只野真葛 むかしばなし (16)
御守殿(ごしゆでん)樣御腹に、たゞ御壱人の御姬樣いらせられしが、獅山樣御孫なり。はやく御守殿樣はかくれさせ給ひし故、御ぢゞ樣、御ひぞう被ㇾ遊、
「時わかぬ御たのしみなりし。」
となり。
田植を御覽に入らるゝと申こと、年々有しが、いつも天氣あしき内、苗のび過(すぎ)などしてやみしを、
「ことし、御ぜひ。」
と被ㇾ仰し時、
「御屋敷より見ゆるは、わづかなり。」
とて、少し、御はこび有て、大家(たいか)の百姓の座敷をかりて、御しつらひ、御覽被ㇾ遊しことの有しが、うゆる人には、すげ笠と、半てん壹(ひとつ)ヅヽ被ㇾ下しとなり。
女は赤、男は紺とやらにて有し。
晝休(ひるやすみ)の時分、むし物・にしめ・御酒等、被ㇾ下て、田中にて、皆、給りしを御覽有しとなり。ワ、アヤ、おやの藤浦といひし人は、其頃、御中老にて、
「御供せし。」
と、はなしなり。月に、一、二度、袖が崎へいらせられしとなり。
[やぶちゃん注:「御守殿樣」第五代藩主伊達吉村の息子で第六代藩主を継いだ吉村の四男宗村の正室は雲松院(享保二(一七一七)年~延享二(一七四六)年)は紀州徳川家当主徳川宗直の娘で第八代将軍徳川吉宗の養女であった。後の第七代藩主伊達重村の養母。本名は峰姫で、後に利根姫(とねひめ)。伊達家に入ってからは温子(はるこ)と名乗った。この「御守殿」というのは、江戸時代に於いて三位以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の娘にのみ用いる敬称である(その女性の住む奥向きの御殿をも指す)。しかし、父吉村も宗村も従四位上であるのが不審であるのだが、ところが、どっこい、ウィキの「御守殿」を見ると、何んと! 「仙台藩の御守殿の例」にこの二人の例が引かれているのである! 享保二〇(一七三七)年に『仙台藩主伊達吉村の嗣子である伊達宗村と徳川吉宗の養女の利根姫との婚礼が行われたが、これに合わせて藩主嗣子の居住する江戸藩邸中屋敷の一角に御守殿が、幕府の指示の下に造営されることとなる』。『女中居住区画を「長局」と呼称したり』、二『階建ての構造、造営の竣工検査を幕府役人が行った際に鴨居の規模は江戸城大奥の規模に合わせて高くするよう指示されるという具合に、江戸城大奥と共通するように造営された。その後、宗村が』寛保三(一七四三)年に『藩主になり、利根姫が藩主正室として上屋敷に移るのに際して、中屋敷の御守殿に合わせて上屋敷の奥方が改築され』、延享二(一七四五)年に『上屋敷に移住した』。『中屋敷での御守殿の規模は中屋敷の表のおよそ』三『倍で、上屋敷に建設された際は表とほぼ同じ規模であった』とあるから、恐るべし! ともかくも、私の不審をどなたか、晴らして戴けませんかねえ。どんな辞書にも「三位以上」って書いてあるんですけど!?! ウィキの「雲松院」によれば、婚姻とともに、『仙台領内での「とね」と称する女性名の禁止、および利根姫の敬称を将軍養女である点を考慮して「姫君様」と呼ぶよう通達された。また、利根姫の年間経費を』六千『両と決定された』。元文四(一七三九)年に『源姫を出産。源姫は後に佐賀藩主鍋島重茂の正室とな』った(これがここ出る工藤丈庵が可愛がったという「姬樣」である。数え八つで母は亡くなっている)。『なお「寛政重修諸家譜」の伊達氏系図の記述では何故か元文元』(一七三六)年に『娘の源姫とともに江戸城大奥に参ったとある』。寛保三(一七四三)年に『夫の宗村が吉村の隠居を受けて仙台藩主を相続すると、芝口の江戸藩邸上屋敷奥方』『が中屋敷の御守殿に準じて改築され』、延享二(一七四五)年に『温子は上屋敷に移』った。同年十二月三日に二番目の『女児を出産するが』、『夭折し、本人も同年』閏十二月十六日に逝去した。亡くなった時は満二十九であった。
「時わかぬ」どんな時でも。
「苗のび過(すぎ)などしてやみしを」これは獅山公吉村が、梅雨の晴れた日を狙って出向こうと思って、それまで百姓らに「田植えを待つように」と命じさせたところ、「苗が伸びてきってしまって、だめになってしまう」と反対されたのであろう。
「ワ、アヤ、おやの藤浦といひし人」「私(綾(あや))の」であろうが、「おやの」が判らない。「藤浦」「中老」仙台藩に藤浦と姓の重役(中老は家老の次位に当たる)はいない。これは思うに、女性名で、武家の奥女中で老女の次位に当たる同名の中老職だった人物ではなかろうか。]
ぢゞ樣も至極御首尾よく御つとめ被ㇾ成しに、いくばく年をもへずして、御不例[やぶちゃん注:吉村が病気になったことを指す。]にならせられしが、極暑のみぎり、ぢゞ樣、氣根者といへども、晝夜の定詰(じやうづめ)、御居間(おんゐま)はたてこめたる所にて、暑氣にたへかね、御下(おさがり)被ㇾ成(ならるれ)ば、水漬(みづづけ)のめしを上り、物干に、ほろかや[やぶちゃん注:「襤褸蚊帳」であろう。]かけて、御休被ㇾ成しとなり。かの氣根者の一世一度と御つとめ被ㇾ成こと、おろかなることあるべからず。御たんせいのかひもなく、かくれさせ給ひしかば、後(のち)、外宅(ぐわいたく)被ㇾ成しなり。はじめより、はやく、御免の後(のち)外宅の後約束(あとやくそく)にて、召しかゝへと成しや、かく、すみしなり。故御家中に外宅といふはぢゞ樣が、はじめなり。
[やぶちゃん注:吉村は隠居していた袖ヶ崎の仙台藩下屋敷で、宝暦元年十二月二十四日(一七五二年二月八日)に逝去した。享年七十二。工藤丈庵は宝暦元(一七五一)年の主君伊達吉村逝去の際に願い出て、藩邸外に屋敷を構えることを許され、伝馬町に借地して二間間口の広い玄関をもつ家を建てて住んだ。これは既に、まだ、吉村が健康だった早い頃に、「自分(吉村)が、万一、亡くなった後には、工藤丈庵に外に住居を構えることを許すように」という約束を交わしており、恐らく、それを遺言状などにも認(したた)め、息子の現藩主である宗村や藩重臣らにもそのように厳命していたものと推察される。]
« 芥川龍之介書簡抄17 / 大正二(一九一三)年書簡より(4) 十月十七日附井川恭宛書簡 | トップページ | 譚海 卷之四 肥前國溫泉ケ嶽の事 »