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2021/02/25

怪談老の杖卷之一 水虎かしらぬ


 
   ○水虎かしらぬ

 小幡一學といふ浪人ありける。上總之介の末葉なりと聞しが、さもあるべし、人柄よく、小(すこし)、學文(がくもん)などありて、武術も彼是、流義極めし男なり。若きとき、小川町邊(あたり)に食客のやうにてありし頃、櫻田へ用事ありて行けるが、日くれて、麹町二丁目の御堀端を歸りぬ。雨つよく降りければ、傘をさし、腕まくりして、小急(こいそぎ)ぎに、いそぎをりけるが、是も、十ばかりなりとみゆる小童(こわらは)の、笠もきず、先へ立(たち)て行(ゆく)を、不便(ふびん)におもひて、わらはに、

「此傘の中(うち)へ、はへりて行べし。」[やぶちゃん注:「はへりて」はママ。「はいりて」の原本の誤記であろう。]

と、よびかけけれど、恥かしくや思ひけん、あいさつもせず、

「くしくし。」[やぶちゃん注:「哀れげに泣くさまを表わす語で「しくしく」に同じい。]

と、なく樣(やう)にて行けば、いとゞふびんにて、後より、傘、さしかけ、我が脇の方へ引つけてあゆみながら、

「小僧は、いづ方へ使(つかひ)にゆきしや。さぞ、こまるべし。いくつになるぞ。」

など、懇(ねんごろ)にいひけれど、いらゑせず、やゝもすれば、傘をはづれて、濡るゝ樣(やう)なるを、

「さて。ばかなる小僧なり。ぬるゝ程に、傘の内へ、はひれ、はいれ。」

と、云ひければ、又、はひる。

 とかくして、堀のはたへ行(ゆき)ぬるとおぼゆる樣にて、さしかけつゝ、

「此かさの柄を、とらへて、行べし。さなくては、濡るゝものぞ。」

など、我子をいたはる樣に云ひけるが、堀のはたにて、彼(かの)わらは、よは腰を兩手にて、

「しつか」

と取り、無二無三に、堀の中へ引こまんとしけるにぞ、

「扨は。妖怪め、ござんなれ、おのれに引こまれて、たまるものか。」

と、金剛力にて引あひけれど、かのわつぱ、力、まさりしにや、どてを下(くだ)り、引ゆくに、むかふ下(くだ)りにて、足たまりなければ、すでに堀ぎはの、石がけのきはまで、引立(ひつたて)られしを、

『南無三寶、河童(かつぱ)の食(ゑじき)になる事か。』

と、かなしくて、心中に氏神を念じて、力を出して、つきたをしければ、傘ともに、水の中へしづみぬ。

 命からがら、はひ上(のぼ)りてけれど、腰たゝぬ程なりければ、一丁目の方(かた)へ、もどり、駕籠にのりて屋敷へ歸りぬ。

 夫より、こりはてゝ、其身は勿論、人までも、

「かの御堀ばたを通る事、なかれ。」

と制しける。

 是ぞ、世上にいふ「水虎《かつぱ》」なるべし。心得すべき事なりと聞(きけ)り。

[やぶちゃん注:標題は「水虎(かつぱ)か知らぬ」で「河童かどうかよく判らぬ化け物」の意。これも実は既に「柴田宵曲 妖異博物館 河童の力」の私の注で電子化している。無論、また、零からやり直してある。個人的には河童の存在を全く信じていないものの、この話は河童と組み合う前後の描写が極めて実録的でリアリズムがあるので、蒐集した有象無象の河童譚(私は信じていないにも拘らず河童フリークではある。火野葦平「河童曼陀羅」も完全電子化注を四年前に終わっているし、『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」』の分割詳細注もカテゴリ「柳田國男」で二年前に完遂している)の中でも短い乍ら、優れた一篇であると感じている。

「水虎」これは河童に似た属性を持つ漢籍に出現する人型の妖怪(妖獣)である。寺島良安の「和漢三才図会」の「第四十 寓類 恠類」(リンク先は私の古いサイト版全電子化注)に確かに、この「水虎」で載る。

   *

すいこ

水虎

シユイ フウ

【「本草」蟲の部の附錄に水虎を出だす。蓋し、此れ、蟲類に非ず。今、改めて恠類に出だす。】

「本綱」に、『水虎は「襄沔記(じやうべんき)」注に云はく、中廬(ちうろ)縣に涑水(そくすい)有りて、沔中に注(そゝ)ぐ。物有り、三、四歳の小兒のごとく、甲(かう)は鯪鯉(りやうり)[やぶちゃん注:脊椎動物亜門哺乳綱センザンコウ目センザンコウ科Manidae センザンコウ属Manis。]のごとく、射(ゆみい)ても、入ること、能はず。秋、沙上に曝す。膝の頭、虎の掌・爪に似たり。常に水に没し、膝を出だして、人に示す。小兒、之れを弄(もてあそ)べば、便(すなは)ち、人を咬(か)む。人、生(いき)ながら得ば、其の鼻を摘(つま)んで、之れを小使(こづかひ)にすべし』と。

△按ずるに、水虎の形狀、本朝、川太郎の類(るゐ)にして、異同、有り。而れども、未だ聞かず。此くのごとき物、有るや否や。

   *

しかし、良安が言うように、これは私は同じ東洋の日中の民俗思念の中での平行進化の結果であって(九州の河童伝承には先祖が中国から本邦へ渡って来たとするものがあることはあるが、では、それが漢籍に登場する「水虎」や似たような人型水怪である「河伯」であった証左はどこにもないのである)、「河童」を完全に中国伝来とする考え方には組しないので、個人的に「河童」を「水虎」と自律的に書いたことは一度もない。因みに良安もそう考えているからこそ、この次に独自に「河童」を配しているのである。以下に示す。

   *

かはたらう

川太郞    一名川童(かはらう)

【深山に山童有り。同類異なり。性、好みて人の舌を食ふ。鐵物を見るを忌むなり。】

△按ずるに、川太郞は西國九州溪澗池川に多く之れ有り。狀(かた)ち、十歲許りの小兒のごとく、裸形(はだか)にて、能く立行(りつかう)して人言(じんげん)を爲す。髮毛、短く、少頭の巓(いただき)、凹(へこ)み、一匊水(いつきくすい)を盛る。每(つね)に水中に棲(す)みて、夕陽に、多く、河邊に出でて、瓜・茄(なすび)・圃穀(はたけもの)を竊(ぬす)む。性、相撲(すまひ)を好み、人を見れば、則ち、招きて、之を比(くら)べんことを請ふ。健夫、有りて、之れに對するに、先づ、俯仰(ふぎやう)して頭を搖せば、乃(すなは)ち川太郞も亦、覆(うつふ)き仰(あをむ)くこと數回にして、頭の水、流れ盡ることを知らず、力竭(つ)きて仆(たふ)る。如(も)し其の頭、水、有れば、則ち、力、勇士に倍す。且つ、其の手の肱(かひな)、能く左右に通(とほ)り脫(ぬけ)て、滑利(なめら)かなり。故に、之を如何(いかん)ともすること能はざるなり。動(ややも)すれば、則ち、牛馬を水灣に引入れて、尻より血を吮(す)ひ盡くすなり。渉河(さはわたり)する人、最も愼むべし。

 いにしへの約束せしを忘るなよ川だち男氏(うぢ)は菅原

相傳ふ、『菅公、筑紫に在りし時に、所以(ゆゑん)有りて之れを詠(よま)せらる。今に於いて、河を渡る人、之を吟ずれば、則ち、川太郞の災無しと云云。』と。偶々、之れを捕ふる有ると雖も、後の祟(たゝり)を恐れて之れを放つ。

   *

引用元では私が細かな注を附しているので参照されたい(なお、リンク先は十二年も前の仕儀で、漢字表記が不全であるので(当時はユニコードがまだ使用出来なかった)、引用に際しては、正字に直した箇所がかなりある)。

「小幡一學」不詳。

「上總之介」織田信長(初期の名乗り)であろう。私などはすぐにして源頼朝の命で梶原景時に謀殺された上総介広常を想起してしまうのだが、かの上総氏の末裔は宝治元(一二四七)年の「宝治合戦」で姻族の三浦泰村に属して族滅している。

「小川町」現在の千代田区神田小川町(グーグル・マップ・データ)。江戸時代は武家屋敷であった。ここから「櫻田」から帰るにには北へ上ると思うのだが、何故か時計回りで西に回っている。「麹町二丁目」はここだもの。さすれば、「御堀端」ここの東の江戸城西側の半蔵濠(ぼり)か、そこの北を東に折れた「千鳥ケ淵」ということになる。河童には、やはり。淵が似合うな。おう! ようやった! 河童殿! 江戸城の御堀に住もうとはな!

「とらへて」捉えて。摑(つか)んで。一学! 男だね!

「よは腰」「弱腰」。一学の腰。「よは」は、これ、連れが童子なれば、用心も全くせず、寧ろ、同時に気を遣って、穏やかに寄り添っていた上に、雨に打たれて冷えているので、腰に力が入っていなかったというだけのことを言っていよう。

「金剛力」「こんがうりき(こんごうりき)」は金剛力士のような大力。非常に強い力。

「むかふ下(くだ)り」「向ふ下り」は一語で、「向こうに行くに従って(堀へ)下っている場所」という名詞。

「足たまり」「足溜まり」。しっかと踏みしめる足場。

「腰たゝぬ程なりければ」如何に組んだ河童の力が想像絶したものであったかが判る。

「一丁目」麹町一丁目。現在のそれならば、既に半蔵濠の東岸であるから、やはり、一学を河童が引き込もうとしたのは「千鳥ケ淵」と考えてよい。]

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