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2021/02/17

怪談登志男 廿三、吉六虫の妖怪

 

   廿三、吉六虫(きちろくむし)の妖怪

Kitirokumusi

[やぶちゃん注:挿絵は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 「世人(せいじん)、交(まじはり)を結(むすぶ)には、黃金(わうごん)を用ゆべし。黃金、おほからざれば、交、深からず、たとひ、相許容(あひゆるし)て、しばらく交るとも、終(つい)に是、悠々たる行路(かうろ)の人」と、唐の錢(ぜに)なしが、いきどほりしも、實(げ)に去(さ)る事ぞかし。人は、只、金次第にて、大なる馬鹿ものも、上座に胡座(あぐら)[やぶちゃん注:底本は「胡床」。原本に拠った。]かきて、片こと、いへども、

「御尤(ごもつとも)。」

と、うけがひ、世上の是非をも、わきまへ、少し道しれる人でも、金氣、薄ければ、片隅におしこまれ、「月見れば千々に物こそ」と讀むべき風情に、そらうそぶきたるさま、かたはらに見る目も、餘程、太儀なる。人情輕薄、殘ましき人ごころならずや。

 こゝに、下野國古河(が)に隣(となり)て、二つ山赤間(あかま)村などいふ里あり。

 此あたりに、延寳の頃、吉六とかやいふ者、住(すみ)けり。

 ある時、庄屋が内に寄集ることありて、村中の百姓・禰宜(ねぎ)・山臥(ふし)まで、着到(ちやくとう)したる事ありしに、「彼吉六は、母かたの一門に穢多ある」よし、何者か、尋ね聞て、次第に語り傳へ、さゝやき合、百姓のならひ、吟味、張(はり)、庄屋が座敷に寄合の時も、俄(にはか)に、座を押下(おしさけ)、小百姓・水吞風情の者より、末に坐せしめ、咄しあふ事も、万事の談合・評定、吉六へは、一向(かう)、面(おもて)もむけず。

 吉六、甚、怒(いかり)、

「扨々、無念の事かな。我は當村、數年、親代々、筋目も人に負(まけ)ぬ者を。何とて、かくは、ふるまふやらん。」

と、堪へがたく、其座を蹴(けり)立、歸りける。

 庄屋は、此事、心づかず、

「公用の儀を申渡す所に、待かねて歸りたるは、不屆の事なり。」

とて、呼かへして、吟味すれば、吉六は、右の段、有の儘に語りけるにぞ、庄屋も、

『尤の事。』

と、おもひ、座中を呵(しかり)て、

「いづれも、甚、無骨の振舞(ふるまひ)なり。何とて、吉六が座をうばひて、末座(ばつざ)には押下(おしさけ)けるぞ。」

と、吉六を相應の席につけんとするに、百姓共、膝を押合、座を讓るべき氣色もなく、手持ぶさたに見えける所に、當村にて「口利(くちきゝ)」とよばるゝ邪(よこしま)もの、與六兵衞とて、かさ高成中[やぶちゃん注:「かさだかなるなか」。]、百姓、大聲、あげて、

「面倒なり。吉六、一村に住ばこそ、[やぶちゃん注:「すめばこそ」。]言葉もかはせ、人中へ交(まじ)はらんとは、法外(ほうくはい)なり。末(ばつ)座に置も、是非なけれど、我等が了簡にて、さし置なり。庭にても、居よ、吉六。」

と、恥辱をあたへければ、名主をはじめ、年寄など、氣の毒におもひ、

「吉六、堪へられよ。」

と、すかしなだめ、與六兵衞を叱り、

「大切なる評議最中に、甚、不屆千万。」

と、立かゝりて制し、其日は、事なく、皆々、宿へ歸りける。

 吉六、無念に思ひ、其夜、與六兵衞が念仏講に、近所へ行て歸る所を、しのび寄て、

「いかに、與六兵衞、吉六なるぞ。覺へたるか。」

と、拔(ぬき)打に切付たるに、左の腕より、乳(ち)の下へ切込たり。

「わつ。」

と、さけびて、己(おの)が家へ迯籠(にげこも)りたり。

 家内は、いふにおよばず、村中の者、

「盗人よ。」

と、聲々によばはり、松明(たいまつ)を振(ふり)、棒を持て、集(あつま)り、

「ここよ。」

「かしこ。」

と、搜しける。

 吉六は、與六兵衞を迯せし無念さに、猶、

『忍び寄て、本望、とげん。』

と、壁を、うがつ所へ、村の者、

「其、すは。盜人こそ、こゝにあり」

と、目鼻もわかず、打ければ、吉六、聲をはかりに[やぶちゃん注:「ばかりに」。]、

「情なし、人々。盗人にはあらず。吉六なり。晝の無念さをはらさんと、切りかけしが、仕損(しそん)じて、與六兵衞をにがせし故、壁を破り、入べしと、かくは、はからひたり。『一錢半紙もむさぼらぬ我なり』とは、日頃にても、知るべし。きゝつけて給べ。」

と、おめき、さけべど、村の者ども、

「吉六が意趣討(いしゆうち)ならば、猶、ゆるさじ。」

と、たゝきふせ、庄屋・年寄も、はせ來り、村中の年貢藏(ねんぐぐら)に押(おし)入、嚴(きひ)しく守護し、代官所へ達し、吟味の上、「衆口(しゆこう)、金(きん)を消(けす)」とやらん、大勢に、いゝすくめられ、吉六が言譯、にぶく聞へ、盜賊の罪に落され、獄に下りしが、初(はしめ)、亂暴に打ふせられし所の疵(きず)、痛(いたみ)しが、終(つひ)に、獄中に於て、空しくなりぬ。

 與六兵衞、疵も平癒して、何事なく打過けるに、與六兵衞が家に、怪しき事、出來ぬ。

 吉六が古家より、與六兵衞が家内へ、白き玉、一つ、轉(まろ)び入、庭の中を、まろびて、うせぬ。

 かゝる事、每日々々、日をかさねければ、家内は勿論、近隣の者迄、恐れあひ、巫女(みこ)・山臥(ふし)等、入替り、入替り、樣々に祈禱すれど、さらに其しるしもなく、外に怪しき事も、見えず。

 白晝に、かくのごとく、白き玉の飛𢌞(とひめぐ)るのみなり。

 元來、肝太(きもふと)き與六兵衞なりしが、此あやしびに、心をいため、食事を絕(たや)し、打臥(ふし)たるに、例の白玉、枕もとを、轉あるき、與六が五躰(たい)に取附、苦しめ、十日斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]なやみて、死したり。

「吉六が怨念の致す所。」

と、皆人、おそれける所に、打續(つゝき)て、與六が家内、一月を出ず、皆、亡(ほろび)うせぬ。

 それのみならず、彼白玉、田畑の中を、まろびあるく程に、五穀も枯(かれ)渡り、亦、目なれぬ虫の出生(しゆつしやう)して、村中、大きに、苦しむ。

 又、彼玉の轉(こけ)來れば、老若・男女・小兒を隔てず、十日ばかりも煩ふ事、あり。

 是、皆、吉六が怨念なれば、村中、一同に立合て、法事をなして、吊(とふら)ひ、怨㚑(おんりやう)をなだめ、秋每には吉六を祭(まつり)て、田畑の虫を、はらふ。

 今におゐて、彼村には、「吉六虫」と名付て、恐れあへり。

「與六兵衞が、よしなき事、仕出して、永く、一村の憂(うれひ)となれり。」

と、古河(こが)の老人、物語せり。

[やぶちゃん注:『「世人(せいじん)、交(まじはり)を結(むすぶ)には、黃金(わうごん)を用ゆべし。黃金、おほからざれば、交、深からず、たとひ、相許容(あひゆるし)て、しばらく交るとも、終(つい)に是、悠々たる行路(かうろ)の人」と、唐の錢(ぜに)なしが、いきどほりし』盛唐の官僚で詩人の張謂(七二〇年~七八〇年:酒好きの淡白な性格であり、山水を愛し、李白とも親しかった叛乱に関与したとして斬罪に処された)の七言詩(平仄に従っていない部分が多いため、七絶ではなく、古詩に近い拗体(ようたい)である)「題長安主人壁」(長安の主人の壁に題す)に基づく。

   *

世人結交須黃金

黄金不多交不深

縱令然諾暫相許

終是悠悠行路心

 世人(せいじん) 交はりを結ぶに 黃金(わうごん)を須ふ

 黃金 多からざれば 交はり 深からず

 縦令(たとひ)然諾(ぜんだく)して 暫くは相ひ許すとも

 終(つひ)に是れ 悠悠(いういう) 行路の心

   *

詩人が拝金主義の長安人を難じて、泊まった宿所の主人の家の壁に書きつけたというもの。「然諾」許諾して引き受けること。「悠悠」ここは「遥かに遠く隔たるさま」で、疎遠にして無関心にして無慈悲な様態を意味する。

「月、見れば、千々に物こそ」「小倉百人一首」の二十三番で知られる大江千里の「古今和歌集」(巻第四「秋上」・一九三番)の、

    是貞(これさだ)のみこの

    家の歌合によめる

 月みればちぢにものこそ悲しけれ

      わが身一つの秋にはあらねど

である。

「下野國古河(が)」関東地方のほぼ中央、現在の茨城県西端の県西地域に位置する古河市(こがし)附近(グーグル・マップ・データ)。

「二つ山赤間(あかま)村」不詳。

「延寳」一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱・徳川綱吉の治世。

「穢多」江戸以前の被差民の一つで、中世以降に賤民視された一階層。特に江戸時代の幕藩体制下では、民衆支配の一環として、非人とともに最下層に位置づけられて差別された。身分上、「士農工商」の外に置かれ、皮革製造・死んだ牛馬の処理・罪人の処刑及び見張り(警固)など末端の警察業務等にも強制的に従事させられ、城下の外れや、河原などの特定の地域に強制居住させられた。明治四(一八七一)年に法制上は「穢多」「非人」の称は廃止されものの、新たに「新平民」という呼称を以って差別され、それは現在に至るまで陰に陽に不当な差別として存続し続けている。より詳しい解説は、「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の注を参照されたい。但し、この場合、これは誰かが悪意を以って流した偽情報の可能性もある。それは或いは与六兵衛でなかったとは言えない。

「吟味、張(はり)」主だった者たちが秘かに談合して彼を囲い込んで差別することに決し。

「水吞」水呑百姓(みずのみびゃくしょう)。「貧しくて水しか呑めないような百姓」という喩えに始まる江戸時代の貧農の呼称。主に江戸時代の年貢の賦課基準となる石高を所有せず、田地を持てない農民を指した。年貢などの義務がない代わりに、村の正式な構成員とは認められず、発言権も与えられなかった。但し、出自は多くあって、親族からの身分継承だけでなく、百姓の次男・三男以下、本百姓から転落した者などもおり、江戸時代の農村の貧農層を形成していた。

「筋目も人に負(まけ)ぬ者を」血筋を問題にしていた陰の噂を聴きつけていて、暗にそれを否定するものであれば、「家代々の血筋は決して恥じるようなものではない」の意ととれ、別に「貧しくとも当村の農民の確かな一人として、物事の道理は何時もしっかり通してきた」という自負ともとれる。ダブルでよかろう。

「口利(くちきゝ)」この場合は弁舌が巧みなことから出た綽名であろう。但し、「邪(よこしま)もの」と添えるており、後の吉六への罵倒の内容からみて、三百代言みたような詭弁を弄する中身のない口巧者(くちごこうしゃ)とみてよかろう。

「かさ高成中」明らかに座の百姓たちの憤懣が気分として高まっているなか。

「百姓」与六兵衛。

「吉六、一村に住ばこそ、言葉もかはせ、人中へ交(まじ)はらんとは、法外(ほうくはい)なり」「こそ」「かはせ」(已然形)「、人中へ……」の逆接用法。「一村に住んでいるから、仕方なく言葉も交わすけれども、お前のような奴が人並みに村人と同等に交わろうなんどというのは、これ、もう、法外の極みじゃ!」。

「念仏講」念仏を唱えることを契機として結成されている講。普段は毎月、日を決めて、寺や堂に集まり、その本尊や路傍の石仏などへ念仏を唱え、村内安全や五穀豊饒などを祈願する。特に村落内で死者が出た場合には、その弔いのための念仏を唱える集団ともなった。

「一錢半紙」通常は「一紙半錢」(いつし(いっし)はんせん)で「一枚の紙と半文(はんもん)の銭(ぜに)」。謙譲を含めて仏教で「寄進の額が少ないこと」を謂うが、広く「ごく僅かな物或いは金銭の喩えとする。

「衆口(しゆこう)、金(きん)を消(けす)」私は「衆口(しゅうこう)、金(きん)を鑠(と)かす」で知っている。多くの人の言葉、特に悪口が重なると、恐るべき結果を招くことの喩え。讒言の恐ろしさをいう言葉。出典は「国語」の「周語下」に拠る。

「食事を絕(たや)し」食欲が全く無くなり。

『彼白玉、田畑の中を、まろびあるく程に、五穀も枯(かれ)渡り、亦、目なれぬ虫の出生(しゆつしやう)して、村中、大きに、苦しむ。又、彼玉の轉(こけ)來れば、老若・男女・小兒を隔てず、十日ばかりも煩ふ事、あり。是、皆、吉六が怨念なれば、村中、一同に立合て、法事をなして、吊(とふら)ひ、怨㚑(おんりやう)をなだめ、秋每には吉六を祭(まつり)て、田畑の虫を、はらふ。今におゐて、彼村には、「吉六虫」と名付て、恐れあへり』「実盛虫」で知られる、もう典型的な御霊信仰と「虫送り」農事祭事の集合した民俗事例である。しかもこの話、サイト「妖怪条件検索」の「常元虫(つねもとむし)」に、『悪口雑言をいわれたのに腹を立て、その男を殺したために獄につながれ』、『獄死した怨みで虫と化した下野国(栃木県)の〈吉六虫(きっちょんむし)〉、冤罪で打ち首になった怨みで虫となった山梨県六郷町の〈平四郎虫〉、大根を盗んだだけで生き埋めにされ死んだため虫となった大和国(奈良県)の〈きくま虫〉、など数多い』と出るのである。但し、少し調べてみると、位置にズレがあるものの、どうも伝承の震源地は本話のような感じがする(そう指摘する記載もあるようである)。]

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