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2021/02/13

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 8 / 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)~電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:以下の段落は前の「7」の補足で、底本では全体が一字下げとなっている。]

 吾邦の高僧、海外に名を馳せ乍ら、本國に知られざる例少なからず、之例[やぶちゃん注:「たとへば」。]、慈覺大師入唐求法巡禮行記に見えたる、日本國靈仙三藏如き、中々の學僧にて、淳和帝より學資を賜はりしが、支那にて毒殺され、異國の緇徒[やぶちゃん注:「しと」。僧衆の意。]その跡を弔ひしのみ、其詳傳は傳らず、茅亭客話(五代詩話卷八に引)に、瓦屋和尙、名能光、日本國人也、嗣洞山悟本禪師、天復年初入蜀、僞永泰軍節度使鹿虔扆、捨碧雞坊宅、爲禪院居之、至孟蜀長興年末遷化、時齒一百六十三、此僧德望高かりしのみならず、海外で二百歲近く迄長生とは、偏えに日本の面目也、迥か[やぶちゃん注:「はるか」。]降て十七世紀の初めに伊太利の旅行家「ピエトロ、デラ、ヷレ」が波斯國イスパハンで逢し日本の碩學、「ピエトロ、バオリノ、キベ」(木部か)如き、自在に拉丁語[やぶちゃん注:「ラテンご」。]を使い、道を求てローマに留學したりと(‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843, vol. i, p. 492)、

[やぶちゃん注:「慈覺大師入唐求法巡禮行記」「につたうぐほふじゆんれいかうき(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」と読む(「法」は通常の歴史的仮名遣「はふ」であるが、仏教用語に限っては「ほふ」と読むのを通例としている)。最後に実施された遣唐使(承和五(八三八)年出発、翌年到着。この後、寛平六(八九四)年に、かの菅原道真を大使とし、絵巻で知られる紀長谷雄を副使とする遣唐使が立案されたが、唐国内の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議によって停止となった。その後、大使の任は解かれなかったが(但し、道真は失脚し、延喜三年二月二十五日(九〇三年三月二十六日)に失意のうちに大宰府で没した)、その十三年後の九〇七年に唐が滅亡したため、遣唐使はそこで名実ともに廃止となった)における入唐請益僧(にっとうしょうやくそう:「更に教えを請う」の意で、本邦で既にそれぞれの学業を規定通りに身につけたとされる僧が、その業を深め、疑問を解決するために短期に留学する場合に用いられた呼称)であった慈覚大師円仁(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年:下野国生まれ。出自は壬生氏。最澄に師事した天台僧で、後に「山門派」の祖となった。仁寿四(八五四)年六十一歳で第三代天台座主となった)の出発(当時、四十五歳)から帰国に至る九年六ヶ月に亙る日記。これより前の承和三年・四年と二回の渡航に失敗した後、承和五年六月十三日に博多津を出港した日から記し始め、博多津に到着して鴻臚館に入り(承和十四(八四七)年九月十九日の条)、朝廷から円仁を無事連れ帰ってきた新羅商人たちへの十分な報酬を命じた太政官符が発せられた同年十二月十四日で日記は終わっている。その間の波乱万丈の一部始終は彼のウィキを参照されたい。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで大正一五(一九二六)年東洋文庫刊の写本本文(影印)全四冊と活字本の解説一冊が視認出来る。

「日本國靈仙三藏」平安前期の法相宗の僧霊仙(りょうせん 天平宝字三(七五九)年?~天長四(八二七)年?)。日本で唯一の三蔵法師(「三蔵法師」とは名前ではなく、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶を指す一般名詞で、後には転じて「訳経僧」を指すようになった)。当該ウィキによれば、『出自については不明であるが、近江国(現・滋賀県)の出身とも阿波国(現・徳島県)出身とも伝えられる。「霊船」「霊宣」「霊仙三蔵」とも称される』。『興福寺で学んだ後』、延暦二三(八〇四)年に第十八次『遣唐使の一人として入唐した』。『同期に最澄・空海・橘逸勢らがいる。長安で学び』、八一〇年には『醴泉寺(れいせんじ)にて、カシミールから来た般若三蔵が請来した「大乗本生心地観経」を翻訳する際の筆受』(経典を漢訳する際に梵語の口述を漢文で筆記する係の者)や『訳語(をさ)』(漢語・漢字に置き換える係。現代の翻訳に相当する)『を務めた』。八一一年に『「三蔵法師」の号を与えられ』た。『時の唐の皇帝・憲宗は仏教の熱心な保護者であり、霊仙も寵愛を受けて、大元帥法の秘法を受ける便宜を与えられるが、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗によって、日本への帰国を禁じられた。憲宗が反仏教徒に暗殺されると、迫害を恐れて五台山に移』った。八二五年には『淳和天皇』(じゅんなてんのう:在位:弘仁一四(八二三)年~天長一〇(八三三)年。桓武天皇第七皇子)『から渤海の僧・貞素に託された黄金を受け取り、その返礼として仏舎利や経典を貞素に託して日本に届けさせた。日本側は貞素の労苦を労うとともに霊仙への追加の黄金の送付を依頼し、また日本に残された霊仙の弟妹に、阿波国の稲千束を支給するよう計らった。その後』、八二八年(中唐末期。本邦は天長五年)までの『間に没したようで、一説によれば』、『霊境寺の浴室院で毒殺されたという。唐に渡ってから』、『死ぬまで』、『日本の地を踏むことはなかった』。八四〇年に『霊境寺に立ち寄った円仁が、入唐留学僧・霊仙の最期の様子を聞いている。また』、承和五(八三八)年に『円行・常暁が入唐した際には、霊仙の門人であった僧侶から手厚く遇されて、霊仙の遺物や大元帥法の秘伝などを授けられて日本に持ち帰ったという』とある。

「緇徒」「緇」は黒い色で墨染めの衣で「僧侶」の意となる。

「茅亭客話」(ぼうていかくわ:現代仮名遣)宋の黄休復の撰になる、五代から宋の初め頃にかけての四川の出来事を記したもの。全十巻。私の「怪奇談集」「老媼茶話 茅亭客話(虎の災難)」がある。その三巻(「漢籍リポジトリ」の完全電子データ)の「勾居士」に、

   *

勾居士名令𤣥蜀都人也宗嗣張平雲有學人問答隨機應響著火蓮集無相寶山論法印傳况道雜言百餘篇有敬禮瓦屋和尚塔偈曰大空無盡刼成塵𤣥步孤高物外人日本國來尋彼岸洞山林下過迷津流流法乳誰無分了了教知我最親一百六十三嵗後方於此塔葬全身瓦屋和尚名能光日本國人也嗣洞山悟本禪師天復年初入蜀僞永泰軍節度使禄䖍扆捨碧雞坊宅為禪院居之至孟蜀長興年末遷化時齒一百六十三故有是句

   *

とある(リンク先では影印本も見られる)。当該部のみの訓読を試みる(字体は熊楠のそれに従った)。

   *

瓦屋(ぐわをく)和尙、名は能光(のうくわう)、日本國の人なり。洞山悟本禪師を嗣ぐ。天復の年初、蜀に入る。僞(ぎ)永泰軍節度使鹿虔扆(ろくけんい)、碧雞坊(へきけいばう)の宅を捨(ほどこ)し、禪院として之(ここ)に居(きよ)せしむ。孟蜀(まうしよく)の長興(ちやうこう)年末に至りて遷化(せんげ)す。時に齒(よはひ)一百六十三なり。

   *

もし「能光」が正式な日本名の俗名であったなら「よしみつ」と読める。日本ではあり得ないが、中国での名乗りであるから、あり得ないとは言えない気がする。「天復」は唐の昭宗の治世に用いられた元号(九〇一年~九〇四年)。「僞永泰軍節度使鹿虔扆」唐滅亡後の五代まで及んだ官人で詩人のようである。「永泰軍節度使」は五代の旧唐の南を治めた官名であるから、その上の「僞」というのは甚だ不審であったので、調べてみると、「古今詞話七」(影印本。「中國哲學書電子化計劃」)の「鹿虔扆」を見ると、「鹿爲永泰節度使」とあった。鹿爲永泰節度使」とあった。何のことはない、「鹿、永泰節度使たり」じゃあねえか。阿呆臭! 「碧雞坊」鹿虔扆の所有していた道観の僧坊か或いは彼の別邸か? 「捨(ほどこ)し」喜捨し。「孟蜀」五代十国時代に成都を中心に四川省を支配した後蜀(こうしょく 九三四年~九六五年)の別称国名。「長興」は五代の二番目の王朝であった後唐の明宗李嗣源(しげん)の治世に用いられた元号。九三〇年~九三三年。

「五代詩話」清の王阮亭の原編で、鄭方坤の刪補になる一七四八年序の詩話集成。

 以下、表記は本文レベルに戻る。冒頭の字下げがないのはママ。]

 

之を要するに、段氏決して全く虛構して酉陽雜俎を著したるに非ず、又況んや上に引ける葉限の物語は、往古南支那土俗の特色を寫せる點多く、之を談りし人の姓名迄も明記したれば、其里俗古話學上の價値は、優に、近時歐米又本邦に持囃さるゝ仙姑譚、御伽草紙が、多く後人任意の文飾脚色を加え含めるに駕する者と知るべし、

[やぶちゃん注:「持囃さるゝ」「もてはやさるる」。

「仙姑譚」女性の仙人の話群。なお、中国の代表的な女仙で、「八仙」(中国では仙人は実在の人物と考えられている)の唯一の女仙に何仙姑(か せんこ)がいる。因みにこの「八仙」が七福神の起源とする説があり、とすれば、弁天の原型ということにもなろう。

「駕する」他を凌(しの)ぐ。

 さて。以下は全体が一字下げで「附記」を除いて、本文は本篇のそれよりもポイント落ちである。しかし、これは本「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」への附記ではなく、先に同じ『東京人類学雑誌』に載せた論考「本邦に於ける動物崇拜」(リンク先は私のPDF一括版)の追加記事である。本来なら、「南方随筆」として纏めた際には、それをその記事の後ろに配すべきものであった。私の以上の一括版やブログ版の最後では、そのように処理しておいた。さらに、熊楠が追加した「橘南谿の西遊記卷一」の「榎木の大虵(だいじや)」は、私のお節介で「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(18:野槌)」の注で既にして電子化してある(PDF版も同じ)ので、一切の注を必要としないのである。

 

 附記 人類學會雜誌二九一號に、予が載せたり野槌に似たる事、橘南谿の西遊記卷一に出づ、其略に云く、肥後の五日町、求摩川[やぶちゃん注:初出では「求麻川」とする。]端の大なる榎木の空洞に、年久しく大蛇住り、時々出で現はるゝを見れば病むとて、木の下を通る者必ず低頭す、太さ二三尺、總身白く、長さ纔に三尺餘、譬へば[やぶちゃん注:初出では「譬ば」である。]犬の足無き如く、又芋蟲に似たり、土俗之を一寸坊蛇と云ふ、[やぶちゃん注:初出では「下略、」とし、下方二字上げで「(完)」(これは本「西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)」の論考の「完」の意)とする。]

    (明治四十四年三月、人類第二六卷)

 

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