芥川龍之介書簡抄11 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(4) 四通
大正元(一九一二)年八月十六日・新宿発信・小野八重三郞宛(転載)
旅といふこの一語に心うるほひぬろまんちつくの少年の眼は
旅人よいづくに行くやかぎりなく路はつゞけり大空の下
――一、八、一六、朝 新宿にて――
龍生
[やぶちゃん注:短歌は前後を一行空けた(以下の書簡も同じ)。前回分で注した通り、この八月十六日から友人(新全集宮坂年譜によれば、『中塚癸巳男か』とする)と二人で、信州・木曾・名古屋方面の旅に出かけている。十七日には御嶽山に登り、十八日には名古屋に到着、二十日名古屋を立って帰宅している。因みに、前に述べた通り、この間は学年末休暇である。
「小野八重三郞」(明治二六(一八九三)年~昭和二五(一九五〇)年)は既注の東京生まれの、府立三中時代の一つ下の後輩。]
大正元(一九一二)年八月十六日・消印十七日・出雲國松江市田中原町 井川恭樣(葉書)
酒ずきの豚のやうなる藥賣り醉ひて眠りて汽車に日くれぬ
何思ひ夕日に黃なる窓による首をたれし月琴彈きは(車中)
まひる日の靑草原にかなしきはつりがね草の夢の銀色(沿道)
一、八、一六、木曾に向ふ 芥川生
大正元(一九一二)年八月十七日・消印長野御嶽山十八日・神田猿樂町永井方 小野八重三郞樣(絵葉書・転載)
薄黃なる石楠花にほふ八月の谷間の霧に山の鳥なく
皮肉なるあげあしとりの借らしき汝(ナ)を忘れえず山に來れども
汝(ナ)は今日も BAR の夕に曹達水の盃あげてものを思ふや
十七日 御嶽山頂にて 龍
大正元(一九一二)年八月三十日・「卅日夕 芥川龍之介」・出雲國松江市田中原町 井川恭樣・「親披」
もう二週間で學校がはじまると思ふとうんざりする ほんとうにうんざりする 埃で白くなつた敎室の机さ 落書きだらけの寮の硝子窓さ 一つだつていゝ心もちを起させるものはありはしない VULGAR な SLANG や VULGAR な SCANDAL だけでもぞつとするのに STORM のすぎた後にはいつも酒のにほひがするんだらう 正直な所僕はもう二週間と思つたら八木君の ETERNAL な昔讀の調子が耳にうかばずにはゐられなかつた ETERNAL と云ふのは全く善意で音讀から他に及ぼす迷惑なぞは毛頭考へてゐない 唯あの調子は ETERNAL と形容すると一番いゝやうな氣がするからつけた迄だ ETERNAL だらう さうぢやあないか 更に正直な所このうんざりした心もちはみんなに逢ふ事が出來ると云ふたのしみよりも遙に力强い うんざりせずにすむのならば皆と一つ處に集らなくたつていゝ 第一僕は君と寐ころんで話しでもする外にそんなに逢ふのを樂しみにする程の人を知らないの(尤も誰でもさうかもしれないけれど)だから何も二ケ月間の洗練を經た顏を合せて「やあ」とか何とか云ふ必要はないんだ 逢つて見たくなれば訪ねてゆく 實際木曾へゆく前に君の國へ行かうと思つてゐた さうして「こいつは少し汽車へのりすぎるな」と思つて煑切らないでゐるところへ KANIPAN が一高へはいつた勢で木曾へゆく PLAN を立てたので とうとう一緖に蓙[やぶちゃん注:「ござ」。]をきて金剛杖をつくやうな事になつてしまつた 未に出雲の湖と出雲の山とを見る機會を失したのが一寸殘念に思はれる KANIPAN で思ひ出したが 僕の知つてるものがうまく三人共 pass した 工科の1│20は僕の友だちなんだからえらい 三人ともはいつたときはほんとにうれしかつたぜ
KANIPAN は今 abc を學つてるさうだ abcと云ふとゆんけるの細い褐色の頭の毛を思ひ出す ゆんけるを思ひ出すとしいもあ先生の桃色の禿も思出される しいもあ先生の娘は死んだかしら
木曾は大へん蚤の澤山ゐる所だつた 福島へ泊つた晚なんぞは體中がまつ赤にふくれ上つてまんじりとも出來なかつた、これから木曾へゆく旅客は是非蚤よけを持つてゆく必要がある 矢張福島で橫濱商業の生徒と相宿になつた 休格のいゝ立派な靑年だつたが驚くべく寐言を云ふ 夜中にいきなり「冗談云つてら そんなことがあるもんか」とか何とか云はれた時には思はずふき出しちまつたものだ
御嶽の頂上の小屋で福島中學の生徒二人と一緖になつた 二人とも寮歌をよく知つてゐる 僕なんぞよりよく知つてゐたかもしれない、きいて見るとすべての寄宿舍の制度は一高に模倣してやつてるんださうだ「鐡拳制裁も STORM もあります」と云ふ 一高なんてえらいもんだと思つた そんなに影響の範圍が廣いだけでも御互に隨分つゝしまなくちやあならないと思つた 尤も其時は僕は決してつゝしんだ方ぢやあなかつたけれど
「先輩には今どんな人がゐます」つてきいてみたら隣室の金井君がさうださうだ 一寸奇遇のやうな氣がしたが直又奇遇でも何でもないやうな氣がした 二人とも氣壓の少いので半熟な飯を何杯も食つた、一杯も食へないで持つて來た SALTMEAT の罐詰ばかりつつついてゐた僕には金井君は好箇の後輩を得たとしか思はれなかつた かけはしだの寐覺の床だのに低徊してからやつと名古屋へ行つた、僅少な日子を費しただけだから精細な事はわからないが何しろ名古屋はべらぼうな町のやうだ、均一制のない電車は市の一端から他端迄ゆくのに六十枚ばかりの切符を買ふ事を要求する それも一枚一錢の切符なんだから呆れる外はない、僕たちは伊東屋吳服店の木賊色と褐紅色と NUANCE を持つた食堂でけばけばしいなりをした女どもを大勢見た 偕樂亭の草花の鉢をならべた VERANDAH であいすくりいむの匙をとりながら目の下の灯の海をあるく名古屋人を大勢見た さうしてその中のどいつをとつてみても皆いやな奴であつた 僕たちは眞晝間に汗を流して方々の工塲を訪問した 埃くさい應接室で黃色い西日に照りつけられながら某々の會社からの紹介狀や名刺を出して參觀を賴んだ、帳簿や書類の間から黃疸やみのやうな顏を出す書記や給仕や職工に大勢遇つた さうしてそのどいつをとつてみてもみないやな奴ばかりだつた。
至るところで旅烏の身に與へた不快な印象を負つていたるところの工塲で參觀を拒絕されて僕たちは三日目にとうとう[やぶちゃん注:ママ。底本は後半は踊り字「〱」。]中京と誇稱する尊敬すべき名古屋を御免蒙つた、僕は名古屋と甲府ほど嫌な都會を見た事がない 尤も名古屋も蚤のゐないだけは木曾より難有つたけれど、
秩序もなくいろんな事を書いた、もうぢき君にもあへる 寮に又半年をくらして瘦せるべく 君は肥つて東京へ來ることだらうと思ふ 匆々
卅日夕 新宿にて 芥川生
井川君 案下
[やぶちゃん注:英単語は総て縦書である。内容から判断して行末改行部の一部に字空けを施した。
「もう二週間で學校がはじまると思ふとうんざりする」この翌日九月一日(日曜日)で一高三年に進級しているが、学年末休暇はさらに二週間ほどあったものらしい。主たる憤懣の要因は偏に寮生活の粗暴野蛮性にあることが判る。
「VULGAR」「俗悪な・野卑な・低級な・下品な・卑猥な」の他に、「一般大衆の・庶民染みた・俗間の」の意もある。
「SLANG」ここは寮内で用いられる特別な隠語であろう。
「STORM」ストーム。日本の旧制高等学校・大学予科・旧制専門学校、また、新制大学などの学生寮などに於いて学生が行う「蛮行」。「バンカラ」の一種のこと。ウィキの「ストーム(学生生活)」によれば、『「storm」(嵐)を語源とする』。『「バカ騒ぎ」を基本とし、窓ガラスを叩き割るなどの破壊行為にまで至ることも少なくなかった。歓迎ストーム・返礼ストーム、街に出て気勢を上げる街頭ストーム、巨大な火を焚きそれを囲んで行うファイヤーストーム、夜中に入学の抱負などを言わせ』、『説教のようなものを続ける説教ストームなどもあった。現在でも』、『学生らによって「ストーム」と称する行事が行われる学校がある。無理やり饗宴に他者を巻き込んでいくストームという行事には、「俺たちはこんなに楽しいんだから、お前たちも一緒に楽しもう」といった類の連帯意識が底流にある』。大抵の『旧制高校ではストームが行われていた。公式の行事ではないため、また、形が多岐にわたるため、起源の特定は難しい』が、十九『世紀終わりから』二十『世紀初頭頃までには、よく知られている形のストームはすでに存在していたとされ、また』、一八八〇『年代前半頃には、寮』二『階の住人が床を踏み鳴らし』、一『階の住人は天井をほうきで突くといった行為がよく行われていたという』。『旧制高校の学生生活を描いた作品には、夜、学生寮で睡眠中に叩き起こされ』、『ストームが始まるという場面が描かれていることも少なくない。説教ストームを除き、デカンショ節や寮歌などの歌と踊りが伴うやり方が多く見られる』。『真夜中に突如、鍋や太鼓を打ち鳴らし』、『寮歌やデカンショ節などを蛮声で歌いながら、数人から数十人が互いに肩を組んだりして寮の廊下を踏み鳴らし、棒で壁や床を叩き、各部屋で寝ている者を叩き起して回った。ストームの被害にあった者には、布団越しに叩かれた者あり(布団蒸し)、服を剥ぎ取られた者あり、酒を飲まされた者あったと言う。それをはやし立てる者、迎え撃つ者は水を浴びせる場合もある』。『学校当局や寮の規則によって、時間帯や、試験期間中、対抗戦前などの期間によってストームを禁止していたり、あるいはストームそのものを禁止する場合もあった。しかしそれらは守られないことが多かったという』とある(以下、新制学校のそれが続くが略す)。
「八木君」一高時代の同級生八木実道(理三)。生没年未詳。愛知県生まれ。後、東京帝大哲学科を卒業し、宇都宮高等農林学校教授を経て、第三高等学校生徒主事兼教授となった(以上は新全集の関口安義氏の「人名解説索引」を参照した)。
「ETERNAL」ここで龍之介は、哲学的な永遠性・不滅性ではなく、口語英語の意のネガティヴな「果てしなくだらだらと続く、絶え間なき単調さ」を指している。
「KANIPAN」既に推定した通り、中塚癸巳男(なかつかきしお)と考える。綽名の意味は不明。ただ「塚」の「か」、「癸」の字が「發」(ぱつ)に似ていること、「巳」の字が崩すと「ん」に見えることなどが私には想起される。
「1│20」縦書。二十分の一。
「ゆんける」筑摩全集類聚版脚注に、『一高のドイツ語の講師。ドイツ人』とある。上村直己氏の論文「一高及び四高教師エミール・ユンケル」(日本独学史学会発行『日独文化交流史研究』二〇〇五年号所収・PDFでダウン・ロード可能)の摘録によれば、『日本では独語教師は亡くなると、たとえ生前の功績が大きくても、そのまま忘れられるのが普通である。そして外国人教師の場合はよりその傾向が一層強い。しかし、ドイツ語教育に占める外国人教師の役割は明治・大正期においては現在より大きかったことを考えれば、彼らの生涯と業績はもっとしられよいはずである。今回取り上げるエルンスト・エミール・ユンケル(Ernst Emil Junker,1864-1927)はそうした外国人教師の中でも独語教育の面で特に功績の大きかった一人である。彼は一八八五年(明治十八)に来日以来』、『一九二七年(昭和二)に東京で亡くなるまで約四十年間日本に滞在し、その間第四高等学校、第一高等学校、独逸学協会学校等でドイツ語教師として熱心にその職に当たった人であり、また当時の有力な独語雑誌、即ち東京外語系並びに独協系の『独逸語学雑誌』や東大独文系の『独逸語』などに度々寄稿するなど』、『広く日本の独語教育学界のために献身的に尽力した人であった。さらにドイツ東アジア協会』(通称 OAG)『の維持発展のために尽くした功績も大きい。だが』、『これまでユンケルについて断片的に語られるだけで纏まった研究は全くされていない。以下、新資料も取り入れながら』、『ユンケルの生涯と独語教師としての活動を中心に述べることにしたい』とある人物である。
「しいもあ先生」筑摩全集類聚版脚注に、『一高の英語の講師。イギリス人』とある。ジョン・ニコルソン・セイモア(John Nicholson Seymour)。イギリス人のお雇い英語講師。「国立公文書館DIGITALアーカイブ」のこちらの文書画像で、「第一髙等學校教師」として、明治四〇(一九〇七)年九月十一日から明治四十二年七月十日までの分の「雇入」簿冊が確認出来る。
「福島」長野県木曽郡木曽町(きそまち)福島(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「福島中學」正確な記載なら現在の福島県立安積(あさか)高等学校。
「隣室の金井君」寮の隣室にいる同級生で福島中学卒の可能性を考えると、新全集の「人名解説索引」を見るに、龍之介の一高の同級生で金井階造なる人物がいる。彼は長野県生まれである。
「氣壓の少いので」御嶽山は標高三千六十七メートルある。私も一度登ったが、登りの最後には少し往生した。
「SALTMEAT」塩漬け肉。
「かけはし」「木曾の棧(かけはし)」。断崖の難路としても、また、歌枕としても知られる。長野県木曽郡上松町(あげまつまち)の旧国道十九号(現上松町道)の下にある「桟道(さんどう)」跡を指す。
「寐覺の床」同じ長野県木曽郡上松町にある渓谷美で知られる古くからの景勝地。木曽川の水流によって花崗岩が侵食されてできた自然地形。上の地図の南に入るようにセットしてある。
「日子」「につし(にっし)」。日数に同じい。
「伊東屋吳服店」百貨店「松坂屋」の前身。正確には当時の表記は「いとう吳服店」。創業は慶長一六(一六一一)年。織田家小姓の子孫である伊藤蘭丸祐道(すけみち)が名古屋本町で呉服小間物商「いとう呉服店」を開いたのに始まる。龍之介らが訪れる二年前の明治四三(一九一〇)年二月一日 に、伊藤次郎左衞門十五代に当たる伊藤祐民(すけたみ)が「株式会社いとう呉服店」を設立して初代社長に就任すると同時に、名古屋栄町に百貨店を開業している。
「木賊色」「とくさいろ」。くすんだ青みを帯びた緑色。
「NUANCE」ニュアンス。「何とも言えない微妙な変奇を持った」という謂いであろう。
「偕樂亭」西洋料理店。梅沢角造が名古屋錦で明治五(一八七五)年に開業した。
「VERANDAH」ヴェランダ。ベランダ。
「僕たちは眞晝間に汗を流して方々の工塲を訪問した」二人が物見遊山ばかりでなく、しっかりエリート候補生として社会見学をしている点を見逃してはいけない。]
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