怪談登志男 廿一、木曾路の蟒蛇 / 怪談登志男卷第四~了
廿一、木曾路(きそぢ)の蟒蛇(うはばみ)
信濃國沓掛(くつかけ)は、淺間山の裾野にして、こゝかしこ、燒石(やけいし)、落散(おちちり)、秋の末より、寒風に苦しび、過る人も稀にて、いと淋しさ所なり。夏は刈(かり)ほす秣(まくさ)なんど、㙒より山邊(べ)に、人の、おほく出で、營(いとなみ)、さまざま、おほし。
爰に、小田井(おだゐ)の驛に、安川庄右衞門といふものは、家、冨、人、あまた仕ふ中に、壱人の男、馬を牽(ひゐ)て、裾野に出立、長(たけ)にあまる草の中を、かなたこなたと刈散(かりちら)して[やぶちゃん注:原本は「刈落(かりちら)して」。]、
『馬を、つながん。』
と思へど、あたり、皆、草のみにて、せんかたなく、そこら見𢌞したるに、むかし、山燒(やけ)の時、倒れたると見えて、まつくろに焦(こかれ)たる大木の、草むらに朽(くち)殘ちたるを、幸に、やがて、馬の端綱(はづな)を、つなぎとめ、何心なく、草を刈て居たるに、つなぎ置たる馬、頻(しきり)に高く嘶(いばひ)て、四足を空にし、飛て行。
草刈、あはて、寄て見れば、馬を繫(つなぎ)し朽木、動き騷(さは)ぎて、馬に牽(ひか)れ走を見るより、大に驚き、足にまかせ、馬を慕(した)ひ、追行ければ、馬は、端綱を引きりて、廣野へ飛歸るを、
「得たり。」
と打乘り、一さんにはしりて、沓懸(くつかけ)の家居[やぶちゃん注:「いへゐ」。]、近くなりければ、跡、ふり返り見るに、件(くだん)の松の朽木と見しは、蟒蛇(うはばみ)にて、ほのほのごとくなる舌を出して、馬・人共に、唯(たゞ)、一吞(のみ)にせんありさま。
間近く、追來りしに、日頃、馬に馴(なれ)たる一德、一息(いき)に人家へ乘込たれば、蛇(じや)は、何方へか去りけん、形もなく、漸[やぶちゃん注:「やうやう」。]、人心地つきしが、顏色(がんしよく)、土のごとく、
「からき命を助りぬ。」
と、悅あヘり[やぶちゃん注:「よころびあへり」。]。
此日、沓掛の人家より、農(のう)人、あまた、草刈に出たるが、彼[やぶちゃん注:「かの」。]うはばみを見て、皆々、逃(にげ)歸りたり。
或人、
「其面(つら)を見たるが、大さ、臼(うす)にも增りて見えたり。」
と、いひし。
其長(たけ)は、何程、有つらん、二た目[やぶちゃん注:原本は「一タ目」。]とも見ず、皆、逃たりと語りし。
此事、ちかく享保年中の事なりとぞ。
[やぶちゃん注:「信濃國沓掛(くつかけ)」「沓懸(くつかけ)」中山道の旧沓掛宿(くつかけしゅく)。現在の長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢附近(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。
「淺間山」長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある現在は標高二千五百六十八メートルの、今も活発な活火山である。本篇は末尾に「享保年中」(一七一六年から一七三六年までで十二年に元文に改元される)のこととする。本書は寛延三(一七五〇)年に江戸で板行されている。さて、浅間山の噴火を見ると、享保六(一七二一)年に小噴火が起こり、有意な火砕物が降下して噴石のために登山者十五名死亡・重傷一名とある(ウィキの「浅間山」に拠る)。その後では、有名な「天明噴火」があるが、これは天明三年七月八日(一七八三年八月五日)である。本篇を殊更に実話として、この小噴火の前か後ろかなんどと検証する必要はないが、資料としては掲げておく。
「小田井(おだゐ)の驛」長野県佐久市小田井附近。直線で旧沓掛の南西十キロメートルほどに位置する。
「嘶(いばひ)て」「いばふ」(中古からの古語)は「嘶(いば)ゆ」の音変化で、「嘶(いなな)く」の意。
「四足を空にし」「人が落ち着きを失い、足が地につかないほどに浮き立つ」さまを、連語で「足(あし)を空にす」と古語で普通に言う。ここは「四足」は「しそく」と読んでおく。
「あはて」「慌て」。歴史的仮名遣は「あわて」でよい。
「慕(した)ひ」つけて。
「家居」集落。]
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