の一番が書信の相手である井川恭で、二番が芥川龍之介であったとある。「石田」は後に歴史学者・東洋学者となった同級の石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年:千葉市出身)のこと。「大江」は同級生と思われるが、不詳。

「鈴木」前の書簡の新島の肖像を飾っていた彼と思われ、井川にかく書くところからは、共通の級友であったようだ。

「後藤」筑摩全集類聚版脚注によれば、『後藤末雄。三中・一高の上級生』とする。彼のウィキによれば、(明治一九(一八八六)年~昭和四二(一九六七)年:龍之介より六つ年上)は作家・フランス文学者・比較文学及び比較思想史研究者。東京の「金座の後藤」と言われる工芸の旧家に生まれた。『浅草橋の小学校に通い』、『府立三中、一高を経て、東京帝国大学英文科在学中、和辻哲郎、谷崎潤一郎、木村荘太らと第』二『次『新思潮』の創刊に参加し、小説家として出発』、大正二(一九一三)年に東京帝大『仏文科を卒業し』(英文科から転部したということか。なお、この年に芥川龍之介は同大英文科に合格している)、『陸軍士官学校の教師となる』。『華々しくデビューした谷崎に対し、他の同人が創作から脱落していく中で、森鷗外らの愛顧を得て』、『創作を続け』た。大正五(一九一六)年には「女の哀話」物の『小説を「遊蕩文学」として赤木桁平に』批判されるが、『なおも創作を続けた』。大正六(一九一七)年から翌年にかけて大作「ジャン・クリストフ」を初訳刊行した』『が』、『同時期に創作の筆を絶ち』、大正九年、『永井荷風の世話で慶應義塾の教員となり』、後に『慶應義塾大学教授』となり、さらに『立教大学教授も兼任』した。昭和八(一九三三)年には『博士論文』「支那思想のフランス西漸」を『刊行し、儒教のフランス近代思想への影響を解明して、比較思想史の先駆的研究となった。』とある。岩波新全集の関口氏の「人名解説索引」によれば、後藤は『一高時代から小説・戯曲を書』いていたとある。龍之介らの第四次『新思潮』・谷崎潤一郎・赤木桁平と接点が数多くあるが、作家となってからの芥川龍之介と親しかった形跡は、これ、全くない。なお、これらを総合して考えると(正直、どうでもいいことだが気になるので言っておくと)、ここでは黒田は二年上級(最終学年)で落第したらしく、帝大でもダブっていないと勘定も合わなくなる。閑話休題。ともかくも、龍之介が井川に落第を「仕方がないにしても」と書き送るところを見ると、後藤は井川とも親しく、龍之介が観察するに、しばしば授業をサボっていたか、講義に身が入っていないことがよく知られていたようではある。

「入學試驗がすんだ」一高のそれ。

「KANIPAN」不詳。筑摩全集類聚版脚注も『未詳』、堀切透氏も注せず。芥川龍之介が井川に紹介した、三中の後輩か、昨年不合格であった友人か。【2020年2月7日削除・注記】後に示す大正元(一九一二)年八月三十日の井川恭宛書簡を見るに、確定ではないが、三中時代の同級生中塚癸巳男のことであろうと思われる。彼は三中時代の同級生で、芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録「槍ヶ岳紀行」(リンク先は私のサイト版)に同行した他、当時の龍之介の旅にしばしば同行しており、西川英次郎・山本喜誉司などとともに、非常に親しい仲間であった。彼は二浪して、明治四十五年に一高の第二部甲類に入学したことは、こちらで注した。

「太閤磊々落々氣象。似石勒。而其膽畧過之。其代織田氏興。雖未免欺其孤兒寡婦。蕩掃海内。濟二百年塗炭之民。惜乎能治亂而不能成治也」出典を探し得なかった。我流で訓読すると、

   *

太閤、磊々落々の氣象、石勒(せきろく)に似たり。而して其の膽、畧(ほぼ)、之れに過ぐ。其の代、織田氏に興(おこ)ると雖も、未だ、欺其の孤兒にして寡婦たるを免れず。海内(かいだい)を蕩掃して、二百年の塗炭の民を濟(すく)ふ。惜しいかな、能く亂を治め、而して、治を成すこと能はざるなり。

   *

か。私は秀吉が嫌いなので、悪しからず。「石勒」(せきろく 二七四年~三三三年)は五胡十六国時代の後趙の創建者で、上党郡武郷県(現在の山西省晋中市楡社県の北西)を本貫地とする羯(けつ)族(匈奴羌渠(きょうきょ)族の末裔)の出身。前趙の将軍として河北・河南を転戦し、王浚・劉琨・段匹磾・曹嶷といった北方の諸勢力を次々と滅ぼした。三代皇帝劉聡の死に際には、後事を託されたものの、五代皇帝劉曜と対立するようになると、自立して後趙を興し、前趙を滅亡に追いやって華北に覇を唱えた。奴隷の身分から中原を統べる皇帝まで昇った中国史上唯一の人物ではある(以上は彼のウィキに拠った)。

「紫紅氏の戀の洞」山崎紫紅(明治八(一八七五)年~昭和一四(一九三九)年)は大正期の詩人・劇作家・歌舞伎作者。横浜市生まれ。本名は山崎小三(しょうぞう)。小学校卒。独学で文学を学び、明治三〇(一八九七)年頃から「文庫派」の詩人として知られる。『明星』『白百合』『文芸界』に詩作を発表し、「日蓮上人」「大日蓮華」の叙事詩を書いている。明治三十八年発表の「上杉謙信」が真砂座の新派劇の俳優伊井蓉峰(いいようほう)一座によって上演され、以後、劇作に専念したが、関東大震災後、創作から遠ざかり、神奈川県会議長・横浜市議・横浜生糸取引所理事などを歴任した。「戀の洞」については、岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注によれば、当時の『帝国劇場』では、この年の七月『三日から山崎紫紅』作の『「恋の洞」』(「ほら」か?)『「シャーロックホームス」、益田太郎冠者栅「三太郎」などを上演。中幕の「弁慶上使」は、原名題「御所桜堀河夜討」』(ごしょざくらほりかわようち:浄瑠璃。五段。時代物。文耕堂・三好松洛合作。元文二(一七三七)年竹本座初演で、「義経記」等に取材し、弁慶・伊勢三郎などに関する伝説を取り入れて脚色したもので、三段目「弁慶上使」(別名「御所三」)・四段目「藤弥太物語」が今日上演される。義経の室卿の君は平時忠の娘なので、「その首を討て」という頼朝の命をうけて、弁慶は卿の君を預かる侍従太郎の館に上使に来るが、太郎は腰元信夫(しのぶ)を身替りに立てようと、信夫の母おわさに頼む。様子を聞いた弁慶は障子越しに信夫を刺し、「自分こそ信夫の父」と名乗る。おわさの「くどき」と弁慶が大振袖を現わしての述懐が見どころ(「弁慶上使」)。梶原に組する藤弥太は静御前の兄であるが、母に諭されて改心し、義経の住む堀川御所夜討の計画を告げ、討手を引き受けて美事な最期をとげる(「藤弥太物語」)というストリー。ここはサイト「立命館大学アート・リサーチセンター」のArtWikiのこちらの記載に拠った)『三段目のことで、弁慶は七世松本幸四郎の当り芸』であったとされ、『「かく子」は、女優村山嘉久子』(明治二六(一八九三)年~昭和四四(一九六九)年)で、『帝劇付属技芸学校の第一期生』とあった。

「MYSTERIOUSな話しがあつたら敎へてくれ給へ」芥川龍之介に怪奇談蒐集趣味が明確に表わされた現在確認出来る最初の一瞬である。私のサイトの最旧下層に属する電子化である「芥川龍之介 椒圖志異(全) 附 斷簡ノート」を見られたい。

「ろせつち」私の愛するイギリスのラファエル前派の画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti  一八二八年~一八八二年)。現在では画家としての方が有名であるが、彼は詩人でもあった。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (二十五)』を参照されたい。]

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