譚海 卷之三 禁裏四門の役人
禁裏四門の役人
○禁裏四門の役人は、關東より付置(つけおか)るゝ武家の人御番(ごばん)を勤る也。又御臺所の役人は、京住(きやうずみ)の人たりと云共(いへども)、皆關東の御臺所役人の名目にかはる事なし。是は東福門院御入内ありし時より、關東の人々御供にて參しかば、自然と臺盤所の名目ばかりは關東の役名に成りて、職原(しよくげん)に稱する官名は廢する事に成たりとぞ。
[やぶちゃん注:「禁裏四門」底本の武内利美氏の注に、『京都御所の四方の御門。京都御所の外郭諸門を「宮門」といい。内部には十二の門があり、「閤門」と呼んだ。宮門は建礼門外六門である』とある。
「東福門院御入内ありし時」後水尾天皇の皇后(中宮)であった徳川和子(まさこ 慶長一二(一六〇七)年~延宝六(一六七八)年)。徳川秀忠の五女で徳川家康の内孫。明正天皇の生母。女院号が東福門院。慶長一七(一六一二)年に後水尾天皇が即位すると、大御所家康は和子の入内を申し入れ、慶長一九(一六一四)年四月に入内宣旨が出されたが、「大坂の陣」や元和二(一六一六)年の家康の死去・後陽成院崩御などが続いたため、入内は延期された。元和四(一六一八)年に女御御殿の造営が開始されたが、後水尾天皇の寵愛する女官四辻与津子が皇子賀茂宮を出産していたことが判明すると、入内は問題視され、翌元和五(一六一九)年、秀忠自身が上洛して参内し、与津子の兄弟である四辻季継・高倉嗣良を含む近臣らを配流とし、与津子と所生の皇女梅宮らを宮中より追放することなどで合意した。元和六(一六二〇)年、入内に先立ち、六月二日に従三位に除せられ、同月十八日に後水尾天皇の女御として入内した(以上はウィキの「徳川和子」に拠った)。
「職原」「職原抄」(しよくげんせう(しょくげんしょう))のことであろう。南北朝時代の北畠親房が著した有職書。全二巻。興国元/暦応三(一三四〇)年成立。本邦の官職の沿革を漢文で記述したもの。]