譚海 卷之四 下野國にて五銖錢を土中より掘出せし事
○天明元年五月、下野國某と云所にて、五銖錢(ごしゆせん)を夥敷(おびただしく)ほり出(いだ)したり。又黃金を掘(ほり)得たるが、みな慶長已前のもの也とぞ。是は小田原北條の臣某と云ものゝ屋敷の跡なり、太闇小田原責(ぜめ)の時、某は小田原に在陣せし跡へ、間道(かんだう)より太閤軍兵を遣し、燒うちにせられし所なれば、其陪臣などうづみおきたるにや、上へ言上(ごんじやう)に及(および)しとぞ。
[やぶちゃん注:「天明元年」一八七一年。徳川家治の治世。
「五銖錢」中国古代に流通した貨幣で、紀元前一一八年に前漢の武帝により初鋳造された。量目(重さ)が当時の度量衡で五銖(二・九五グラム)であり、また表面に「五銖」の文字が刻印されていることから、「五銖銭」と称され隋代(六一八年滅亡)まで用いられた。参照した当該ウィキによれば、『通貨としてより』も、『中国からもたらされた貴重な文物として受け入れられたと考えられ、最も早い例は、弥生時代中期(紀元前』一『世紀)の遺跡である北九州市守恒遺跡から出土した前漢時代の五銖銭(紀元前』一一八年『初鋳)』があるとする。
「慶長」一五九六年から一六一五年まで。慶長八(一六〇三)年二月十二日に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府が開府している。
「太閤小田原責」関白太政大臣豊臣秀吉が小田原北条氏(後北条氏)を滅ぼした「小田原征伐」天正一八(一五九〇)年二月から七月のこと。]