譚海 卷之四 江州風俗の事
江州風俗の事
○近江湖(あふみのうみ)の土を、村民夏に至ればとりて、日にほしかためて火入(ひいれ)にいゝるに、炭の如くよく火をたもつ也。その名をすくもと云。又同國鏡の宿に源九郞義經の住宅今に殘りて有、その地の神主の宅地の内にあり。此所に鏡の宿の長(をさ)の子孫といふものも有、またゑこまの德勝寺といふ禪寺有、卽(すなはち)ゑこまといふ所は淺井家の領地にして、淺井三代の墓も此寺にあり、御朱印二百石の寺也。長澤といふ所に福田寺(ふくでんじ)といふ本願寺派あり、開山は淺井家の臣にて、德勝寺の旦那也。今は京都より藤浪殿御子息住職にて華麗なる事なり。又高宮には金光寺といふ本願寺派あり。是も開山は高宮三河守とて、淺井家の味方せし人の末也。太閤秀吉公若年の時、此金光寺に奉公せられしよし、其時の自筆の日記什物にて今にあり。太閤若年よりなでしこを愛せられしとて、はしかたしごきといふ事、今にことわざにいひ傳ふ。金光寺は元來淺井家草創の寺也。又長濱といふ所に大通寺とて本願寺派有、開山は後鳥羽院の御末にて、播磨の御房と申(まうす)人の御弟子也、此末寺八百箇寺に及べり。その内に毛坊主と稱するもの有、頭をざんぎりの如くして、衣を着し妻帶にして、一村の旦那寺の事を取行ふ、毛坊主村とて一村有。
[やぶちゃん注:「火入」煙草などの火種を入れておく小さな器。
「すくも」葦や萱などの枯れたもの。一説に藻屑或いは葦の根とも。
「鏡の宿」平安時代から見える近江国蒲生郡鏡山の北(現在の滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡。グーグル・マップ・データ)にある東山道の宿駅。早朝に都を出た旅人の多くが最初の宿泊地とした。「平治物語」で源義経が自ら元服した地として知られる。承安四(一一七四)年三月三日、十六歳であった遮那王(牛若丸)は、稚児として預けられていた鞍馬寺を出奔し、その日の晩、この鏡の宿に到着すると、夜も更けてから、自分で髻(もとどり)を結い、懐から取り出した烏帽子を被って元服したとされる。成人した名を付ける烏帽子親もいないかったことから、自ら「源九郎義経」と名乗ったとされる(以上は概ね当該ウィキに拠った)。
「源九郞義經の住宅今に殘りて有、その地の神主の宅地の内にあり」この場所は現在の鏡神社(前記同地に所在)の近くと考えられる(後注参照)。「竜王町観光協会」公式サイトの「鏡神社」の解説に、『垂仁(すいにん)天皇の御代(紀元元年)に帰化した新羅(しらぎ)国の王子天日槍(あめのひぼこ)の従人がこの地に住んで陶芸、金工を業とするに及び祖神として彼を祀ったことに始まり、のち近江源氏佐々木氏の一族鏡氏が崇敬して護持(ごじ)したと伝えられています』。『本殿は三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)、こけら葺(ぶき)で南北朝時代の建築で国の重要文化財に指定されています』とあり、さらに『源義経(みなもとのよしつね)元服のおり参拝』をした神社とし、『鞍馬をこっそり抜け出した牛若丸は兄頼朝を尋ねんと、奥州の金売り吉次と下総の深栖(ふかす)の三郎光重が子、陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同伴して東下りの途中近江の「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥傳(さわやでん)」の屋敷に泊まります』。『平家の追っ手が探しているのを聞き、稚児(ちご)姿で見つかりやすいのを避けるために元服することを決心します』。『そこで地元「鏡」の烏帽子屋五郎大夫(ごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子(えぼし)を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし』、『元服をしたと伝えられています』。『自らが鳥帽子親となって名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と名乗り、源氏の祖である新羅大明神(しらぎだいみょうじん)と同じ天日槍(あめのひぼこ)を祀る鏡神社へ参拝し、源氏の再興と武運長久を祈願したのでした』とした後、『源氏は新羅系、平家は百済系と言われています』と注する。『鏡神社の参道には義経が参拝したときに松の枝に鳥帽子をかけたとされる鳥帽子掛けの松があります』ともある。恐らくグーグル・マップの同神社のサイド・パネルのこちらの切株がそれらしい。
「鏡の宿の長」前注の引用に出るところの澤彌傳であろう。同じく「竜王町観光協会」の「源義経宿泊の館「白木屋」(しらきや)跡」の解説に、『本陣の東隣りが「源義経宿泊館跡」で現在は畑地となっており、中央に石碑が建てられています』。『京都の鞍馬寺より奥州下向の途中、近江の「鏡の宿」(滋賀県竜王町)に着いた牛若丸一行は、当時の宿駅の長(おさ)であった澤弥伝』『の「白木屋」の旅籠に泊まりました』。『源九郎義経となる義経誕生の地です』。『写真のような藁葺きの屋根でしたが』(旧写真有り)、『現在は台風のため』、『壊れてしまい、取り除かれて石碑のみとなっています』。昭和三十『年代までは義経にあやかる男児の「とがらい祭り」』(サイト「祭の日」のこちらによれば、毎年十二月第二の午の日に鏡の宿で元服した源義経を忍び、子供と老人が語り合う祭りで、義経の御霊を招き奉る「湯たて神楽」や神事を行った後、子供たちが、鐘と太鼓を打ち鳴らし、「とうがらい、まあがらい、まぁがあったらとうがらい」と大声で囃しながら里山を練り歩く、その囃子から「とがらい祭り」と呼ばれるようになったとあり、この囃言葉は、当時の宿場町としての鏡の白木屋などの宿屋が、客引きのために「泊まらい、まあ上がらい、まあ上がって泊まらい」と言っていたのが起源とされているとある)『の斎場として使われていました』。『烏帽子屋五郎大夫の屋敷は廃絶し』、今は『民家裏側の竹やぶになっています』とある。位置はサイト「4travel.jp」の「白木屋跡」にあるグーグル・マップで確認出来る。グーグル・ストリートビューのここ。鏡神社の東北東百六十メートルほどの位置である。
「ゑこまの德勝寺」現在の滋賀県長浜市平方町にある曹洞宗徳勝寺。前身は応永年間(一三九四年~一四三八年)に東浅井郡上山田村(現在の長浜市小谷上山田町)に建立された医王寺で、小谷城内に移って浅井氏の菩提寺となったが、浅井氏の滅亡によって長浜城内に移り、江戸時代に長浜城下に、また、移転した。境内には浅井亮政・久政・長政の浅井三代の墓がある(ここまではサイト旅マガジン「プレスマンユニオン」のこちらに拠った)。冠してある地名「ゑこま」の現在地は不詳で漢字表記も判らない。津村が「淺井三代の墓も此寺にあり」と書いているからには、長浜市或いは平方町の旧名でなくてはならないはずだが、判らない。
「長澤といふ所に福田寺といふ本願寺派あり」滋賀県米原市長沢にある浄土真宗本願寺派布施山福田寺(ふくでんじ)。「長沢御坊」とも称される。サイト旅マガジン「プレスマンユニオン」のこちらによれば、『開創当時は布施寺と』称し、『現在の長浜市布施町にあり、三輪法相宗(みわほっそうしゅう)に属し』『たが、後に天台宗となり、鎌倉時代末に今の浄土真宗本願寺派に改められ』、『現在地に移ったのは南北朝時代で』あるとする。『朝廷と関わりの深かった近江の豪族・息長氏(おきながうじ)の菩提寺でもあったことから』、『息長寺とも呼ばれて』おり、『息長氏は、古代、伊吹山山麓で製鉄にかかわったといわれる豪族で』三『世紀の後半』から六『世紀にかけて大和朝廷に皇后を送り込』んだ有力豪族で『米原市の近江町には息長氏の古墳が残されてい』るとある。寺の『南庭は』『国の名勝に指定され』ており、『浅井長政寄進の室町時代前期の石灯篭も優れたもの』であるとあることで、浅井と繋がった。但し、「德勝寺の旦那」はいいとしても、「開山は淺井家の臣」とするのは不審である。再興したのが、その人物というのならば、まだ、判るが。
「藤浪殿」不詳。
「高宮には金光寺といふ本願寺派あり」滋賀県彦根市葛籠町(つづらまち)にある浄土真宗本願寺派金光寺。東北直近が旧高宮宿である。
「高宮三河守」高宮城主高宮三河守頼勝。浅井長政に仕えたが、後に織田信長に応じた。
「太閤秀吉公若年の時、此金光寺に奉公せられしよし、其時の自筆の日記什物にて今にあり」こうした事実や、それらが現存するかどうかも、ネット上では全く確認出来ない。
「太閤若年よりなでしこを愛せられしとて、はしかたしごきといふ事、今にことわざにいひ傳ふ」全く不詳。「はしかたしごき」の意味も諺というのも丸で判らない。お手上げ。
「長濱といふ所に大通寺とて本願寺派有」滋賀県長浜市にある真宗大谷派別院無礙智山(むげちざん)大通寺。「長浜御坊」「御坊さん」と呼ばれる。やはり、サイト旅マガジン「プレスマンユニオン」のこちらに、慶長七(一六〇二)年に本願寺第十二代『教如(きょうにょ)を開基として長浜城内に長浜御堂を創建』されたが、『翌年、慶長』八(一六〇三)年に『本願寺は東西に分立』、『その後、長浜城の廃城に伴って大通寺(長浜御坊)も』慶安四(一六五二)年に『現在地に移転し』たとする。『もともと湖北は、蓮如』『が他力念仏の教えを広める布教活動の拠点だった地』であり、『真宗王国と呼ばれた湖北三郡(坂田、浅井、伊香)の中心道場であった総坊を前身として、長浜城内に長浜御堂を創建した』。『寺伝によれば、入母屋造りの本堂(阿弥陀堂)と書院造りの大広間(附玄関)は、伏見城の建物を徳川家康から東本願寺』の『教如へと寄進されたもので、本願寺(東本願寺)の御影堂として用いたものを、承応年間』(一六五二年〜一六五四年)『に移建したものと』されるとある。
「播磨の御房」不詳。
「毛坊主」「真宗大辞典」の「毛坊主」よれば、『普段は妻子とともに生活し、農林業などを営んでいるが、俗人のままで僧侶の役をする者。近世には、山深く、近くに寺僧がいない所では、そうした家筋があった。俗家の一間を道場とよび、大津絵の十三仏や弥陀の画像、名号などをかけ、袈裟を着て』、『経を読み』、『念仏を称えて、死者を葬した。髪を伸ばした俗人が導師となって弔うので』、『このように称したが、正規の僧ではない』。「本朝俗諺志」四や「笈埃随筆」などを見ると、『飛驒にみられたことが出ている。近江や安芸』『にもそのような道場があって』、『一向宗の手次坊主』(てつぎぼうず:農民・町人などが僧形になって仏事を行う者を指す)『となっていた。この毛坊主の前身は』、『古代から存在した在俗性の強い聖(ひじり)であった』。「日本霊異記」や「三州俗聖起請十二箇条事」などに『出てくる、得度をしない半僧半俗の民間宗教者がそれである。有髪に袈裟を着た法師が俗間に遊行するものもあり』、『彼らをも毛坊主といえないことはない』とある。
「毛坊主村」確認不能。非差別的な臭いがする。]