譚海 卷之三 南殿の櫻
○南殿(なでん)の櫻枯てそのたねなき時は、梅にうえかへらるる當例也。江戶東叡山御門主の庭にも、梅橘左右に植られてあり、紫宸殿(ししんでん)に櫻を植らるゝ時は、東叡山には梅を植らるゝなり、其まゝに擬する事を遮る事といへり。
[やぶちゃん注:「南殿(なでん)」「なんでん」の撥音の無表記。紫宸殿の異称。内裏の南側の中央に位置しているのでかく言う。内裏の正殿で、内裏の南部分にある第一の御殿で、当初はは節会(せつえ)・季御読経(きのみどきょう)・立后・立太子・天皇元服などの通常の公事(くじ)が行われたが、大極殿(だいごくでん)の廃亡とともに、即位や大嘗会(だいじようえ)・朝賀などの重要な儀式も行われるようになった。内裏のほぼ中央の位置に仁寿殿(じじゆうでん)があり、その南にある。南に広い白砂の南庭を配した。なお、桜の品種に南殿桜(なでんさくら)があるが、これは、この紫宸殿の南側の庭に自生していたことに由来する。紫宸殿の有名な「左近の桜、右近の橘」の「左近の桜」がそれ。花は薄い桃色を呈し、気品があり、豪華な花を咲かせる八重桜(花弁数が六枚以上で八重咲の桜の総称)の中でも一際、美しい品種である。グーグル画像検索「南殿桜」をリンクさせておく。
「東叡山御門主」三山管領宮の敬称の一つである東叡大王(とうえいだいおう)のこと。「東叡山寛永寺にまします親王殿下」の意。ウィキの「東叡大王」によれば、上野東叡山寛永寺貫主は江戸時代の宮門跡の一つで、日光日光山輪王寺門跡を兼務し、比叡山延暦寺天台座主にも就任することもあり、全て宮家出身者又は皇子が就任したことから、三山管領宮とも称された。『これは、敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合、徳川氏が朝敵とされるのを防ぐため、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという江戸幕府の戦略だったとも考えられる。こうすれば、朝廷対朝敵の図式を、単なる朝廷の内部抗争と位置づけることができるからであり、実際に幕末には東武皇帝(東武天皇)の即位として利用している』。十三代、続き、その内、第七代に限り、『上野宮(寛永寺貫主)と日光宮(日光輪王寺門跡)が別人であるが、第』七『代日光宮は第』五『代の重任であるため、人数の合計が』十四『人にはならない。また出身は閑院宮から』三『人、伏見宮から』二『人、有栖川宮から』三『人、あとはすべて皇子である』。『主に上野の寛永寺に居住し、日光には年に』三『ヶ月ほど滞在したが、それ以外の期間で関西方面に滞在していた人物もいる』とある。]