譚海 卷之三 七夕飛鳥井難波蹴鞠
七夕飛鳥井難波蹴鞠
〇七夕には飛鳥井(あすかゐ)・難波(なんば)兩家に蹴鞠(けまり)の興行あり、見物の人中庭より門外に至るまで群集する事也。すべて蹴鞠を嗜む人、飛鳥井家の弟子になり、官衣を得る事也、七段まで裝束のゆるしありて、最上はむらさきすそごの袴をきる事也。門人の中(うち)器用なるものをえらみて、飛鳥井殿より目代(もくだい)と號して諸國に有。その國の官位をのぞむ人は、目代に就(つき)て飛鳥井家へ願ひ入(いれ)てゆるしを受(うく)る事也。又式の鞠にははじめに露はらひといふ事あり。是は加茂の社人のみ傳へたる事にて、飛鳥井家にも傳へざる事也。夫ゆゑ禁中の御鞠などあるときは、加茂の社人先(まづ)はじめにかゝりに入(いり)て露はらひのまりを勤め、其後(そののち)飛鳥井殿始め諸卿(しよきやう)式の鞠を勤らるゝ事也。
[やぶちゃん注:「飛鳥井家」藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家庶流。家格は羽林家。鎌倉前期の難波頼経の子雅経に始まり、代々、和歌・蹴鞠の師範を家業とした。参照した当該ウィキによれば、『頼経の父難波頼輔は本朝における蹴鞠一道の長とも称された蹴鞠の名手であったが、孫の飛鳥井雅経も蹴鞠に秀で、飛鳥井流の祖となった。鎌倉幕府』二『代将軍源頼家も蹴鞠を愛好して雅経を厚遇し、一方で』、『雅経は後鳥羽上皇に近侍し』、『藤原定家などとともに』「新古今和歌集」撰進をし、『和歌と蹴鞠の師範の家としての基礎を築いた。室町時代には将軍家蹴鞠道師範を務め』た。「応仁の乱」では、一族が近江国や『長門国に移住し』、結果、『家業を広めた』。『戦国』『から江戸』『初期にかけての当主であった飛鳥井雅庸』(まさつね)『は、徳川家康から蹴鞠道家元としての地位を認められた。雅庸の子、雅賢』(まさかた)は慶長一四(一六〇九)年に処罰された「猪熊(いのくま)事件」(山科家分家の公家猪熊家当主で美男天下無双と称された多淫の左近衛少将猪熊教利(のりとし)が人妻や宮廷女官に手を出し、複数の朝廷高官を巻き込んだ前年からの醜聞事件。公家の乱脈が白日の下に曝されたのみでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化・後陽成天皇退位の契機ともなったスキャンダル。主犯猪熊教利は死罪に処せられた)に連座し、隠岐(同ウィキでは佐渡とするが、辞書等で訂した)に配流されて『同地で没したが、弟の難波宗勝が飛鳥井家を相続した。江戸時代の家禄は概ね』九百二十八『石で』、『幕末の飛鳥井雅典は武家伝奏をつとめたほか、徳川慶喜に対する将軍宣下の際には宣命使を務め』ているとある。
「難波家」藤原北家花山院流。羽林家の家格を有する堂上家の一つを成す公家で、分家の飛鳥井家と並ぶ蹴鞠の二大流派の一つ。南北朝時代に、一度、断絶したが、戦国時代に入ってから飛鳥井雅庸の次男宗勝によって再興された。江戸時代の家禄は三百石。飛鳥井宗勝がダブって不審を持たれる方もいようから、ウィキの「難波宗勝」で補足すると、飛鳥井宗勝は難波家十三代で後に飛鳥井家十四代当主となった。彼は、まず、難波宗富の死後に断絶していた難波家を継いで再興し、慶長五(一六〇〇)年に難波宗勝として叙爵して侍従に任ぜられたが、猪熊教利・兄飛鳥井雅賢らとともに御所の官女と密会して乱交した「猪熊事件」によって、後陽成天皇の勅勘を被り、慶長一四(一六〇九)年に伊豆国へと流された』が、慶長一七(一六一二)年に『勅免により帰京』し、翌慶長十八年八月三日、新規蒔き直しで『名を雅胤と改め、生家飛鳥井家の相続を赦された。難波家』の方は子の『宗種が継承した』。その後、彼は寛永一六(一六三九)年に『権大納言となるが、翌』年に辞した。寛永二一(一六四四)年には武家伝奏となり、慶安四(一六五一)年に従一位に昇り、同年三月二十一日に六十六歳で没している。因みに本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞録であるから、この父宗勝(雅胤)とその子の宗種の両家継承から百六十年も後のこととなる。
「目代」代理人。
「その國の官位をのぞむ人」蹴鞠の官位を望む人であるので注意。
「露はらひ」「露拂ひ」。宮中で蹴鞠の会が行なわれる際に、まず、鞠を蹴って「懸(かかり)」の木の露を払い落とすこと、及びその役を勤める人。ウィキの「蹴鞠」によれば、「懸」(「鞠壺(まりつぼ)」「鞠庭(まりば)」とも呼ばれる)とは、四隅を元木(もとき:鞠を蹴り上げる高さの基準となる木)で囲まれた三間(五メートル四十五センチメートル)程の広場の中で行う。その結界には砂を敷き、四隅の艮(東北)に桜、巽(東南)に柳、坤(西南)に楓、乾(西北)に松を植える。東を「堂上の入り口」、南を「地下の入り口」、西を「掃除口」とする。懸の樹木には梅や椿などの季節のものを用いることもあり、その樹と鞠垣(本式の際の懸の周縁部の広域結界)との間を「野」と称するなどとごちゃごちゃ書いておいて、やおらお最後に、但し、禁裏・仙洞・皇族・将軍家並びに家元は「懸」には松ばかり四本、また、臨時には枝又は竹を用い、「切立(きりたち)」というなどとある。「何じゃ? こりゃ?!」って感じ。]